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番外編その1「それは舞い散る桜のように」

――転校が決まったのは、高校一年の冬のことだった。


 両親からは一人暮らしをしてもいい、と言われた。けれど、僕は両親についていくことを選んだ。

 何も聞かずに頷いてくれた両親には感謝している。そう決めた事情を説明するのは、あんまりやりたいことじゃなかったから。


 諸々の手続きや家を新築する関係から高校二年の春に転校することが決まり、普段は見ない書類にサインしたり職員室を訪ねたりとそれなりに忙しくしていると、あっという間に時間は過ぎてくれた。

 新しい学校、新しい制服。一学期には間に合わず少し遅れてしまったから、うまく馴染めるとは思えずだいぶ緊張していた。

 ぼっちも覚悟していたけれど、新しいクラスメイトの人たちは皆親切だった。

 何かと話しかけてくれるし、学校の案内も買って出てくれる。色々と肩透かしに終わって、心底ほっとしていた。


 彼女と初めて会ったのは、そんな転入当日だった。


 朝に見つけた子猫が気になって訪れた学校近くの公園。敷地はそれなりに広く、後ろ髪を引っ張る気持ちをなだめるためだと思っていたら、鳴き声が聞こえた。

 弱々しい声を頼りに探してみれば、枝にしがみつく子猫を見つけてしまった。

 梯子なんて当然ないし、探しに行く暇もあてもない。仕方なく腹をくくって数年ぶりの木登りを敢行し、ようやく子猫に指先が触れたところで、


「――春史くん?」


 姉と似た抑揚の少ない声。でも、気づかわしくそっとかけられたことで、確かに相手を心配していることが分かる。

 冷たい響きなのに優しい音。初めてのはずなのに、どこか覚えがあった。


 集中していたところに不意打ちをくらったこともあって想像以上に驚いてしまい、体が勝手に反応してバランスを崩す。

 せめて子猫を助けないと。それだけを考えて必死に手を伸ばし、ふわふわの体を掴んで抱き寄せると全身を衝撃が襲った。

 受け身を取る暇もなかったが、なんとか背骨も後頭部も無事だった。最近の運の良さに、いつかしっぺ返しがくるんじゃないかと思う。


 痛みを堪えて目を開ければ、雑誌でしか見ないような綺麗な女の人がいた。

 一度見たら忘れられないような美少女は、確かクラスメイトの一人だったはず。

 クラスメイトに『絶対に逆らわないように!』と厳重注意されたから覚えている。

 でも、とてもそんな恐ろしい人には見えなかった。

 受け答えは親切だし、怪我も気遣ってくれたし、それよりなにより、


 笑顔がとても綺麗だった。


 屈託なく嬉しそうに楽しそうに笑う彼女は、木漏れ日を受けてキラキラと輝いていた。

 生まれて初めて、誰かと仲良くなりたいと思った。


 それから、さりげなくクラスメイトに話を聞いたり、彼女を横目に見るなどして機会を伺うようになった。

 そして何故か彼女の幼馴染である小町 花梨が話しかけてくれ、三人で一緒に行動することが増えた。絶対に後で揺り戻しが来る。


 そうして、仲良くなる機会は増えたものの。

 何をどうしたらいいのか全く分からなかった。


 友達は前の学校にもいたし、一緒に帰ったりふざけあったりする友人もいたことはある。

 ただ、自ら率先して友人を作るために動いたことは一度もない。

 友人の作り方。

 改めて考えると、それはどんな試験よりも難問に思えた。


 どうやって友達ってできたっけ、と思い返しても役に立つことは何も出てこない。

 だから、機会は訪れるものの有効に活かせもせず。

 どうすべきか迷っている内に時間は勝手に過ぎ、彼女はさっさと行動してしまう。


 なんとかおっつけ頑張ってみたこともあるけど、それが上手くいったのかは果たして定かではなく。

 通り一遍の褒め言葉ならいくらでも浮かぶが、言われ慣れているであろう彼女に対して口にしても『はいはい』でスルーされるのが目に浮かび。

 結局、そこまでする動機もいまいちつかめないので「まぁいいか」で済ませているのが現状で。


 高校二年の初夏を前にして、結局未だに何もできずにいるのだった――



 半ば叫ぶように帰宅を告げられ、返そうとした傘をもぎとられ――逃げるように走り去る彼女の背中を僕は茫然と見送るしかなかった。

 何か気に障ることをしただろうか。

 姉さんの強引さはいつもだが、今日は特に有無を言わさなかった。そのせいだろうか。

 それとも、やっぱり男の家に上がるのは抵抗があったのだろうか。いや、姉さんもいるからその線はないか。


 姉さんと言えば、今日は……というより彼女に対する反応は変だった。

 いつもなら嫌がって警戒心むき出しにするのに、彼女に対しては匂いを嗅いだり家に上げようとしたり。妙に優しい。

 そうして驚いている内に彼女に逃げられてしまったんだけど。


 今から追いかけても追いつけないだろうし、そこまでしてどうかしたのか聞くのも失礼な気がしてどうにもできない。

 とりとめもない考えをしつつ立ち尽くしていると、


「ハル」

 どこか哀願するような姉の声。

 滅多に聞かない声色に、反射的に振り向く。


「あの子、また連れてきて」

 彼女が去った方に視線を向けて、姉さんが頼んでくる。

 生まれて初めて聞く言葉に、思わず目を見開いた。


 姉さんは、人付き合いが得意な人じゃない。

 というか、僕の100倍くらいは苦手だ。

 目立つ容姿と整った顔立ちのせいで様々な好奇の視線に晒されてきた姉は、人間嫌いと言ってもいい性格になった。


 家族以外の人間には気を許さず、どうしても必要な場合を除いて会話もしない。私的な友人など一人もおらず、仲が良いのは飼ってる犬猫だけ。

 そんなだから大学も通信制で、今はイラストレーターとして生計を立てている。

 才能はあったようで、それなりに依頼も途切れず楽しく仕事をしているようだ。それはいいんだけど、外には一切でない。

 打合せとかで渋々出ることはあっても、それ以外は全く。同業の人や出版の人から誘われたりしないのかなと思うけど、どうやら全部断ってるみたいだ。

 一人暮らしをしなかったのは、引きこもり生活の姉が心配だったのもある。


 そんな姉さんだから、僕が友人を家に連れてくるのを良しとしない。

 家の中に他人が入るのを嫌い、女の子を連れてこようものなら冷たい反応で追い返す。

 幼馴染だって、一度として家に入ったことはない。


 その姉さんが、クラスメイトの女子をまた連れてこいと言う。

 疑問も質問もあふれ出てくるけど、それ以前に不可能に近い頼み事だ。


 彼女が次も家まで送ってくれる保証はないし、そんなに何度も送られるのは流石に男としてのプライドが傷つくし、傘だってわざと忘れるような真似はできないし、それ以外の理由で誘うなんてもっと無理だし。

 何より、彼女は自分のことなどなんとも思っていないだろうし、家に誘う理由もない。

 そう伝えようと口を開き、


「……うん、頑張ってみる」

 言ってしまってから、自分で自分に驚いた。


 なんでそんなことを。不可能だってすぐにわかることなのに。

 そう思えど、嬉しそうに頷く姉さんを前に何も言えなかった。


 なんだか落ち着かない。さっきまでここに彼女がいて話していたのに、今聞こえるのは雨粒が降り落ちる音だけだ。

 ともかく、彼女が姉に好かれたのは嬉しい誤算だ。友達と家族の仲が良いのは喜ばしいことだろう。

 こっちに来てよかったなぁ、なんて考えていると、腕の中でワンと吠えられた。

 タロウを抱えていたことをすっかり忘れていて、苦笑まじりに頭を撫でる。


「ハル、入ろう」

「うん」


 呼びかける姉さんに頷き返して、敷居を跨いで後ろ手に玄関を閉める。

 廊下には迎えに来ていた犬達が寝そべっていて、靴を脱いで廊下に上がるとむくりと起き上がった。

「ただいま、ゾフィー、レオ、アストラ」

 それぞれに挨拶すると、皆が思い思いに応える。


 この中で一番の古株であるゾフィーはセントバーナードの血を継いだ大型犬、その背中に乗って姉さんとじゃれあっているのはレオとアストラの兄弟猫だ。

 いや、本当に兄弟かどうかは知らない。ただ、同じ箱に捨てられていたのでそうだろうと思っている。


 ウチにいる子は、皆捨て子だ。

 拾ってくるのは僕と姉で半々くらい。ウチで育てる子もいれば、里親に出す子もいる。実は引っ越して真っ先にやったことは、近くの動物病院を調べることだった。

 そっと撫でる姉の手に顔をこすりつけるアストラと、軽いパンチを繰り出すレオ。背中で二匹の猫が暴れても動じないゾフィーの頭を撫で、タロウを預けて自室に戻る。


「ただいま、セブン」

 机の上の写真立てに声をかけ、鞄を置く。


 写真に写っているのは、小さな僕と初めて拾った犬。ただ幸せだった頃の思い出だ。

 制服をハンガーにかけて、明日の予定表を見ながら教科書と参考書を鞄に詰めなおす。


 それにしても、今日はなんというか危なかった。

 白峰さんはなんというか、見た目よりも他人との距離が近い人らしい。

 こちらは緊張しまくりだというのに、彼女はなんでもないように軽く距離を詰めてくる。


 学校ではそうでもないのに、プライベートとは分けてるということだろうか。実に大人だと思う。僕にはとてもできない。

 もしかして気を許してくれているのかも、と思ったりもしたが、一切変わらない表情を見て自分の思い上がりだと気づいた。


 そりゃそうだ。あんなに綺麗でモデルもやってるんだから、僕など対象外だろう。

 男として見られているかどうかすら若干怪しい。

 いや、多分見られていない。彼女の距離の近さも、異性として全く意識していないからだと考えると辻褄が合う。


 まるで意識してほしいみたいだな、と頭の片隅で他人事みたいに呟いて自嘲の笑みを浮かべる。僕はバカか。

 初めて彼女が表紙に載っている雑誌を見たときから、違う世界の人なんだと分かり切っていたはずなのに。

 たまたま優しくしてもらって、何か勘違いをしていたらしい。軽く頭を掻いて息を漏らすと、部屋の隅にある台に目が行った。


 そこには、メダルと、ボールと、ユニフォームを着たチームの写真がある。


 懐かしい、もう手が届かない過去。

 割り切ったはずなのに、気が付けば頭を過ぎるもの。未練たらしい、とは自分でも思っている。

 浮かれ騒ぐ為に転校を決めたわけじゃない。サッカーを辞めたのも、こんなふうにうつつを抜かす為じゃない。


 やると決めたことを、やる為に。

 二つは掴めない大事なことを、一つに選んだはずだ。


「……ごめん」

 こんな自分を見られたくなくて、チームの写真が入った写真立てを寝かせる。

 ……いや、咎められている気がして怯えただけか。

 『そんなことがしたくて逃げたのかよ』と言われている気分になったから。


 しっかりしないと。

 深呼吸をして、気持ちを切り替える。


 制服から部屋着に着替え、机に向かう。日が傾くまで勉強したら、夕飯をどうするか姉さんに聞いて風呂の用意をしないと。

 簡単にこれからの予定を立て、参考書を開く。

 とにかく今は勉強だ。それしかない。

 ひたすら問題を解くことに没頭すれば、何もかも忘れて目的しか見えなくなるはずだ。

 そうでなくちゃ、困るのだ。


 気が付いた時には、もうとっくに日は沈んでいた。




 翌朝。

 いつも通りに姉さんを起こし、昨夜のうちに買っておいた二人分の弁当を温めてインスタントの味噌汁にお湯を注ぐ。

 食べ終えた弁当ガラを捨て、次のゴミ出しはいつだっけと確認してから制服に着替える。参考書入りの少し重い鞄を抱え、タロウ達に見送られて学校に向かう。

 そういう、普通の日のはずだった。


 教室内の空気がいつもと違うことに気づいたのは、入ってすぐ。

 まばらに散って話していた人達が、盗み見るような好奇の視線を僕に流してきた。

 この前の球技大会から向けられるようになった視線とは違う。どこか遠慮するような、それでも話題にしたいような。


 昔浴びたものに似ている。

 中学三年の冬、僕の人生を変えた出来事。サッカーを辞めるきっかけ。

 一生忘れないと誓ったあの日から、高校に入るまで学校中から向けられていた視線に。


「暮石くん?」

 声をかけられて振り向くと、榎本さんがいた。


 榎本(えのもと) 絢香(あやか)さん。初日から優しく色々と教えてくれた、朗らかな笑顔の人だ。世話焼きなのと押しが弱いところがあるせいでこういう時に真っ先に貧乏くじを引かされている。特に白峰さん関係で。

 ……ということは、この妙な雰囲気は彼女が関わっているのだろうか。


「暮石くん? 大丈夫?」

 心配げに尋ねてくる榎本さんに、笑って返す。

「えぇ、はい。大丈夫です」

「そっか、ならいいんだけど」

 眉をハの字にしながら一応納得したように頷いてくれる。

 ……この人は苦労しそうだな、と思う。

 変な人に引っかからなければいいけど。


「あのさ、暮石くんって動画とか見る?」

「見ますよ、たまに。動物のやつとか」

 正確に言うと動物園の飼育風景とか病気や生態に関するものしか見ないが、動物ものには違いない。突っ込まれたら正直に言うしかないが。


 榎本さんは、あー、と眉をハの字のまま苦笑して、

「なるほど、じゃあ知らないか。あの、『まきまき☆ちゃんねる』っていうのがあるんだけどね」

「はい」

 全く知らない名前が出てきたので、とりあえず頷いた。

 名前から一切中身が想像できない。


「そこで動画投稿してる『まきちゃん』っていうのがうちの学校の一年生で、ここの生徒は結構見てたりするの」

「そうなんですか」

 本当にいるんだ、そういう人。

 動画もテレビみたいにどこか遠いところの人たちがやってるような気がしていたから、どう反応していいか困ってしまう。


「一応世間的には伏せてるんだけど、あの子もあんまり隠そうとしてないから……ま、まぁ、それはいいとして。昨日、そこで投稿された動画がね、」

 そこで榎本さんは一旦言葉を切って、咳ばらいをするふりをした。

 ちらりと周囲を見て逃れられない空気を感じると、目を閉じて口と眉をもごもごと動かす。


 よほど言いにくいことなのだろうか。でもいまだに話の中身が想像つかない。

 一体どんな動画が投稿されたら僕にこんな反応をするのだろう?

 榎本さんは一つ息をついて、観念したように目を開けた。


「白峰さんが男の人の車から降りるとこが映ってたの。昨日の夜だって」


 言われている言葉の意味が分からなかった。

 白峰さんが、男の車から。


 昨日の夜と言えば、何故か逃げられてしまった後のことだろう。誰かと待ち合わせでもしていたんだろうか。

 だから、あんなに焦って出て行ったのかな。

 いや、でも、事務所の人とかマネージャーさんってことも、


「男の人は、護堂 衛士さん。何度か白峰さんとお仕事で一緒になったことあるモデルさんで、最近は俳優もやってるの」


 いきなり否定された。

 榎本さんはどこか気づかわしげに僕を見つめてくる。


 いや、そんな目をしなくても。確かになんだか凄いことになってますけど、僕には関係ありませんし。

 いえ、友人として色んな心配とかそういうのはあるんですけど、どのぐらい親しいかと問われても答えられないくらいの関係性ですから。

 ただ、この一月半くらい仲良くさせてもらっているだけです。


 そう言おうとして、なんだか妙に言い訳がましいなと思って口を閉ざす。

 何も言わないとそれはそれで妙な誤解を与えそうで、

「そうですか」

 とだけ口にした。


「あの! でも、まだ確実にそうってわけじゃないの! 夜だしスマホ撮影だし遠目だしで、はっきりそうだって言えないから! 特に男の人の方は!」

「はい」


 榎本さんが焦ってまくし立ててくれたので、頷いておいた。

 そんな焦らなくていいですよ、と言葉にしたいのにどうにも舌の動きが鈍い。

 なんだか頭も少し痛くなってきた気がする。風邪でも引いただろうか。


「何かわかったら知らせるから! えっ、と、その、は、はやまらないでね!?」

 わたわたとフォローしてくれる榎本さんに、なんとか笑い返せたと思う。

「はい、わかりました」

 ほっと胸をなでおろして、それじゃあ、と榎本さんは友人たちのところに戻っていく。


 それにしても、はやまらないで、とはどういう意味だろうか。

 一体何をどうはやまるというのか。多分、勢いで口にしただけだろうけど。


 それにしても、昨日の夜、か。

 何があったんだろう。デートでもしていたのだろうか。もしそうだとしても、何もおかしくないと思う。

 護堂と言う人のことは知らないけど、モデルもやってるくらいだから格好いいんだろう。白峰さんと並べば、お似合いに見えると思う。


 どんな人だろう。やっぱり昨日走って行ってしまったのは、彼と待ち合わせをしていたからだろうか。

 それとも、家に上がることが彼への不義理に思えたからだろうか。

 白峰さんならありそうだなぁ、なんて思っていると頭の片隅がちりっと痛む。


 食あたりでもしたのか、胸のあたりもどこかムカムカする。今朝の弁当、賞味期限は問題なかったはずなのに。

 変に考えすぎだ。少し気分が悪いのを極端にとらえすぎているだけだろう。

 参考書を開いて眺めれば、頭の痛みも胸のムカムカも遠ざかった。やはり、考えすぎだ。

 ただ、なんとなく勉強する気にはなれなかった。


 問題文の上を目が滑っていく。上手く頭に入ってこない。

 まきまき☆ちゃんねる。

 件の動画を確認すればスッキリするかと思ってスマホをタップする。

 検索すればすぐに出てきて、結構な人気者なのだと初めて知った。

 最新の動画をタップして、ぐるぐるとロードするのをぼんやり眺める。


 まだはっきりとしていない、と榎本さんは言った。

 多分、だから妙な気分になるのだ。

 映っているのが白峰さんにしろ違うにしろ、はっきりすれば問題はなくなる。

 ロードが終わり、再生が始まり、


 教室のドアががらりと開いて彼女の声が聞こえた。


 画面を消して鞄に放り込み、なんでもない顔を装った。

次からは元の昼子視点に戻ります

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