第十三話
我に返った時、私は見知らぬ場所にいた。
どこをどう走ったのか覚えていない。傘に当たる雨の音を聞きながら、濡れた制服の冷たさを感じる。
……やっばい、マジで。
頭はすっかり冷えて、お前は一体何をしていたんだと自分を問い詰めてしまう。
思い返しても良くわからない、馬鹿らしい理由で春史くんの家から大脱走をかまして迷子になるという間抜けっぷり。
我ながら呆れ果ててため息が出る。
どうしてこんなことになったんだろう。いや、私がバカだからだけど。それは分かってるんだけどそれ以外の理由が欲しい。
そんな考えにため息が漏れる。
せめて少しくらい覚えがないかと顔を上げて見回せば、遠くにネオンが見えた。街――繁華街が近いのかもしれない。
この町で繁華街と言えば『橋向こう』と呼ばれる場所しかない。自転車を使わないといけない距離で、結構栄えた駅が近くにある。『橋向こう』の理由は、陸橋を渡らないといけないから。
……場所が分かっても絶望しかない。しかも、今いる場所はいつも街に行く道とは全然違う。
横を見れば車用の陸橋があるけど、全然見たことがないやつだ。空を見上げればもうとっくに日は沈んでいて月が浮かんでいる。
ヤバイ。現実感が一気に押し寄せてきて青ざめる。
すぐ近くに見える範囲にあるのはコンビニの明かりだけ。
もうこれはどうしようもない。とりあえず虫みたいに光が強い方へと移動する。暗がりは流石にちょっと怖いし。
ただ歩いていると不安ばっかり増してくる気がするので、考えごとに現実逃避する。
今日初めて会った春史くんのお姉さん――そういえば名前も聞いてない――の前世は、間違いなくリリィだ。
リリィ。前世で私が飼っていた白蛇。
当時の私にとって、唯一の心から信頼のおける友達。
人間の友達がいなかったわけじゃない。前世の中世じみた世界じゃ気心の知れた友達を作るのなんて油田を当てるより難しかったんだから。
……言い訳じゃないよ? ほんとにホント。
特に我がシャミーニ侯爵家は野心が強く、使えるものはなんでも利用してのし上がることを是とする家だった。
当然、嫡女である私もそう教え込まされたし、私自身も両親にとって都合の良い駒だった。
弟はそんな両親に反発してたみたいだけど。
まぁ、私だって好き好んでそんな両親に従っていたわけじゃない。リリィをどこに連れて行っても構わない、という条件付きで駒になることを飲んだのだ。
よくもあの両親があんな条件を飲んだものだ。まぁ、おかげで悪い虫は寄り付かなかったし、ジェラルドとも親しくなれたんだけど。
アルフォンスと別れてからの私の人生には、常にリリィが傍にいた。あの子のおかげで毒を飲まずに済んだこともあるし、暴漢から助けられたこともある。
あの子をバカにしてくる令嬢達を言葉で叩きのめしたことも一度や二度じゃない。普通のペットみたいに甘えたりとかはなかったけど、一生のパートナーだ。
そう、最期のあの時も――
――この薄暗い地下牢の中でどれくらい過ごしただろう。
凍えそうな床の冷たさにも慣れ、背伸びをしても決して届かない高さにある鉄格子付きの窓の向こうを眺めていた。
真っ暗な空に瞬く星。その下を歩いたのはいつだったかもう覚えていない。
首が痛くなって、見上げるのをやめた。
床と同じくらい冷たい壁に背を預ける。
ぼろ切れ一枚じゃ体温が奪われていくばかりだけど、もう気にもならない。
動いたせいで鎖がじゃらりと音を立てる。ご丁寧に両手両足に枷がはめられ、壁にはめ込まれた鎖に繋がれている。
こんなことをしなくても、逃げられないのに。これが見せしめってやつだろうか。
それも、もう終わりだ。
明日がお前の最後だ、とニヤけた笑みで告げた看守を思い出す。
正直、やっとか、と思った。
ジェラルドから別れを告げられたあの日以来、別にいつ死んでも構わないつもりでいた。
もう父も母も家もどうでもいい。元婚約者はキャスリンとよろしくやればいいし、家族そろって四方八方に敵を作っていたから現状も受け入れている。
なんで生きてるんだろう、と牢の中で何度思ったか分からない。
さっさと殺してほしかった。
思うことがあるとすれば、無関係の弟はなんとか軽い罪で済んでほしいということと、
「……リリィ」
掠れた声で呟くと、服の隙間からひょろりと顔を見せた。
リリィ。私の一番の友達。
たった一人、最後まで裏切らなかった子。
白くて長い体を私の腰に巻き付けて、真っ赤なルビーの瞳で真っすぐに見つめてくる。
……蛇の顔からも表情が読めればいいのにな。
「リリィ、聞いて」
口の中が乾ききっていて、声が勝手に掠れる。
喋るのが億劫だと思ったのは、生まれて初めてだ。
「私は、もうダメだから。あなたは逃げなさい」
そう言って遥か上にある窓を目線で示す。
人間には無理でも、リリィならあそこから脱出できるだろう。壁には十分な凹凸があるし、今なら夜闇に紛れられる。
日が昇ったらもうダメだ。リリィの白い体は目立ちすぎる。
すぐに捕まえられて、殺されてしまうだろう。
だから、今が最後の機会なのだ。
だというのに、リリィは動こうとしない。
残った力を振り絞って睨むと、さっと服の中に隠れてしまった。
「リリィ」
もう呼んでも出てこない。
「リリィ……」
喉が痛くなって、それ以上口を開くのを止めた。
半生を共にした白蛇は、私の温度を確かめるようにお腹に頭をこすり付けていた。
何か考えるのも疲れてきて、目を瞑る。
そうして、最後の一夜は過ぎていった。
朝が来て処刑人に引っ立てられ、断頭台に私の首が嵌められた時。
首と木枠の隙間から、リリィが顔をのぞかせた。
くりくりとしたルビーの瞳は、最期の瞬間まで私を見つめていた。
私が死んだ日は、親友が死んだ日にもなった――
クラクションの音にはっとなり、顔を上げる。
しまった、うっかり物思いに耽ってしまった。
軽く周囲に視線を走らせる。迷子が現在位置を調べても無駄なことに気づいたのは、見覚えのない建物に囲まれているのを見た後だった。
ため息をついて、とりあえず道なりに歩き出す。立ち止まっていても何も解決しないし、一応光のある方向を目指していたはずだ。一応。
もう一度クラクションが鳴る。
すわトラブルでも起きたか、と音に釣られて振り向けば、
「あ、やっぱり昼子ちゃんだ」
車の窓から軽く身を乗り出して、軽薄そうな男が手を振ってきた。顔には覚えがある。
花梨狙いのイケメンモデル。昔を思い出していたせいで名前まで出てきた。
……何も見なかったことにしようかな。
げんなりしているうちに、徐行運転で横につけられてしまう。
「どうしたの? こんなところで」
「……いえ、別に」
「なんか疲れてるね……違ったら悪いんだけど、道に迷った?」
気づかわしげに訊ねてくる男に、曖昧に笑って返す。
妙にコミュ力高くて洞察力もあって厄介だなぁこいつ!!
まぁ、そうでもなきゃ業界じゃ生きていけないんだろうなとは思うけど。
そーいえば、こいつは昔っから妙に察しが良かったな……あぁ、ヤなこと思い出した。
おかげで逃れようのない証拠を掴まれて断頭台に一直線だったんだ。
男は軽く眉根をひそめた後、
「送ってくよ」
と爽やかな笑顔でのたまった。
私が何か反応する前に助手席のドアを開けられ、無言の圧を寄せてくる。
……これが春史くんだったらなぁ、なんて考えが頭をよぎって、思い切り頭を振って追い出す。
私は花梨が一番、私は花梨が一番、しっかりしろ私!!
こんな奴に借りを作るわけにはいかないでしょ!!
断ろうと口を開き、
「それとも、昼子ちゃんの家ってこの近く?」
何気なく放たれた一言が私の胸を貫く。
日は沈み、現在地は分からず、連れもいない。携帯はあるから最悪なんとかなるけど、今にも母親から電話がかかってきてもおかしくない。
そんなことになったら今まで何してたんだって話になって全部説明するハメになり、下手して話が広がると春史くんが気に病みかねない。
そしたら折角縮まった距離が……!!
いや縮まったのか? 縮まったよね? いやいや別にそうでなくとも構わないんですけどいずれ花梨とラルフがくっついた後を考えると今のうちに、
仕方なさそうに笑う彼の顔が鮮明に浮かび上がる。
「8丁目の東谷病院の前までお願いします」
車の中に乗り込んで、シートベルトを締めた。
車用の陸橋と分離して下を行く道の幅は車一台分。下手な押し問答は周りの迷惑になる。
だから、これは不可抗力と周囲への配慮による消去法での選択であって、仕方ないことなのだ。
家族に心配をかけるわけにもいかないし。
男は笑顔を崩さないまま、オッケー、と呟いて、
「初乗り420円になります」
「……後部座席に座っていいですか?」
「冗談冗談、昼子ちゃんだったらいつでもタダで使っていいよ。笑顔を見せてもらえたらもっと嬉しいけど」
クッサい台詞を言う運転手を胡乱げな目で見やる。
彼は愉快そうに笑ってシートベルトを確認すると、車を走らせた。
鼻歌交じりに運転する彼は、意外にもだいぶ紳士的だった。
運転そのものもそうだが、何気ない話題を振ってくれたり、無言でも気にしなかったり。
目的地まであれこれ聞かれるんだろうなぁと構えていた私は、だいぶ肩透かしをくらわされてしまった。
つい気が抜けてしまって、
「歌、好きなんですか?」
なんて尋ねてしまった。
信号待ちの間とかで鼻歌を歌うものだから、少しだけ気になったのだ。
「ん? んー……まぁそこそこ好きかな。子供の頃は歌手になりたいって思ったこともあるし」
「へぇ」
どうでもいいといえばどうでもいいが、多少の興味は引かれる。
子供の頃は誰だってそんな夢を持つだろうが、こいつくらい見た目が良ければよほどの音痴でもない限りどうにかなったろうに。
「調子に乗って養成所みたいなとこに顔も出したけど、自分とはレベルが違うってわかってすぐに諦めたよ」
「そうなんですか」
意外に諦めがいいのねぇ。
だったら花梨の事もさっさと諦めてくれると嬉しいんだけど。
「これは、まぁ、グループ組まないかって話があってね。ほら、最近そういうの人気でしょ?」
黙ってうなずく。
〇人組男性アイドルグループ、みたいなのは確かに人気だ。あちこちで見かける。
「歌もやるっていうからさ、その……練習、みたいなもの、かな」
「……そうですか」
恥ずかしそうに口にする彼から視線を外し、胸の内に芽生えた奇妙な感覚を持てあます。
前世の彼は、アイドル活動みたいなのとは正反対のところにいた。
彼の名はエッジ・ゴーティエ。私の護衛騎士だった男だ。
真面目で実直、剣の腕も立つ。口数は少なく淡々と任務をこなす、護衛騎士の鑑みたいな人だった。
両親からの信任も厚く、私の社交界デビューから最期の年までずっと護衛を務めてくれていた。
そして、私を裏切り、キャスリンをハメるための密約を交わした書類を貴族議会に提出した本人だった。
最後に会った時の言葉を今も覚えている。
『貴女が醜く変わり、暗闇に染められキャスリン嬢を傷つける様をこれ以上見ていられなかった』
……要はこいつもキャスリンに心奪われた一人だったのだ。
だから、私はこいつを警戒した。花梨を昼ドラみたいなドロドロの三角関係にもつれこませるわけにはいかない。
花梨とラルフの幸せな未来の為には、こいつが花梨に近づくのはご法度なのだ。
でも、それは私の間違いだったのかもしれない。
前世のエッジと今世のこいつ――護堂 衛士は別人だ。エッジなら、アイドルや歌手みたいな目立ってしょうがない代物には興味を示さなかっただろう。
こいつ――護堂さんは今の人生を懸命に生きている。勝手に前世を重ね警戒し、失礼な態度を取ったのは大きな間違いだったんじゃないか。
春史くんが、アルフォンスではないように。
私がバカみたいに空回りしていただけなんじゃないだろうか。
ため息が出る。
自分に呆れるのは今日だけでもう何回目だろう。
自己嫌悪の渦に落ち込みかけていると、車が止まった。
「ここでいいよね?」
護堂さんに尋ねられ、すぐそばにある一番大きな建物を見上げる。
東谷病院。うん、間違いない。
「はい、ありがとうございました」
丁寧に頭を下げ、シートベルトを外す。
助手席のドアハンドルに手をかけ、
「昼子ちゃん、ちょっと待って」
声をかけられ、振り向いた。
護堂さんが真面目な顔で懐から名刺を取り出し、さっと何かを書き込む。
「これ、持ってって。プライベートなやつの番号もあるから」
手渡されたそれを見ると、確かに手書きの番号があった。
いまいちどういうことかよくわからない。前までだったら花梨に近づくためだろうと思っていたけど、今はなんだか違うように思える。
とりあえず相手の出方を伺おうと視線を上げれば、真剣な顔の護堂さんと目が合った。
「いつでもかけてきて。今日みたいにタクシー代わりでもいいから。何かあったら、絶対に君の力になる」
どういう意味だろう?
いや、言ってる言葉は分かる。分かるんだけど意図が掴めない。
単純にめちゃくちゃいい人っていう可能性もあるんだけど、なんだかそれもしっくりこない気がする。
上手く理解できずに目を瞬かせると、
「何があったか知らないけどさ。君には元気でいて欲しい」
護堂さんは軽く息を吸い込んで、
「俺は、君のことが好きだ」
少女漫画でもなかなかお目にかかれない告白をされた。
……ん? 告白? いや、告白だよねこれ?
はぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁ!!!!????
ど、どどどどっどっどどどどういうこと!?
ヤバいさっぱり意味が分からない!! 何が起きてるのか理解できない!!??
「だから、俺を頼って欲しい。何があっても駆けつけるから」
真顔で言われ、ますます私は混乱する。
どうすればいいのか何一つ分からず、手の中の名刺を握りしめ、
「しっ、失礼します!!」
勢いよくドアを開けて必死で外に逃げ出した。
昼子ちゃん、と名前を呼ばれた気がする。するけど、足は止めない。
歩き慣れた道を走り抜け、マンションの中に駆け込み、早く来いと念じながらエレベーターのボタンを押す。
心臓がバクバクうるさいのは何のせいなんだろうか。
チン、と小さな音を立てて目的の階につき、家に駆けこんでドアを閉めた。
「フフッ、『白蛇姫』よ。今日はだいぶ“夜”に“誘われた”ようだ……姉ちゃん?」
「夕太、ごめん」
靴を脱ぎすて、待ち構えていた弟の横をすり抜けて部屋にたどり着く。
扉を閉めて、ようやく安心して深く息を吐く。
体中の力が抜けて、ずるずるとへたり込んだ。
「……いくらなんでも、違いすぎるでしょ……?」
いくら今世と前世は関係ないって言ったって。
キャスリンから私へ乗り換えとか、やっていいことと悪いことがあるでしょ。
……いや、別に乗り換えでもないんだけどさ。
何も考えたくなくてベッドに倒れこむ。
名刺が手の中でぐにゃりと形を変える。
あぁ、もう何もかも嫌だ。全て忘れ去って眠りたい。
目を閉じてみるけれど、神経がささくれ立っていて眠気を追い出してしまう。
ごろんと寝返りを打つ。
腕で無理やり目をふさいで、声にならない嘆きを漏らす。
――明日、どんな顔をして春史くんに会えばいいんだろう――
一番考えたくないことがぽっかりと浮かんで、漏らす嘆きが大きくなる。
明日なんかこなきゃいいのに。
ベッドから起き上がる気力もなく、心配したお母さんが様子を見に来るまで身動き一つ取れずにいた。
翌朝。
予想通りろくに眠れずに朝を迎え、ぼんやりしながら支度を済ませて花梨を迎えに行く。
花梨からも心配されたが、『何でもない』の一点張りで通した。
それ以外どうしろと言うのか。花梨に相談できることでもないし。
それでも、一晩立って冷静になって思ったことはある。
おい私ィ!! なんであそこで断らなかった!?
自分をぶん殴りたくなるというのはこういう時だと思い知った。
あれじゃ可能性があるみたいだ。いや、返事もせずに逃げるように出て行ったから断ったのと同義かもしれない。どっちなんだ。
どっちかは、護堂さんの受け取り方次第ってことになるんだけど……
だからって連絡なんか当然するわけもなく、あの名刺はパスケース行きになった。
一応、他の名刺とかと混ざらないように入れている。前世のこともあって無下にするのもなんだと思うし。
ため息をつきたくもなるが、花梨の前でそれは厳禁だ。すぐに何かあったと察されてしまう。
いつも通り花梨を連れて登校し、いつも通り教室に入る。
その瞬間、教室中にざわっと波が起こった。
……なんかもう猛烈に嫌な予感がする。前にも似たようなことがあったし。
周囲の視線に圧される形で榎本さんがおそるおそる近づいてくる。
うん、今日もお団子に編み込んだ髪が可愛いね。ちらちらとこちらを見る視線は遠慮がちではあるが、妙に好奇心を携えたものだった。
珍しい。普段ならもう少し仕方なくって感じで聞いてくるのに。今日は榎本さんも気になっているみたいだ。
「お、おはよう、白峰さん」
「おはよう……で、何?」
朝だし時間もないから単刀直入に聞くと、榎本さんが肩をびくりと震わせた。
もう少し柔らかい話し方をすればいいのは分かるんだけど、長年培ったものはそうそう払拭できない。
それに、昨日の件で少し機嫌が悪いのも確かだ。
榎本さんは上目遣いにこちらを見ながら、ごくりと喉を動かし、
「モデルの護堂 衛士さんと付き合ってるって、本当?」
特大の爆弾をぶちかましてくれた。
教室中から勇者を称える視線が榎本さんに向けられ、答えを待ち望む空気が充満する。
軽く見回せば、期待と興味に満ちたクラスメイト達が聞き耳を立てている。
視界の端に、無表情で椅子に座る春史くんが映った。
ふっと意識が遠くなるのを感じながら、どこから話が漏れたんだろうと不思議に思った。
次のお話は番外編として暮石春史視点となります




