第十二話
傘が雨粒を弾く音が耳に慣れて意識から追い出される。
たまに通る車の音だけが耳に響く。何も話さないまま私と春史くんは歩き続けた。
世界はあんまりにも静かで、彼と私の二人しか存在していないような気がする。
犬の遠吠えも鳥の囀りも、露店の呼び込みも聞こえてこない。
いや、そんなのこっちの世界に来てからあんまり耳にしたことないけど。
雲に覆われた空は暗く、車のヘッドライトが少し眩しい。
シャァァァ、とタイヤが水を跳ね飛ばす音がする。露天商の売り言葉の代わりにしてはあまりにも静かだ。
勇気を振り絞って隣の彼をチラ見する。
長い前髪が表情を隠してしまっていて、何を考えているのかわからない。
いや見ても多分わからないと思うけど。アルフォンスってそういうとこあったし。
いやいやそれは前世の話で現世の春史くんとは関係ないんですけどね!
視線を斜め下に戻せば視界の端に自分の靴が映る。こんなことになるならもう少し可愛いの履いてくるんだった。
ていうか、それで言ったら最初の言葉選びから間違ってる気がする。
送ってあげる、ってなんだよそれイケメンかよ。春史くんの傘は盗まれちゃったから仕方ないんだけどさ。
前から思ってたけど私って語彙力ないな? なんかこう、いい感じの言葉が出てこない。
まぁ、その反省は後に回すとして。
今はもう少し深刻な問題が起きている。
実は、自分が今どこを歩いているかわかんない!!!
学校を出たとこまでは覚えてるんだけど、そこから先は緊張しすぎてもうさっぱりです!
どうしよう、これ私ちゃんと家まで帰れるかな!?
送るって言った手前なんか恥ずかしくて道分かんないって言いだせないし!!
どうしよう、ほんとに。
何の役にも立たない考えをぐるぐると巡らせながら、動揺が顔に出ないように黙々と歩く。
もういっそ恥ずかしさを堪えて正直に言おうか。
そしたら、逆に春史くんが送ってくれるかもしれない。
このまま二人で彼の家まで歩いて、玄関先で別れる直前に「道がわからない」って泣きついて。
「そうなんですか」なんていつもの調子で春史くんが言って、靴箱の隣にある傘立てから予備の傘をとって、「送りますよ」なんて微笑んでくれて。
二人で傘を並べて、時々通り過ぎる車のライトに照らされながら私の家まで、
あまりにも都合のいい妄想を強引にねじ切って捨てた。
私はアホか!? 少女マンガを読みすぎた中学生みたいなこと考えやがって!
ヤメよ、そんな恥ずかしい真似とてもじゃないけどできない。
なんとかして記憶の糸を手繰り寄せて帰り道を探し当てよう。適当に歩き回れば見覚えのある道に出るかもしれないし。
あんまり長く歩いた気もしないし多分大丈夫……の、はず。
そんなふうに上の空だったから、隣の春史くんが足を止めたのに気付くのが遅れて、つんのめるように立ち止まってしまった。
「大丈夫ですか?」
摘まんでいた彼の袖を思いっきり握りしめることでなんとかこけるのは避けられたけど。
やたらと恥ずかしくなって慌てて手を離し、
「えぇ、平気」
なんでもないですよ、という澄まし顔で頷き返す。
うまくできてるかはちょっと自信ない……ていうかなんでこんな時までこんな態度なんですか私は!?
もーちょっと可愛らしい反応ができないものか。前世からこんなもんだったけど、せっかく生まれ変わったのに意味ない気がしてくる。
春史くんの視線に耐えられなくて目をそらすと、大きなお屋敷が視界に飛び込んできた。
立派な木造建築で、まるで昔っからこの場所にあったように堂々と鎮座している。
よく見れば真新しい建物だと分かるが、なんだかすごいこだわりを感じる造形だ。
ふと玄関にかかっている表札を見れば、『暮石』と書いてあった。
……暮石?
くれいしぃ!?
思わず隣を見上げると、春史くんが苦笑する。
「ここが僕の家です」
あんたも金持ちか!!
突っ込みそうになった言葉を飲み干して、
「そうなの」
適当に頷いてもう一度お屋敷を見上げる。
見れば見るほど立派だ。敷地面積も相当なものだと思う。高さはともかく横はうちのマンションがすっぽり入りそう。
漆喰の壁、瓦の屋根に丸太みたいに太い梁。門から玄関までは十数メートルくらいあって、長い庇と曇りガラスのはめ込まれた横開きの戸が見える。
木枠の玄関なんてお爺ちゃん家くらいでしか見たことない。古くからある気がしたのはそのせいかも。
そういえば前に家が大きいって話は聞いてたような。テンパってて忘れてたけど確かそのはずだ。
ご両親が貿易会社の役職者であちこち飛び回ってるって話も。
それでもここまでお金持ちとは思わなかったけど。
「すごいお家ね」
淡泊な感想になっちゃったけど心底驚いてるんだよ、ほんとに。
ラルフの家以外でこんなの見たの初めてだし。前世の功徳は積んどくもんだ、やっぱ。
「あんまり広くても掃除が大変ですけどね」
男子高校生とは思えない返しにうっかり笑いがこぼれてしまう。
でも何か春史くんらしいといえばらしくて、お屋敷に気圧されていた心がほっと和らぐ。
家のお掃除とか彼がしてるんだろうか。
もう少し仲良くなってから聞いてみたいことリストに加えて、彼の方を振り向いた。
「送るのは、玄関まで?」
案外さらっと言葉が出てきたことに自分で驚く。
門から玄関まで十数メートル。傘なしだと少し濡れてしまう距離。
送ると言った手前、そこまで面倒を見るのが筋だとは思う。
けど、まぁ、この門の向こうは『春史くんの家』なわけで。
断られたらしょうがないけど、少しの期待を込めてそう尋ねた。
「はい。お願いします」
心の中でめちゃくちゃにガッツポーズを取った。
それと同時に心臓がバクバクと忙しく動きだす。
門の向こうは『春史くんの家』なのだ。
男友達の家に入るのなんてラルフ以外初めてで、ていうかラルフはそもそも別枠だから数に入れてないし、いつも花梨と一緒だから一人でってのはホントのホントに初めてだし!
深呼吸を一回、耳の奥で鳴る鼓動を無視して足を踏み出した。
濡れた鉄門を押し開けて、飛び石の埋め込まれた庭に靴跡をつける。
隣の春史くんの息遣いを感じる。一挙手一投足がやたらと気になって、気づかれないようチラチラと横目に見てしまう。
――死ぬ。これは私が死ぬ。
濡れたらまずいしそんなに大きな傘じゃないからもう少し密着しないといけないんだけど、1mm近づくだけで心臓の音がうるさくて頭が痛くなる。
なるべく彼を見ないよう視線を下に向ける。視界に入ってきた彼の歩幅は、当たり前だけど私より大きかった。
さっきまで意識もしてなかった。ってことは、私に合わせてゆっくり歩いてくれていたってことで。
破裂しそうな鼓動が、倍くらいに速くなる。
玄関の長い庇の下にたどり着いた時、残念に思う気持ちよりほっとした気持ちの方が強かった。
これ以上隣にいると私の命が危うい。
「それじゃ、また学校で」
動揺を隠そうとしすぎて無表情な顔で傘に手を伸ばす。
笑顔の一つでもしたらいいのは分かってるんだけど、表情筋がうまく動いてくれないんです!
胸の奥で痛いくらいに跳ね回るものを抑えながら、早く帰ろうと心に決める。
指先が傘の柄に触れて、
「あの、」
急に話しかけられて慌てて手を引っ込めた。
見上げた春史くんの顔は相変わらず長い前髪で表情が読めなくて、心臓が口から飛び出しそうになりながら聞き返そうと、
バンッ!!
本当に口から飛び出るかと思った。
ひゃいっ、とかいう変な声が漏れた気がする。いや多分の気のせいだ。
春史くんの目が丸くなっているのは、私と同じで音に驚いたからだと思う。
ていうか、何の音!? 息が詰まるくらいビックリしたんですけど!!
ガリガリガリガリ!!
甲高い異音に背筋がぞわっと震える。
音がする方に振り向くと、玄関の曇りガラスの向こうに小さな影が見えた。
なに!? なになに!? どどど、どういうこと!?
小さい影がうごめくとまた異音が鳴る。今度は前より少し強く。
なんか狙われてる!? 狙われてるの!?
思わず後ずさってしまう。ホラーはちょっと苦手なんだよぉ。
目が勝手に春史くんを探すと、平然とした顔をして玄関に手をかけていた。
ちょっとぉ!? 春史くんもそっち系平気な人!?
花梨も『そういうの』は結構好きで、遊園地のお化け屋敷とかスプラッターハウスとかに喜んで人を連れて行くのだ。
怯えるのは私のキャラじゃないのでけっこー無理して付き合うんだけど……っていやいや今はそういうのどうでもよくて!
止めようと手を伸ばしたけれど一歩遅く。
春史くんの意外と大きな手ががらりと横開きの戸を開けた。
――わんっ。
へ?
開いた戸の向こう側から現れたのは恐ろしい悪霊とかじゃなく、
元気いっぱいに舌を出した子犬だった。
随分と愛嬌のある顔をしたラップ現象の正体が春史くんにとびかかる。
「ただいま、タロウ」
今まで聞いたこともないくらい柔らかな声音で優しく子犬を抱きとめる春史くん。
それがあまりにも暖かな光景で、うっかり見惚れてしまった。
タロウと呼ばれた子犬は嬉しそうに彼の顔をなめまわし、それに応えるように春史くんが頭を撫でる。
一瞬、アルフォンスがダブって見えた。
まだ私達が幼かった頃。作法に勉強にダンスにと息苦しい日々の隙を見ては彼と一緒に裏山に入って遊んでいた時。
偶然出会ってこっそり飼うことになった白蛇を、彼は優しい手つきでよく撫でていた。
二つの記憶が混ざり合って、胸の奥がきゅっと詰まる。
「驚かせてすみません」
急に振り向かれて、とっさに反応できず固まってしまう。
すまなさそうに笑うアルフォ……じゃなくて春史くんは私の反応をどう受け取ったのか、慌てて子犬の紹介をする。
「この子はタロウって言います。すみません、たぶん物音か僕の匂いかで反応したと思うんですが、少しはしゃぎたがりというか好奇心旺盛なところがありまして……」
私が機嫌を損ねたと思ったのか、いつもより早口だ。珍しい。
元凶たる子犬のタロウは素知らぬ顔で私をじーっと見つめている。お前のせいなんだぞ、お前の。
たどたどしく話し続ける春史くんが可哀想になって、その口を止めるべく言葉を探した。
「そう。可愛い子ね」
彼がぴたりと動きを止めて目を丸くする。
……なんだか失礼な反応じゃない? 前髪に隠れてても分かるからね、そういうの。
いや私もなんかぶっきらぼうな言い方だったとは思うけど! キャラじゃないかなーと思ったりしないでもないけど!
ちょっぴり腹が立って、春史くんに近づいてタロウの頭を撫でる。
白っぽい毛並みのふわふわした子犬は嬉しそうに目を細めて、私の掌をぺろぺろと舐めてきた。
ヤバい、ほんとに可愛い。
同じ白っぽい色をしていても昔飼ってた蛇――リリィは撫でても微動だにしなくて、じっとこっちを見てきたりする。
だからまぁ、ペットとしては可愛くないんだこれが。強さみたいなものはすごく感じたけど。
……ペットは飼い主に似るって言うけど……これは違うよね?
「人懐っこいのね」
話しかけると、金縛りが解かれたように春史くんが動き出す。
私はメドゥーサか何かか。
「あ、え、えぇ、はい。甘えん坊なんです。姉がいつも家にいて側にいるからか、人と一緒にいるのが当たり前みたいに思っているところがあって」
お姉さん? という疑問は口に出る前に止まってしまった。
そういえば前に聞いたような。お姉さんが一人いるとか。
それにしてもいつも家にいるってどういう意味だろう……そのまま捉えるとニートか何かってことになるんだけど。
聞いてみたいけどご家族のことに踏み込むのもわりと勇気がいる。それに、春史くんはまだ早口状態が治ってないみたい。
なんだか気が削がれてしまった。
傘を返してもらって帰ろう。
どうやって切り出すか考えながら顔を上げて、
思ったより近くに春史くんの顔があった。
今度は私がびたりと硬直する。
これだけ近いと前髪のガードが意味なくて丸くて意外と綺麗な瞳にばっちり私の顔が映っていて頬が赤いけど熱でもあるのかなと思ったりして、
死ぬ。やっぱり死ぬこれ。
余計な考えでもしてなきゃ耐えられない。あぁダメだ思考が止まると命が止まる。
ていうか春史くんなんか喋ってよ! なんでさっきから黙ってるんですか!?
視線を逸らすこともできず硬直したまま見つめあう。
もっさりした髪もあってカッコイイってイメージはない春史くんだけど、よく見ると顔のパーツ自体は悪くなくてどっちかっていうと可愛い系かなと思う。
結構イケメンだと思うんだけどなぁ。よく一緒にいるのがラルフじゃ皆もわかんないか。
少し顔が赤い気がする。雨に当たったせいで風邪でも引いたかな。私の傘に二人はちょっと狭いもんね。
アルフォンスはあまり体が強い方じゃなかったから、春史くんもそうなのかも。
そのくせ剣の素振りとか一人でよくしてたなぁ。私に見つかると、いつも照れくさそうに笑っていた。
さっきの春史くんの笑顔にちょっと似てたかもしれない。
我知らずさっきのタロウを抱えて振り向く春史くんを思い出して、
ああああああ!! やめて!! 余計なこと考えるんじゃなかった!!
だって今その顔が目の前にあるんだよ!? ヤバい、なんか心臓が痛くなってきたっていうか目、目をそらしたい。
超逃げたい。でも、そんなことしたら彼を傷つけるんじゃないかと思うと怖くてできない。いやもう今の見つめあってる状態も十分怖いんだけど。
助けて、誰か助けて。
私の必死の祈りが通じたのか、春史くんの後ろ――家の中から声がした。
「ハル、いるの?」
鈴を転がすような、という例えがある。
澄んだ美しい声色を指す表現で、例えば花梨なんかがその声色の持ち主だ。
彼の家の中から聞こえてきたのも、そんな声だった。
「あぁ、うん。ただいま、姉さん」
少し慌てた素振りで振り向く春史くん。その肩越しに私も視線を向ける。
そこにいたのは、真っ白な少女だった。
いや、春史くんのお姉さんなんだから私より年上で、少女って言い方はないかもしれない。
でも、年上にはとても見えないほど可愛かった。
髪も肌も雪みたいに白くて、瞳だけがルビーのように紅い。手足は長くすらりとして、事務所の社長に見せたら喜び勇んでスカウトしそうだ。
感情の起伏に乏しい表情は、それはそれで神秘的にも見える。切れ長の三白眼がより一層その印象を強めていた。
背は花梨以上私未満。怜悧な雰囲気の美少女といって差し支えないはず。化粧っけもなく、隣に並ぶと下手すると私が年上に見られかねない。
……別に私がケバいってわけじゃなく、身長とか雰囲気の問題で。
肌と同じ真っ白いワンピースを着ていて、それがまるで雪の妖精か何かのように異常に似合っていた。
衝撃のあまり、私は茫然と立ち尽くす。
別に綺麗だったからってわけじゃなくて。……それもちょっとはあるけど。
彼女に、前世の面影がバッチリ残っていたからだ。
なんか私の周り前世関係者多くない!? ねぇ!? あの頃の悪行からは逃れられないってーの!?
……花梨がいる時点でそれは確定してるから今更なんですけど!!
彼女――春史くんのお姉さんはサンダルに足をつっかけて、
「お帰り、ハル。タロウも出迎えごくろうさま」
無表情のまま彼の腕の中で嬉しそうに尻尾を振る子犬を撫でた。
すぐそばに私がいるのに、何も気にした素振りはない。まるで空気のように無視されている。
ある意味とてつもなく冷たい反応……だけど、とても懐かしい。やっぱり、この人はあの子だ。
ていうか、『ハル』て! 『ハル』って!! 弟のあだ名としてはわからなくもないけどねっ!?
ふと、目が合った。
底冷えするような紅い三白眼でじっと見つめられ、背筋に寒気が走って身動きが取れなくなる。蛇に睨まれた蛙ってこんな感じなんだろうか。
ほんと、生まれ変わっても根っこは同じになっちゃうもんだ。
兎にも角にも挨拶くらいしなくちゃと思って、
「こ、こんにちは」
……どもったのは気にしないことにする。
こちらの事なんか完璧に無視して、彼女が顔を近づけてくる。じっとりと絡みつく視線に懐かしさを覚えながら、どうすることもできず棒立ちになる。
小さく鼻を鳴らして匂いを嗅いでいる。多分、前世のクセだろう。
一瞬、動きを止めて小さく目を見開いた。
次の瞬間、彼女に両腕を思いっきり掴まれる。
――なんか今日、ホラーな展開多くない!?
驚いて反応できずにいると、首筋に鼻を近づけて匂いを嗅がれた。
美少女にそういうことをされているとなんか耽美な感じがするけど、やられてる方は絶叫ものだ。
ほっそりした腕は思ったより力強くて、到底振りほどけそうにもない。
なんとか眼球だけ動かして春史くんの方を見れば、ぽかんと口を開けていた。
だいぶまぬ……見慣れない表情の彼は助けを求める私の視線にも気づいていない。お姉さんが普段と違う様子だとは分かったが、その事実は何も現状を変えてくれなかった。
彼女は思うさま鼻をひくつかせ人様の香りを堪能し、
舌で首筋を舐められた。
引きつった声が漏れたのはめちゃくちゃ我慢した結果だ。
「いい匂い」
完全無欠な無表情で素敵なことをのたまった。
これで頬でも綻ばせてくれていればもう少し違う反応もできたかもしれないが、いやそれはそれでなんかめちゃくちゃ困る気もするが、今の私にできる返答は一つだけだ。
「は?」
いやいやいや、私も分かっている。
匂いはあの子にとって唯一の頼れる感覚だったから、前世でのそれが今世でも影響を与えているのだろう。
前世というやつは、存外に今の生にも無関係ではない。人に生まれ変わった例は初めて見るから、結構驚いてるけど。
「あなた、名前は?」
完璧にこっちの反応を無視してくれるとこは変わっても良かったと思うよ!
「……白峰昼子です」
抵抗するのも虚しくなって、大人しく自白した。
どうせ何を言っても無駄だし、一応は春史くんの姉だし。
自分で聞いたくせに彼女は興味なさげに一つ頷いて、
「お茶飲む?」
言うや否や私の手を引いて玄関に上がりこもうとする。
出会って一分でお茶会って早すぎませんかねぇ!? カップラーメンでも三分はかかるんだぞ!!
前世でカップラーメンみたいなのがあったらバカ売れだったろうなぁ、なにせ忙しい人ばっかだったし。私もなんだかんだ自由時間なんてロクになかったなぁ――
――なんて現実逃避してる場合じゃなくって!!
いいの!? なんか、その、春史くんの家にお邪魔するという大イベントのファーストインプレッションがこれで!?
良くないでしょ!!! 良くないよね!?
こういうのはもっとこうそれっぽい会話とか態度とかがあって二人して目を合わせないようにしながらチラチラ見つつ『……あのさ、ちょっと寄ってかない?』『……いいの?』みたいなそういう展開が、
少女マンガの読みすぎによる妄想をねじ切って捨てた。
花梨のお母さん、少女マンガも描くからね。私も結構手伝うことがあって原稿とかめっちゃ読んだりして頭の中にこびりついちゃってるんだよ。
私は誰に言い訳してるんだ……?
玄関が目前に迫りお姉さんの手は振りほどけず、成すすべもないまま半泣きで春史くんの姿を探す。
特に何か考えがあったわけじゃなくて、自分でもなんでかわからないのに目だけが勝手に彼を見つけようと動いていた。
すぐに見つかる。近くにいるから当然なんだけど。
タロウを抱いて、困ったような笑顔でこっちを見つめていた。
プツン、と頭の中で何かが切れた。
足に力を入れてお姉さんの暴走を止め、きょとんとして振り返る彼女のルビーのような瞳を見つめ返し、
「帰ります!」
思っていたよりも強い語気で宣言し、踵を返す。
ぽかんと呆気にとられる春史くんの手から傘をひったくり、観音開きの鉄門を押し開けて早足で歩き去る。
限界だ。これ以上ここにいたら自分が何をするかわからない。
違うのだ。私はもっと冷静で人なんか寄せ付けなくて花梨の為なら他人に嫌われようと構わない女なのだ。
こんな恋愛イベントに惑わされて、フラグを立てられるような女じゃない。
そういうのは、今世でも花梨が幸せになってからだ。
ずっと前から、そう決めていたのだ。
だから、『彼の家に招待される』なんて一大イベントはこんな強引な成り行き任せで済ませていいものじゃないのだ。
そのことを、彼が何一つ気にしていないことに腹が立った。
ダメだ、もう自分が何を考えているかさえよくわからない。
頭の中がごちゃごちゃに絡まりあって、何一つ筋道の通った考えが出てこない。
傘を差してるはずなのに顔に雨粒が当たる。色気のない靴が踏みつけた水たまりがびしゃりと靴下まで濡らす。
言うことを聞かない脳内のCPUが勝手にさっきの場面を再生する。
タロウを抱いて困ったような笑顔でこちらを見る春史くんの姿、
被るように現れるアルフォンスの顔。
かつて、まだ私が『白蛇姫』になる前。
家を抜け出して助けを求めに来た私に与えられる愛しい幼馴染の表情と全く同じだった。
果たして、この胸の高鳴りはどっちに対してなんだろう。
ふと見えたアルフォンスの幻影に対してか。
それとも、春史くんの家にお邪魔する寸前だったことに対してか。
叫びだしたい気持ちを堪えて、代わりに地面を蹴りつける。
とにかく、離れたかった。
『何から』なのかは、私にもよくわからなかった。