第十一話
何かとてもいい夢を見ていた気がする。
電子音に叩き起こされて、だるい身体を持ち上げてアラームを止めた。
あー、結構辛い。球技大会の後に全力で泳ぐとか、そりゃキツくもなる。
花梨は起きれてないだろうな、と思いながらスマホを手にとってチャットを送った。
我ながらおぼつかない足取りで顔を洗い、歯を磨き、髪をセットする。スマホを確認するが、花梨からの返事は来ていなかった。
おば様に連絡し花梨を起こしてくれるように頼み、家族一緒に朝食をとる。
「昨夜の疲れはとれたかな、『白蛇姫』?」
「その名前で呼ばないで」
「随分遅かったが、“球技大会”の後も盛り上がったと見える」
「無理なルビふりはやめなさい」
弟と普段通りの会話をして、食器を流しに置いて部屋で軽くメイクして準備は万端。
疲れは残ってるけど、気分はさっぱりしてる。ようやく日常が戻ってきたって感じ。
鞄を持っていつもの靴を履いて、玄関を開ける。
「いってきまーす」
お母さんが夕太をせかす声を聞きながら、ドアを閉めた。
いつもの道を通って花梨を迎えに行く。寝ぼけ眼で出てきた幼馴染の手を引いて登校し、教室に入る前に自販機でミルクティーを買い与える。
今日はこれでも目が覚めないだろうけど。
自販機近くのベンチにいた花梨の友人に後を頼み、私はラルフのクラスに向かった。
普段は面倒だし目立つからあんまり近づかないようにしてるけど、今日はラルフに話さなきゃいけないことがあるのだ。
「ラルフ!」
朝練上がりの親友を捕まえて、廊下に引っ張り出す。
違うクラスの教室内って入りづらいし、こいつと話す場合は周囲の視線も痛いからこうして外に出るようにしてる。
……効果があるかは若干疑わしいけど。
「なんだよ、どうかしたか?」
そんな私の気遣いや周囲の視線など何も気にせず、天然そのものの顔でラルフが首を傾げる。
ほんっと、前世からこいつは変わんないなぁ!
「ちょっとね、こないだの話なんだけど」
「こないだ?」
頭に疑問符を浮かべる親友に、
「お昼、春史くんに隣譲ってって話」
「あぁ、あれか! ちゃんと協力してるだろ?」
何故そこで胸を張るのか。
あからさまな褒められ待ちの態度を無視して、要件を告げた。
「ごめん、あれナシで」
「はぁ?」
鳩が豆鉄砲くらったような顔でラルフが眉をひそめる。
分かる、すっごく分かるんだけど受け入れて欲しい。
いやね、私だってそりゃ協力してもらった手前、話せるもんなら話したいよ? でもさ、話したらどうなると思う?
『前世で私とあんたは婚約者でした』って、納得してもしなくても大変なことになるでしょ?
その繋がりでキャスリンとかに話が及んだりしたら、もう目も当てられない。
ラルフが思慮深くて心に秘めることができるタイプなら話すのもナシじゃないんだけど、素直や正直通り越して隠し事が全然できないタイプじゃん!
そんなのペラペラ話された日には、私が表を歩けないっての!
それに、花梨や春史くんにだって影響が出る。春史くんはもちろん、昨日分かった通り花梨だって結構気を使う子だし。
花梨と春史くんがくっつくなら、いっそそれでも良かったんだけど。遠慮して私やラルフと距離を置くのなら悪くないって思ってた。
それが勘違いって分かった今、こいつにそれを話すわけにはいかない。
花梨とラルフは今世でもそういう仲になるかもしれないんだし、変に邪魔になるようなことを言いたくない。
前世なんて、忘れてるならその方が一番いいのだ。
今の人生を精一杯生きるのが、正しい人間のあり方ってもんだろう。
ラルフには申し訳ないけど、あの約束は反故にするのが誰にとってもいいことだと思う。
「なんでだよ?」
至極もっともな親友の疑問に、
「必要がなくなったっていうか、私の勘違いだったっていうか……」
上手い言葉が思いつかず、目を逸らしながら答えた。
憮然とした表情で、不満たっぷりにラルフが見つめてくる。
うん、まぁ、そりゃそうだよね!
「とにかく、今後は気にしなくていいから」
「……おぅ」
唇を尖らせて『フィールドのプリンス』は嫌々ながら頷く。
あぁもう、そういう分かりやすい態度をするから言えないんだってば!
「……幼稚園で遠足行かなかった?」
いきなり話を変えた私に、ラルフが少し目を丸くする。
「行ったけど」
「その時に、別の園の子達と会ったりしなかった?」
じっと目を見つめると、中学からの親友は困った顔で思い出そうと視線を泳がせる。
「……会った、と思う」
よっしゃ、当たり。
「その中に、私がいたんじゃないかな」
ラルフは眉根を寄せて頭をかく。
もちろん、嘘だ。適当に言っただけ。
幼稚園の遠足の行き先なんてそう多くない。近場に幾つか園があれば、出先で会うことも珍しくはないだろう。
それに賭けてみたが、なんとか上手くいったようだ。
ふっふっふ、こういう適当なハッタリは前世で慣れている。貴族社会は腹の探りあいだからね、カマかけなんかもよくやるのだ。
ラルフは悩ましげに唸り、
「そう、なんかなぁ」
「きっとそう。私も覚えがあるし」
嘘に嘘を重ねるのは前世で懲りたが、これは仕方ない。優しい嘘というやつだ。
嘘も方便、なんて素晴らしい言葉もあるくらいだし。誰かを傷つけるためについてるわけじゃないからセーフ。
しぶしぶといった具合にラルフが頷く。
「まぁ、分かった。もう普通にしていいんだな?」
まだ少し納得してなさそうな親友に、出来る限りの笑顔を向ける。
「うん、大丈夫。手伝ってくれてありがとう」
感謝の言葉を渡すと、ラルフは嬉しそうに鼻を膨らませた。
「いいってことよ。また何かあったら言えよ」
……分かりやすいなぁ。単純っていうか純真っていうか。
裏表がなさすぎて、なんだか複雑な気持ちが胸の中に広がる。
あぁ、なんだか懐かしい。前世じゃよくこんな感じになってた。
「ありがと、そうする。じゃあね」
「おぅ、また後でな」
軽く手を振って別れ、自分のクラスの教室に入り、
春史くんが大量のクラスメイトに取り囲まれていた。
最近は私達以外ほとんど話しかける子もいなかったのに。
転入初日の倍くらいの人垣を前に、春史くんがいつもの愛想笑いを浮かべていた。
胸の内を、前世で覚えのない感覚が満たしていく。
「……おはよう」
「あ、おはようございます」
春史くんに続いて、他のクラスメイトも挨拶を返してくる。……微妙に苦笑いしながら。
なんだ、その表情。なんで気まずそうなの、特に榎本さん!
ていうか、どうして今更春史くんに群がってるの?
疑問に思って眺めていると、他の女子に背中を押される形で榎本さんが私の前に出てきた。
……いいけどさ、罰ゲームか何かみたいな扱いになってない?
「お、おはよう、白峰さん」
「……おはよう。朝からすごい騒ぎね」
春史くんの方を目線で示しながら言うと、榎本さんは引きつり笑いを浮かべた。
「昨日さ、暮石くんすごい活躍したじゃない?」
「……そうね」
頷くしかない。
ラルフから一点もぎとるという奇跡を起こしたのだ。
その熱がまだクラスに残ってるってことなんだろうか?
「それで、えと、あの試合見てた子っていっぱいいたよね?」
「……そうね」
確かに、去年の倍くらいは観客がいたように思う。
ラルフ目当ての黄色い歓声発生器ばっかりだったけれど。
榎本さんは言いづらそうに口をもごもごと動かし、
「その子達の中にね、暮石くんってすごいな~って思った子が何人かいたみたいで……」
「……なるほどね」
そういうことか。
私が息をつくと、榎本さんはこちらの機嫌を伺うようにごまかし笑いをした。
つまり、春史くんにコナをかけようって子が出てきたってことだ。あれだけカッコイイところを見せたのだから、当然の結果と言える。
で、うちのクラスの友達とかに春史くんについて教えて欲しい、とかなんとか言ったりしてるんだろう。
榎本さんなんかは交友関係広いだろうから、頼まれてそうだ。
群がる理由が分かって、胸の中のもやもやが収束していく。
まぁ、仕方ない。球技大会はそういう側面もあるからね。春史くんが目をつけられるのも無理からぬこと。
……ほんと今更かよ、とは思うけど。
そもそも春史くんの良さって別に運動できるとかじゃないし。サッカーで活躍したからって飛びついてくるのは現金っていうかミーハーっていうか。
いいけどね! カッコ良かったのは事実だからしょうがないし!
「教えてくれてありがとう。ほどほどにね」
軽く釘を刺すと、榎本さんは腰の引けた笑顔で頷いた。
……そんなに怯えなくてもいいのに。私は別に? 春史くんの交友関係に口を挟めるような立場じゃないですし?
私のことなんて気にせず、どうぞ春史くんとじゃんじゃん話してください。……彼の邪魔にならない範囲で!
ため息を噛み殺して自分の席に着くと、隣で花梨が気持ち良さそうに眠っていた。
ガヤガヤと騒がしい教室で何も気にせず、お餅のようなほっぺたを机に押し付けている。
この子はほんと、大物だ。
なんだか自分がどうしようもない小物に思えてきた。
……生まれ変わっても根っこは変わらないものなのかなぁ。
気分を変えようとスマホを取り出してチャット画面を開く。
昨夜の彼とのやりとりが、しっかり履歴として保存されていた。
現代のいいところは、なんでもないただの会話をこうして何度も見返せるところだ。
文字を打ち込む。
『大変だったら、真面目に皆の相手なんてしなくていいよ』
送信せずに消した。
こういうところが小物なのだと思う。
花梨だったら、違う文面で迷いなく送信してたはず。
噛み殺せなかったため息を漏らし、スマホをしまう。
隣で寝こける幼馴染は、一向に目を覚ます気配がない。
つるつるして柔らかいそのほっぺたをつついて、朝のHRが始まるまでの時間を潰した。
花梨を夢の世界から引き離すのには、それなりに苦労した。
榎本さんの話が嘘じゃないのは、一日で嫌になるほど理解できた。
元々疑ってもいなかったけど、休み時間の度にうちのクラス――というより春史くんを覗きに他のクラスの女子がやたらと来るんじゃ信じるしかない。
遠巻きに眺めるくらいでほとんど害はないけど。だからこそ、榎本さんとかに話をしてくれるよう頼んでるんだろうなと思う。
直接話しかければいいじゃん、と思わなくもない。でもまぁ、彼女達の気持ちも分からないではないのだ。
なにせ、彼女達以上に春史くんに寄ってくる人達がいるから。
各部活動の先輩方が、こぞって彼を勧誘しにくるのだ。
男の、しかも運動部の三年生が群がる中に突撃できる女子など花梨以外にいないだろう。
ラルフから一点をもぎとった奇跡は、女子よりむしろ運動部の間で語り草になっているらしい。
聞いた話では、期待の新星扱いで獲得は恨みっこなしの早い者勝ちという協定が結ばれているとか。……春史くんは景品じゃないんですけど。
大体、そんなの真っ先にラルフが勧誘しそうなものだと思っていたら、どうやら試合終了後に誰より先にやってたようだ。そういう大事なことはすぐに話せっての。
二人してあれこれ話した後、春史くんの獲得合戦をしにきた先輩方をラルフが追い返したみたいで。何があったのかめっっっっっっちゃ気になるんですけど。
それでもめげないのが運動部の根性ってやつらしく。休み時間ごとに代わる代わる訪れては彼を口説き落とそうとするのだ。
ただ、春史くんは頑として首を縦には振らず、キッパリ断り続けていた。
……正直、少し意外だった。
押しに弱いところがあるし、あれだけ動けるってことは何かやってたはず。少なくとも、スポーツを一切やったことがないってことはないだろう。
普通にラルフあたりに押し切られてサッカー部に入りそうなものなのに。
放課後、何かやってることがあるんだろうか。
そういえば、春史くんのプライベートは全然知らない。
話は幾つか聞いてるけど、実際に見たことはないし家にも行ったことがない。
気にはなる。気にはなるんだけど、そうそう都合の良い機会なんて訪れないから踏み込みようがない。
どのくらい仲良くなればそういう話を振ってもいいんだろうか。同性ならまだしも、異性だし。
一応ラルフの家には行ったこともあるしご両親にも会ったことあるんだけど、あいつは別枠だからなぁ。色んな意味で。
こういう時、前世の知識は微塵も役に立たない。何せ、男の人の家に遊びに行くなんて婚約者でもない限りありえなかったからね!
悶々とした悩みを抱えながら日々が過ぎて。
中間試験が過ぎて季節が変わって、梅雨がやってきた。
四人でお昼を食べることも、学校で一緒にいることも毎日の中に馴染んでいって。四人で勉強会をしたりとか、私と花梨が載ってる雑誌を見たりとかもして。
春史くんが隣にいるのが当たり前になっていく。
それなのに、もう一ヶ月以上も経ってるのに、私は放課後の彼を知らないままだった。
天気予報通り、雨は昼になってから本格的に降りだした。
放課後になっても勢いは弱まらず、校庭の紫陽花はさぞかし喜んでいることだろう。
窓ガラスに雨粒があたって流れ落ちるのをぼんやり見つめる。今日の撮影はロケだったけど、この雨で中止になった。
おかげで放課後はやることがない。撮影がない日と同じと言えばそうなんだけど、やるぞって構えがあったかなかったかはだいぶ違うのだ。
やる気が抜けてくっていうかなんていうか。いつも通り勉強するなり夕太の相手するなりジムに行くなりすればいいのは分かってるんだけど。
こういう日は大抵同じように暇になった花梨と買い物に行ったりするけど、この雨じゃそういう気も中々起きない。
「ひーちゃん、帰ろ~」
帰り支度を整えた幼馴染に急かされ、腰を上げる。
「今日はどうするの? 普通に帰る?」
「うん、今日はちょっとね~……あ、暮石く~ん、一緒に帰ろ~!」
何かを言いかけたまま放棄し、花梨が春史くんに手を振る。
この子にはよくあることだけど、この会話のテンポが親しい友人を作りにくい理由の一つだろうなとつくづく思う。
「はい」
柔らかな微笑で頷き、彼は鞄を手に取る。
最近、撮影のない時は春史くんと一緒に帰ることが増えた。
一応の理由としては、勧誘攻勢から守る為だ。あと、女子の好奇心丸出しの視線から逃がす為。
私や花梨がいると、先輩方はあまり近づいてこない。他クラスの女子も。
鬼瓦か虫よけスプレーかって感じだけど、効果があるならしょうがない。元々、花梨といつも一緒にいるのもそういう理由が大きいし。
中間試験の結果とか期末試験とか、花梨がグロッキーになる話をしながら昇降口で靴に履き替える。
我が幼馴染ながら、大学進学を考えてるのにこのくらいでぐったりしてて大丈夫かと心配になる。
期末前にまた勉強会しないと、などと思いつつ傘をとって外に出ようとして、
固まっている春史くんに気づいた。
「……どうしたの?」
尋ねる私に、彼はいつもより深い苦笑を浮かべて、
「……傘、盗られたみたいです」
力なくそう言った。
ああ、と声に出さず納得する。
たまに出るのだ、この季節。手癖の悪いヤツが。
朝は雨が降ってなかったから、傘を持ってこなかったヤツがいたんだろう。それか、どこかに傘を置き忘れたか。
どっちにしても、迷惑なことこの上ない。
自分の不始末の責任を他人になすりつけるなってーの。
「折りたたみ傘とかない?」
「持ってきてないです……」
肩を落として雨が降り注ぐドアの向こう側を見やる春史くん。
困った。私も一本しかなくて、折りたたみは持ってきてない。
ありえないとは思うんだけど一応花梨にも聞いてみようと、
「ひーちゃんの傘に暮石くんいれてあげたら?」
我が愛らしき幼馴染はとんでもないことを言い出した。
いやいやいやいや! それってなに? つまり、あー、その、いわゆるところの相合傘というやつじゃない!?
その距離感はいきなり近すぎない!? それはもうちょっと先の話っていうか、こう、色々と親しくなってからするものなのでは!?
「ごめんね~、ひーちゃん。わたしお母さんのお手伝いしなきゃいけないから、先に帰るね~」
私が何も言えずにいる間に、花梨は笑顔で手を振って傘をさして走っていった。
おば様の手伝いて。さっき言いかけたのはそれか。
おば様は売れっ子漫画家だ。あのたっかいマンションを一階丸々買い取ってるだけあって、超がつく人気っぷり。ちなみにおじ様はいくつも賞をとってる作家先生。
あの子が手伝いに入るってことは修羅場確定で、そういう時は私にも出動要請がかかるんだけど。
……もしかして、また気を使ってくれた?
あああああ!!! ちょっと待って花梨!!! その気の使い方はちょっと辛いってば!!!
むしろ居てよ!! その方がずっと気が楽だからこっちは!!
「……あの、僕は大丈夫ですから」
声につられて振り向けば、春史くんが申し訳なさそうに微笑んでいた。
あなたは何も悪くないのに、なんでそんな顔するの。
こういうところまで気が弱くなくてもいいのに。
「こうして行けばそこまで濡れませんし」
鞄を傘代わりにしてみせる。
そんなので防げたら苦労しない。
「風邪引いちゃうでしょ」
我ながら身も蓋もない突っ込みに、春史くんがごまかし笑いを浮かべる。
「走っていけば、なんとか」
「ならないでしょ」
無謀な提案を却下し、傘を差し出す。
これは、違うのだ。
相合傘とか、そういう浮ついたものではなく。
友達が風邪を引くのを防ぐ為の緊急避難とかそういうので。
道義的な正しさから勧めているだけなのだ。
「……入ったら。家まで送ってあげる」
彼の顔を見られない。
言葉の選び方を間違えた気がしないでもないけど、訂正する余裕もない。
めちゃくちゃ愛想のない言い方になってる自覚はあるのに、どうにもならない。
心臓の音が耳元で鳴っている気がする。
顔は熱いのに指先は冷たい。
どくんどくんと体中に血を送っている音がする。なのに、血の気はどんどん引いていく。
彼の返事がない。
息が詰まる。
彼は今どんな顔をしているんだろう。
見たい。けど見たくない。怖い。
やっぱり、私と相合傘なんて、
「お願いします」
いつもより少し強張った声が聞こえた。
そこで息を止めていたことに気づいて、気づかれないよう思い切り息を吐いて吸う。
血の気が戻ってくる。指先の温度がゆっくり上がっていく。
心臓の音はまだ耳元で鳴り続けている。
自分が今どんな顔をしているのか分からない。
分からないから、彼にも見せたくはなかった。
「行きましょ」
傘を広げて雨の下に出る。
雨粒を弾く音が、少しだけ落ち着かせてくれた。
「傘、僕が持ってもいいですか?」
肩が触れ合うほど隣に来た春史くんが柄の部分に手を伸ばす。
指先が触れ合わないよう、さっと手を離してしまった。
……あぁ、何やってるんだろう。こんなの印象悪いに決まってる。
分かっていてもどうにもならないことだってあるのだ。
春史くんは何も気にしてない様子で傘を持ってくれた。
水溜りを避けて校門を出て通りに出る。当たり前みたいに車道側を歩く彼をこっそりと盗み見る。
実に平然とした顔をしていて、隣に私がいることなんて何も意識してないみたいだ。
もやもやした気持ちが胸の中に広がっていく。
なんて言えばいいかわかんないけど、なんか、前世でジェラルドに感じた苛立ちに似てる。
アルフォンスには感じたことがなかったもの。……あの頃は子供だったせいもあると思うんだけど。
なんていうか、私ばっかり一方的にバカみたいっていうか。空回りしてる感覚っていうか。
あーもー、前世から私はろくに変わってない気がする!
八つ当たり気味に横目で春史くんを睨みつけ、
彼の肩が濡れていることに気づいた。
視線を上げる。傘が私の方に傾いている。
もやもやしたものが消えて、暖かさが満ちていく。
この感覚は知ってる。アルフォンスと一緒に居た時にいつも感じていたもの。
ダンスの練習で失敗した私に、微笑みながら彼がくれたものだ。
深呼吸する。
きっと口で言っても、彼は傘を平行にはしないだろう。
だったら、身体で分からせるまでだ。
彼の袖を指で摘んで、
一歩分、肩を近づけた。
驚いて振り向く彼が何を言うより先に、
「肩、濡れてるから」
視線を背けたまま、一方的に言い放った。
彼の顔が見れない。
これは、そういう浮ついたものじゃなく。
友達が風邪を引くのを防ぐ為の緊急避難とかそういうので。
道義的な正しさから近づいただけなのだ。
今の自分の顔は、絶対に見たくない。
「……はい」
聞こえた彼の返事は、いつもより少しだけ熱っぽい気がした。
袖を摘んだ傘を持つ腕は微動だにしなくなり、歩く速度が少しだけ落ちる。
歩きにくいだろうけど、仕方ない。
雨が降ってて、傘が一本しかないから、しょうがないのだ。
今自分がどこを歩いているのか、私には全く分からなくなってしまっていた。
水を弾くぱしゃんぱしゃんという足音が、やけに耳に響いていた。




