第十話
やらかしてしまった。
球技大会が終わった後の女子更衣室。脱いだ体操服をナップサックに詰め込みながら、冷や汗が背筋を流れ落ちていく。
別に試合でミスをしたとか、そんなんじゃない。
サッカーの応援。あれがマズい。
なに全力で春史くん応援してんだよぉぉぉぉぉぉぉ!!! あんなん誤解されるに決まってるだろぉぉぉぉぉぉ!!!!
違うんだ、あれは私じゃない。
じゃあ誰かって言われたら……ヒルダだ、多分。だから私じゃない。
そんなこと誰にも言えるわけないんですけどね!!!!
隣でもたもたと着替える花梨を盗み見る。
春史くんがゴールを決めたあとのアレ……冷静になって考えると、春史くんに気があるってこの子に思われたんじゃないだろうか。
そう考えると『良かったね』って言葉もそれっぽい意味に聞こえてくる。
私の考えすぎなんだろうか、それとも。
サッカーのアレは、恋愛的なものじゃない。感情移入とか、自己投影とか、なんかそういう類の代物だ。
ついうっかり前世の気持ちが盛り上がっただけで、私は春史くんのことなんか別になんとも思ってないし気にしてません。
花梨にそれを言うのか。
そう思うと、やる気というかなんというかがごっそりと削れていく。
ため息が漏れる。
私に一体どうしろと。
ナップサックを手に、ロッカーの扉を閉める。
「あやか、胸おっきくなった?」
「変わってないって! なんで触るの!?」
「確かめないとでしょ、こういうのは!」
騒がしさにつられて横目に見れば、榎本さん達が胸を触りあってはしゃいでいた。
あんなふうにふざけあえる関係なら、こんな悩みもなかったかもしれない。
適当に話を振って、流れにノってそれとなく言えたのかも。
息を吸い込む。
もういいや、何も言わないでおこう。
私の勘違いかもしれないし、否定する方が怪しまれることだってあるし。どっちにしてもこれから行動で示せば問題ない。
それより大事なのは、私のメンタル管理の方だ。
応援した時の気持ちの尻尾みたいなものが、まだこびりついている。
こいつを早く引っぺがさないと落ち着かない。変に思い悩むのも、絶対にこいつのせいだ。
こんな状態で何を言っても、花梨には信じてもらえない。あの子、そういうのにはかなり鋭いし。
二人の応援をするって決めたのに、こんな調子じゃ上手くいくはずない。
……ほら、また。胸を圧迫されるような、心臓がつままれるような感覚。
この変な感じが、私の頭と体を鈍らせる。
おかげでさっきから次の応援計画が全然浮かんでこない。球技大会も終わったし、いつも通りに戻らなきゃいけないのに。
どうしたらこの邪魔なのとれるんだろう。ため息を噛み殺して更衣室のドアノブを掴む。
そこで気づいた。
花梨がまだ着替え終わっていない。
クラスの一部の女子が私に不審な目を向けている。そりゃそうだ、いつも一緒に出て行くんだから。いきなり一人で出ようとしたら何事かと思う。
良かった、ドア開ける前で! ……もうアウトな気がしないでもないけど!
早足で戻ってベンチに腰を下ろす。
疲れてるのもあってか普段より三倍遅い花梨の後姿を見ながら、どうにかしてこの変な気持ちを追い出そうとあれこれ試してみた。
分かったのは、それが全部無駄な努力だったってことくらい。
花梨が着替え終わった時、もう更衣室にはほとんど人は残っていなかった。
「ひーちゃん、お待たせ~」
「忘れ物はない?」
「だいじょぶ~!」
にこにこと頷く花梨に癒される。はぁ~、やっぱり可愛い。
変なこと言わなくて良かった。この子はいつも通りだ。
二人一緒に更衣室を出て教室に向かう。道すがらの雑談の内容はバレーの試合のことがほとんどだった。
違和感がなくもなかったのだ。
妙に私を褒めてくるし、喋り方がはきはきしている。普段はもっと間延びした感じなのに。
きわめつけは、サッカーの話を一切出さなかったことだ。
これはおかしい。絶対おかしい。
訂正、やっぱりこの子もいつも通りじゃない。
ラルフと春史くんがあんな試合をしたのに、お互い応援しまくったのに、そのことを話題にしないなんてありえない。
触れないでくれるなら私としてはありがたいんだけど、花梨にそういう頭はないはずだ。
いや、悪い意味じゃなくて。単に私が何も言ってないからね。
……言ってても花梨なら話してきそうだけど、それはそれとして!
長年の経験からの勘っていうのはそうそう外れたりしない。
教室が見えたところで、花梨が足を止めた。
「ひーちゃん」
滅多に聞かない深刻な声色で呼びかけられ、私も立ち止まる。
振り向いた私の目には、眉をハの字にして思い悩む花梨が映った。
この子のこんな表情を見たのは、何年ぶりだろう。少なくとも、高校に上がってからは一度もなかった。
花梨は戸惑うように口を開き、
「あの、あのね、」
何かを言いかけて口ごもり、
「今日、一緒にジムに行かない?」
苦し紛れの笑みを浮かべてそう言った。
……どう返事したものだろうか。
いや、別に放課後は用事もないし、ジムに行くのはいいんだけど。
花梨は疲れてるんじゃないかと思うし、そもそも明らかに何かを避けた結果の提案にしか見えない。言いにくいことでもあるんだろうか。
……まさか、応援の件だったりして。
私がどういうつもりか聞きたいとか。春史くんをかけての宣戦布告とか?
いやいやいやいやいや、ありえないでしょ。花梨のキャラじゃないし、そういうの。……キャスリンのときはどうだったかなぁ。
そういえば、前世じゃ真っ先に私がケンカ売ってたんだった。前世の知識、役に立たねぇ!!
なんでヒルダは相手の出方を見るとかしなかったの!? あいつバカじゃない!? ……私だけど!
ちらりと花梨を見やる。
不安に揺れる瞳でじっと私を見ている。だからなんでそう分かりやすいの!
他の選択肢は、なかったように思う。
「いいよ」
私の可愛い幼馴染は、ぱっと花が咲くように笑った。
「いつものとこね! 約束だよ~!」
「はいはい」
頷く私に嬉しそうに笑いかけて、小走りに教室に入っていく。
その後ろについて、私も教室に入った。
花梨が何をしたいのか、いまいちよく分からないけど。ジムに行くのは、私にとっても悪いことじゃない。
体を動かせば、さっきからまとわりつく厄介な感覚を追い出せるかもしれない。
気持ちの切り替えは、私にも必要なことだった。
『クロウ・フィットネスジム』は、烏丸グループが運営する巨大なスポーツクラブだ。
充実の設備に丁寧なサポート。トレーナーの指導も一流だと評判で、中身に見合って会員費もそこそこお高い。
普通なら私や花梨みたいな学生とは縁のない施設だが……烏丸グループ、というところで察してもらえると思う。
ラルフの家はほんとに手広く色々やってるんだよなぁ。
おかげで、私達はこのジムの特別会員証をもらっている。いわゆるVIPというやつだ。……気が引けてそんなに使わないけど。
受付で水着を借りて、学校のものとは格が違う更衣室で着替えて、気が済むまでプールで泳ぐ。
プールサイドに上がって帽子を脱いで一息ついて、ようやく余計な考えを頭から追い出すことができた。
思いっきり泳いだのなんて久しぶりだ。滴る水が心地いい。
乱れた呼吸を整えながら、花梨の姿を探す。
いた。ぐったりとビーチチェアに横たわっている。
……やっぱり疲れてたんじゃん。なんでジムになんて誘ったのか。
「花梨、大丈夫? 何か飲む?」
「ひーちゃん……うん、甘いの欲し~」
甘える笑顔もどこか弱々しい。
自販機で適当なジュースと自分用のスポドリを買って、花梨に渡す。
「ありがと~」
「無理しちゃダメよ」
……そういう私も、結構きついんだけど。球技大会の後にプールはやっぱ少し無理があった。
小動物みたいに両手でジュースを抱えて飲む花梨を横目に、スポドリをチェアに置く。
「じゃ、もう一泳ぎしてくるから。終わったら帰りましょ」
「分かった~」
頷く花梨から視線を外し、私はもう一度プールに飛び込んだ。
もう少し疲れれば、頭も働かなくなる。昼間の尻尾も、完全に消えてなくなるだろう。
後は家に帰ってぐっすり寝れば、いつも通りの朝が来る。
水しぶきをあげて、水面を思い切り蹴りつけた。
疲れきった後のシャワーというのは、どうしてこんなに気持ちいいのか。
べたつく身体を流してさっぱりし、水着を返却してからバスタオルを借りる。……このバスタオルも家で使ってるものより高そうなんだよなぁ。
身体を拭いて更衣室に入ると、先に花梨が着替えていた。
普段の五倍は遅い幼馴染を横目にロッカーを開ける。
……明日も学校だけど大丈夫かな、この子。
起きてすぐ連絡すればいいかな、と考えながらブラを掴み、
「ひーちゃん」
何の気なしに隣を見た。
「ひーちゃんは、ラルフくんのことが好きなの?」
「はぁ?」
不意打ち過ぎて素で反応してしまった。
顔に疲労を滲ませた花梨が、真剣な瞳で見つめてくる。
……何をどう考えたら私がラルフを好きってことになるのか。
何を考えているか分からない子だとは思ってたけど、ここまで分からなかったのは人生で初めてだ。
「なんでそうなるの?」
純粋な疑問を口にすると、
「だって、最近放課後はいつもサッカー部を手伝ってるって。お昼も前と違ってラルフくんと隣に座るようになったし」
うつむきながら上目遣いに花梨が言う。
言葉もない。
いやだからそれは、あんたと春史くんをくっつける為だっての!!
……なんて言うわけにもいかず、黙って勘違い幼馴染を見下ろした。
まさか、二人をくっつける為の計画をそんなふうに受け止めるとは。ラルフのバカがぺらぺら喋らなきゃ、こんなことにならなかったのに!
何か言った方がいいのは分かるんだけど、上手い言葉が見つからない。どうしたものかと考えているうちに、花梨が喋りだす。
「ひーちゃん綺麗だし、胸おっきいし、背も高くてラルフくんとお似合いだなって……」
「いやいやいやいや」
何を言ってるんだこの子は。
お似合いなのは私じゃなくてあんたの方でしょうが。
「わたしと違って運動も勉強もできるし、二人とも総合優勝してるし……なんか、えと、わたしって邪魔かなって」
「バカ言ってんじゃないの」
軽く頭痛がして額に手を当てる。
大体、総合優勝ってんなら花梨だって同じクラスでしょうが。
そういう意味じゃないのは分かるけど!
「ラルフは友達。それ以上でも以下でもないよ」
そりゃ、普通よりは親しいかもしれないけど。でも、それだけだ。
「ほんと?」
瞳を潤ませて見上げてくる花梨に、力強く頷いてみせる。
確かにラルフとは前世で色々あったし、当時は好きだった。それは認める。
それがあればこそ、今の私達の関係があるのだ。
あいつとは合わない。性格というかなんというか、とにかく恋人同士ってガラじゃない。
人と人には、適切な距離ってあると思う。一番ぴったりハマる関係っていうか。
私とラルフの場合、それが友達ってことなんだと今世で理解した。
これ以上近づいても離れても、私達は上手くいかない。互いを大事に思える距離。そこで付き合っていくのが、誰にとってもいいことだと思ってる。
それに、そもそも花梨がいる。前世の縁ってやつなのか、ラルフは花梨のことを気にしてる。
今世でまで二人の間に割って入るつもりはない。二人がそういう関係になるのなら、私は手放しで歓迎するつもりでいた。
それが春史くんの登場でぐちゃぐちゃになったわけだけど……。
私の返事に、花梨は嬉しそうに顔をほころばせた。
「良かったぁ~」
胸のつっかえがとれたように笑う花梨につられて、私の顔にも笑みが浮かぶ。
……ん? ちょっと待って?
良かったって、どゆこと?
私とラルフがそういう関係じゃなくて良かったっていうのは、えと、普通に考えると花梨がラルフに気があるってことなんだけど。
あれ? じゃあ春史くんは?
んん? いや、これはあれかな? ラルフと私っていう親しい友人が一気に離れてしまうかもしれないってことを恐れたとか、そういう?
ダメだ、カウンセラーでもないし全然分からない。
直接聞いてみようかと意識を現実に戻せば、花梨が鼻歌でも歌いそうな様子でのろのろと着替えていた。
……ダメだ、水を差すような真似はできない。なんか心が痛い。
いや待て、上手く聞けばいけるかもしれない。だから、えっと、まずは何を聞くべきかを整理して、出来るだけ短い言葉にまとめて、
思いついたことがぽろっと口からこぼれ出た。
「花梨は、春史くんのことどう思ってるの?」
何を聞いてんだ私ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!?
直接的!!! 直接的すぎる!!!
もっとこう、それとなく聞けないのかよぉぉぉぉぉぉ!?
「大事なお友達だよ~」
にこにこしながら花梨が言う。
大事? 大事なお友達? それは、なにか、特別な意味だったりする??
……落ち着け、私。
花梨のことだから、他意はないはずだ。何年この子と一緒にいると思ってるんだ、そのくらい分かるだろ私!!
いい加減握ったままのブラをもたもたと着けていると、
「ひーちゃんは暮石くんのこと、どう思ってるの?」
時間が止まる。
頭が真っ白になって、全身が固まる。
なんでそんなことを聞かれたのか分からなくて、なんて答えればいいか分からなくて、指一本動かせない。
息すらできなくて、心臓も止まったように思う。
再び時間を動かしたのは、花梨の呼びかけだった。
「ひーちゃん?」
「あぁ、うん」
我に返ると同時に指先の感覚が戻ってくる。
そして、さっきの質問が頭の中に浸透していく。
私は、春史くんのことを、どう思っているのか。
ていうか、なんで花梨がそれを聞くの? やっぱりなにかあるの!?
もうこうなったらなりふり構っていられない。直接聞いてやる!
「気になるの?」
花梨が小首を傾げてこっちを見る。
あぁもう畜生いちいち可愛いな!!
「春史くんのこと」
主語を付け足すと、合点がいったように小さな幼馴染は頷いた。
「だって、ひーちゃん気にしてたでしょ? 仲良くなりたいのかなって思って」
……もしかして。
今まで花梨がやたら春史くんに近づいてたのって、そのせい?
私が春史くんのこと気にしてるって思って、気を使ってくれてたの?
そう考えると、花梨のわけのわからない行動がいくつか納得できてしまった。
「今日もいっぱい応援してたし。違うの?」
あ、これ確定だわ。
花梨は私の為に、春史くんに急接近してたことになる。
ああああああああああああああ!!! 死ぬほど恥ずかしいぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!
なんだ!? なんだこれ!? めっっっっっっっちゃ恥ずかしいんですけど!?
穴があったら入りたいってこういう気持ちか! 慣用句ってすごいね、今の気持ちにぴったりだわ!! むしろ埋まりたい!!
あぁどうしよう。ほんとどうしよう。ていうか、ちゃんと質問に答えないと。
せめてそのくらいしないと、なんか申し訳なさ過ぎて辛い。
でも、私が春史くんことをどう思ってるか、って言われても。
アルフォンスのことは当然話せないし、どう説明したらいいんだろ。
上手い言葉をあれこれ考えるけど思いつかなくて、素直に言うしかないと覚悟を決めた。
深呼吸する。
「違わない。いい人だと思うし、仲良くなりたい、かな」
花梨は今日一番嬉しそうに笑って、
「もっともっと仲良くなれるといいね~!」
聞きようによってはめちゃくちゃ意味深なことをのたまった。
いやもう、分かってる。この子はこういう子だ。他意はないの。
何年も振り回されれば、そのくらい分かってくる。
……すっかり振り回されてますけどね!
「そうね。大事な友達だものね」
苦笑まじりに言うと、満開の桜みたいな笑顔を浮かべられた。
ため息もでずに、黙って着替えに戻る。
花梨が春史くんに気があるのが勘違いだったなんて。……私は前世より頭が悪くなってるかもしれない。
でもじゃあ、花梨にとって春史くんはほんとに大事な友達ってだけなんだ。
……………………はぁ~、良かった~……………………!
これでもう放課後にサッカー部に顔を出さなくてもいいし、お昼に無理にラルフを隣に座らせる必要もない。変に気を使わなくていいってことだ。
あーーー、ほんと良かった!!
次の応援計画思いつかなかったし! どうしようかと思ってたからね!
それぜーーんぶやらなくていいなら、すっっっっっっごい肩の荷が下りた気分!!
そっかそっか、花梨にとって春史くんは大事な友達なんだ。そんで、今までの変な行動は、全部私が春史くんを気にしてるって思ってたから!
うんうん、友情最高! 青春って友達だよね!
確かに春史くんのことは気にしてた。なにせ、前世がアルフォンスだし。アルフォンスは前世の私の初恋の人だし。
……いやまぁ、初恋ってのも怪しいもんだけど。私、世間知らずの子供だったし。
でも、アルフォンスと過ごした日々は間違いなく大切な思い出だ。
そういうのが多分、態度か何かに出てたんだろう。普通は気づかないだろうけど、花梨はそういうところ鋭いし。
なんかあれこれ変に悩んでたのがバカみたいだ。こんなことなら、もっと前に聞いておくべきだったなぁ。
スカートのホックを止めて、シャツに袖を通す。
……でも、大事な友達ではあるんだよね。
ていうことは、いつ恋とか愛とかの方向に転んでもおかしくないってことで。
今後次第じゃ、私の勘違いじゃなくなるかもしれない。
息を吸い込んで、ロッカーを閉めた。
そうなったら、そうなったで。その時に考えればいいことだ。私が花梨の幸せを応援しないなんてありえないんだし。
とにかく、今は違うんだ。それが分かっただけでよし。
バスタオルを頭に被せて、ベンチに座る。
花梨が着替え終わったのは、空がすっかり黒く染まってからだった。
花梨がマンションに入るのを見送って、家路につく。
月はぼんやりとかすんでいるものの、星が明るくて歩くのには困らない。街灯が少なくても平気なのは、前世持ちの特権だろうか。
あの頃は、月のない夜はほんとに真っ暗だったからなぁ。
それに比べれば、現代の夜は光に満ちている。家の窓からこぼれる明かりとか。
あそこにはどんな人が住んでるんだろうか、とか。前世では考えもしなかったことを思ったりしてみる。
音が少なくて、自分の足音が良く聞こえる。
今頃、春史くんは何をしてるだろうか。
疲れてるだろうし、寝ちゃってるかな。
ふと気になってスマホを取り出す。グループチャットを呼び出して、どう書き込もうか考える。
……止めとこうかな。花梨は部屋に戻ったらすぐ眠るだろうし、ラルフだって大会の後に部活があったみたいだし。新着の音で起こしちゃったら悪いよね。
閉じようとして、思いつくことがあった。
春史くんの連絡先をタッチして、二人だけのチャットを作る。
これなら他の二人の邪魔になったりしない。なんだか悪いことをしているような気になるけど、別にそんなことないよね。
花梨は春史くんに気があるわけじゃないんだし。
何を書こうか散々考えて、
『起きてる?』
なんてありきたりな言葉になってしまった。
ほんと、なんで私は無難な方向に行ってしまうのか。
そのあたりは花梨を見習わなきゃいけないと常々思う。
『はい』
短い返答。
心臓が飛び跳ねる。
返事が返ってくるとは思ってなかった。いや、思ってたけど。
そんなことはどうでもよくて、何か言わなきゃとあれこれ迷って、
『今日は惜しかったね』
空っぽの頭からこぼれ落ちたものをそのまま書き込んだ。
返事がこない。
心臓が破裂しそうになる。
負けた試合を蒸し返すような真似はするべきじゃなかった。
地雷を踏んじゃったかと思うくらいの間が空いて、
『次は勝ちます』
普段の彼からは考えられないくらい強い言葉だった。
『よければ、次も見ていて下さい』
指が震える。
吐く息が熱い。
きっと顔も熱くなってると思う。
プールで泳いだ時より鼓動の音が速くなる。
足元の感覚が消えうせて、どこかふわふわと浮いているような感じがする。
息をするのが辛くて、大きく口を開ける。
『はい』
次がいつ来るのか分からないけれど。
でもその時は、絶対に最後まで見届けよう。
ずっと春史くんを見続けられるなら、見逃す心配もないのにな、と思った。
気がつけば、我が家のあるマンションを通り過ぎていた。