イタゆうれい
お疲れさまです。働き過ぎの四十二歳、男です。今回の話に関係ないけど、独身です。
やばいことに、きのうの午後からの記憶がありません。会社のデスクで、郵便物の整理をしてたところまでは覚えてるんだけどね。ははっ。
考えなくても動けるくらいにベテランだし、それほど難しい仕事はしてないし? 言っててちょっと悲しくなってきた。拘束時間が長いことだけは確か。
適当にネクタイを選んで出勤です。うん、夏場だけどするよ。かなり古い体質の会社なもんで。
いつものホームから、いつもの時間に、いつもの車両に乗った。運のいいことに座席が一人分空いている。奇跡か? 喜んだのも束の間。誰も座らないわけだ。びっしょり濡れている色。ちなみに雨は降っていない。まあ、まあ。生きてればいろんなことがあるさ。アンモニア臭がしないのが救いか。いまさら移動もできないし。はぁ。昨日と同じ車内広告を見せられる。無我の境地。
「やめてください」
すごく小さな声だった。え? 真正面に女子高生が座ってる。最近では珍しい清楚なタイプだ。長めの前髪で顔はよく見えないのに、そう思う。
「やめてください」
また、聞こえた。彼女が言ってる。誰に? 俺か。
冤罪防止のために両手で吊革につかまってる。リック型の書類入れは胸側に掛けている。視線だけ動かす。誰も何の反応もしてない。俺にだけ聞こえてる、とか? ぞくっとする。
よく見れば、彼女はずぶ濡れ。そういえば、さっきシートも濡れてたっけ。え、え? これは、もしや。
折よく車内放送が、会社の最寄り駅を知らせる。よ、よかった。いつもより早いタイミグで、ドアに向かう。見たくないのにいま一度、視線が吸い寄せられる。俯いたままの年下の女の子。若い身空で可哀そうに。よせばいいのに、俺は思わず、そう思ってしまった。
はっ、と我にかえる。降ります、降ります。
熱風に吹かれても、噴き出したのは冷や汗だ。歩道を歩く間中、寒気がする。いつもは足を引き摺るようにして上がる階段を駆け上がり、同僚の顔を見て、ほっとした。
「どうしたの?」
のほほーんとした顔で、菓子の袋を破いている。いつもはイラッとする行為も、今日は許せる。
「いや、ちょっと」
言い淀んで、思い直す。嫌なことは話してしまった方がいい。異性だからとか、年上だからとか格好つけてもしようがない。むしろ馬鹿にされ、笑われる方がいい。
「いやいやいや。夏だからってベタ過ぎるでしょ」
そんな言葉を期待したのに、相手がどんどん青ざめていく。
「見た? 私だけじゃなかったんだ。やだ、よかった? いやっ、いやだよねぇ。いやーっ」
頭を抱え、仰け反って、絶叫。
「おいおい、朝から騒がしいな」
入室してきたもう一人の同僚が、あきれたように苦言を呈する。
「口の端に、何か付いてますよ」
「お、わるい」
「あ、右です」
また、牛丼屋の朝食セットだろうか。
「いや、いや、いやっ」
俺だってまったく同じ気持ちだが、彼女はしばらく使い物にならなそう。しかたなく、本当にしかたなく今朝の話をする。
「なに言ってんだ、お前ら」
そんな返しを期待してたのに。
「見た? 見ちゃった? 気のせいじゃないのかぁ。いーやーだー」
何も聞きたくないというように両耳を塞いで喚く、俺より年上の男。
否定する要素がなさすぎる。この三人、乗り換えの関係で十数分、もしくは数十分時間がずれるが、乗る列車の状況が似ている。同じ始業時間に合わせて、同じ会社に向かうのだ。自然、いちばん都合のいい出口を目指して、十両目の真ん中のドアを選ぶことになる。
でも、だからって。こんなことってあるだろうか。俺だって叫びたい。
「なんまいだーなんまいだー」
「しおしおしお。お塩もらってきてよ、誰かぁ」
特に賢い集団じゃない。どちらかといえば要領の悪い連中だ、俺も含めて。でなけりゃ、窓もない倉庫同然の部屋に押し込められたりしない。
結局、俺が押し付けられて、総務に行く。嫌味の一つも言われるかと思いきや、ちゃんと塩を貰えた。まあ、貰えたって言うと語弊があるか。俺たち三人は、日頃から他の社員に無視されてる。挨拶を返してもらえないし、目すら合わせてもらえない。常時、置かれているカウンター脇の盛り塩を拝借してきただけ。
「塩、もらってきた」
「よくやった」
「あんたはヒーロー」
三人でちょぼちょぼ部屋中に塩を撒いて、何とかその日はやり過ごした。帰りが嫌だな。皆、口には出さないけど。いつもは何となく時間をずらすところを、小学生の集団下校みたいに、揃って同じ列車に乗る。特に異変は見られず、ほっ。乗り換えの関係で、真っ先にぽっちゃり女性が降り、次に年上の薄毛さんが降り、次の駅で俺も降りる。ローカル線に乗り換えて、道中の中ほどで座る。これもいつものこと。暇つぶしの文庫を取り出そうとして、カバンを漁るが見付からない。あれ、どこに置いたっけな? 考え事をする時の癖で、上を見る。目が合った、びしょ濡れの女子高生。なぜ女子高生ってわかるかというと、白地に紺色のラインが入ったセーラー服を着ているからだ。
「やめてください」
蚊の鳴くような声はそのままに、今度は彼女が俺の前に立っている。
な、なんで? 怖がる気持ちが少し薄れて、戸惑いを強く感じる。今朝、ちょっとでも可哀そうとか思ったのがいけなかったのか? 俺、懐かれ、いや憑かれた? 地縛霊が、背後霊に? 最近の幽霊はアクティブだなぁとか、いろいろと現実逃避。
「やめてください」
壊れたレコードみたいにくり返される。怖いけど、だんだん腹も立ってくる。やめてくれって、こっちの台詞だ。塩撒いたのに、同僚が怪しいお経もあげたのに。無視だ、無視、無視。俺は疲れているんだ。
やめてください、やめてくださいって言われながら。俺はいつも通り、って文庫が行方不明なので、スマホで脳を休めながら、途中から居眠りに移行。目を瞑るのが怖く、かといって開けるのも怖く。どうすりゃいいんだと、ぎゅっと瞑っていたら、思いがけず眠れた。なかなか図々しいね、俺。
自宅の最寄り駅で降りて、コンビニに寄り、帰宅。その間中、ずっと付きまとわれて、いい加減うんざりだ。内心すごくびびってるけど。
安アパートの前で振り返る。部屋まで付いてこられたら、ほんと洒落にならない。こういうのは気合だ。弱気になるから駄目なんだ。
「本当に勘弁してくれ。俺は疲れてるんだ。夏の情緒の相手する気分じゃないんだ。あっち行けよ」
ふるふると幽霊が震える。あ、やば?
「あ、あなたこそ、あなたこそやめてください」
いままでに比べれば大きな声。
「疲れてるのに、うんざりしてるのに、何やってるんですか」
あ、顔を上げれば美少女ですね。おじさん、ちょっとうれしいかも。
「私だってこんなことしたくないんです。でも、あなたの疲れにひっぱられちゃうんです」
「は? 疲れ、って」
「憑かれるのやめてください。あなたはもう死んでます。早く成仏してください」
幽霊に説教された。はて?
「え。俺も幽霊?」
びしょ濡れの少女が、こくりと肯いた。