プロローグその一
私は疲労していた。汗はすでに枯れ、体は自分のものではないかのように重い。剣を持ってはいないとはいえ、構えを続けるさえ苦しくなっている。荒い呼吸音がさらに神経を苛立たせる。
王女様と関節技の稽古を始めて8時間になる。8時間。朝から休憩もなくぶっ通しである。もし私が騎士になったばかりだった頃なら、とっくに訓練を投げ出していただろう。それが毎日続けば、軍から脱走していたに違いない。それほどの苦行である。経験を積んだ騎士となった今でも、この有り様なのだから。
王族が8時間も関節技の稽古をしている、
世間からみれば正気を疑われてもしかたがないことだ。だが。
王女様は薄く笑ったまま、私と向き合っている。さすがに王女様も息は荒く、疲労は隠せない。しかしその姿をいつも見て思う。
なんと楽しそうなのだろうと。
クローディーヌ = ヴィエイラ。
この国の王、その末子である。輝くような金髪を後ろで束ねている。この国の王族に共通する整った顔立ち。華奢な体つき、身長は私よりも頭一つ低い。それも16歳という年齢を考えれば、特段背が低すぎるわけではない。一般の兵士が訓練の際に使用する粗末な訓練着を身にまとっている。
関節狂い。人々はそうクローディーヌ王女様を嘲笑する。
それでもクローディーヌ王女様は訓練を決して止めようとはしない。
「いくわよ」
高く澄んだ声が訓練場に反響する。
間接技の組み手が再開される。
クローディーヌ王女様の最初の一手。
ゆっくりと私の方へ右手を伸ばす。
クローディーヌ王女様はどう関節技を組み立てるつもりか。私は自分が取るべき次の一手を必死に考える。一瞬たりも気が抜けない。王女様と戦ったことがない者から見れば、ただ手を伸ばしたようにみえるだろうが、ここから無限の手筋が存在する。
この稽古を羨望する馬鹿も多い。高貴かつ美しい少女と肌を合わせることがを冷やかす奴らだ。冗談じゃない。この訓練はそんな甘いものじゃない。
その証拠に私はここ1年間でクローディーヌ王女様に10回ほど骨折させられている。男で、騎士で、身長も体重も勝っているこの私でさえも…だ。
昔ならいざ知らず、今のクローディーヌ王女様にはそれだけの技量がある。こと関節技に関しては。
私の一手。
クローディーヌ王女様の伸ばされた手首を右手で掴む。
真正面から組み合うのはまずいという判断。
その瞬間、クローディーヌ王女様は私の右腕に足を絡めるように飛びついた。
私を引き倒す気か。とっさに掴んだ腕を放そうとする。
だがもう遅かった。クローディーヌ王女様の両手がすでに私の右腕を掴んでいる。本当の狙いは腕の関節の破壊か。
クローディーヌ王女様の体と私の腕の間に、左手を挟み込ませ関節を守る。
そしてクローディーヌ王女様を床に叩きつけるためにその体を持ち上げる。
クローディーヌ王女様の体重は軽い。だから私でも体ごと持ち上げることができる。床に叩きつければ関節技は一旦は剥がれるはずだ。
だがクローディーヌ王女様を叩きつけようするその刹那、クローディーヌ王女様は組んでいた足を解くと今度は私の首に巻き付ける。
思わず私の口から苦悶の声が洩れる。
クローディーヌ王女様も私と同じくらい疲れているはずなのに、なんという滑らかさな動き。ここまでの行動を全て読まれていた?
クローディーヌ王女様の笑みがより深くなる。
だがまだ王手ではない。
敗北を阻止すべく、クローディーヌ王女様を首から引きはがすべく王女の両足に両手をかける。
しかしクローディーヌ王女様を引きはがそうと力を入れた瞬間、あっけなくクローディーヌ王女様の両足が外れる。
力の行き場を失い、私はクローディーヌ王女様の両足を放してしまう。
クローディーヌ王女様は逆さに落下しながら、今度は私の足を抱えようとする。
私を転ばせる気か? 最初からこれが狙いだったのか?
思考が現実に追いつかない。それでも倒れまいと両足に力を入れ、踏ん張ろうする。
が、私の足を抱えていたはずのクローディーヌ王女様の姿が消える。
どこへ?
その瞬間、私の首をクローディーヌ王女様の両腕ががっちりと組み付き締め上げ始めた。
いつの間に私の背後へ。
まるで見えなかった。
クローディーヌ王女様の動く速度は特別速いわけではない。しかし私はその動きを見失ってしまう。
それはクローディーヌ王女様の訓練以外で、体験したことのない奇妙な感覚であった。
いずれにしろこの形になってしまうと、もはや私に打つ手はない。クローディーヌ王女様は関節技をかけようとする相手には遠慮も容赦もしない。首を締め上げられ、意識が落ちるのを待つばかりだ。
しかし私の首を締め上げていたクローディーヌ王女様の力は徐々に弱まっていき、背後でドスンと物体が落下する音がした。
振り返ると、王女様が目を閉じて倒れていた。どうやら訓練の疲労が極限に達し、気絶したようだった。
私は長い息を吐いた。ようやく今日の訓練が終わった。思わず床に片膝を落とす。しばらくは満足に動けないだろう。
クローディーヌ王女様はいつも気を失うまで関節技の稽古する。それも公務がないときはほぼ毎日である。その執念は長年王女様を護衛してきたこの私ですら常軌を逸していると認めざるを得ない。
それが人々に関節狂いと陰口を叩かれる原因。しかしクローディーヌ王女様はそれを一顧だにせず、今日も関節技の訓練をしている。とてもとても楽しそうに。
そもそもこの練習場自体がクローディーヌ王女様専用なのである。広さは庶民が住む家が一軒まるごと収まるほど。それが自宅の一室として存在しているのである。破格ではある。しかし他の王族の邸宅と比較すると、ずっと質素でもあるのだ。この国の国力の高さがそこに現れている。
数人の足音が聞こえた。練習場の隅に待機していたメイド達が走り寄ってくる。メイド達も慣れたもので取り乱しはしない。いつもの光景なのだ。
私は荒い息を吐きながら、メイド達に指示した。
「王が戦場から帰還したのは聞いているだろう。今夜それを祝って晩餐会が開かれる。当然、クローディーヌ王女様もご出席なされる。クローディーヌ王女様が恥をかくようなことがあってはならない。その準備をして欲しい。ドレス、装飾品とも最上級のものを用意するように」
メイド達が頷く。そして美しく刺繍された絹の布を取り出し、クローディーヌ王女を優しく包み、王女の自室まで運んでいく。王女自体がこの世界で一番美しい宝石かのように。
王の子供たちは公務を行う義務がある。例え関節狂いと蔑まれようとも。
ようやく息が整ってきた。私自身も晩餐会の準備をしなければならない。身分の低い騎士の身では晩餐会の会場に登壇することは叶わないが、会場までの警護など役目は多い。
なんとか立ち上がり、自室へ向かう。軽く食事をして、水浴びをし、剣と鎧を身に付けなければならない。
私の自室には机とベット、それと鎧一式。それ以外は存在しない。それで十分。この部屋には寝るためだけにあるのだから。
私はほとんどの時間、クローディーヌ王女様を警護するためにその隣に立っている。なぜならクローディーヌ王女様の警護専属の騎士は私一人だけなのだ。
本来ならば、末子とはいえ王女である。もっと多くの騎士に警護されるべきである。だが魔王との戦争がそれを許さない。魔王との戦争はもう30年も続いている。慢性的に兵士も不足している。その余波が王女様の警護の数にも影響しているのだった。
現在のところは私一人でも問題なく任務を遂行できてはいる。そもそもクローディーヌ王女様は自分の邸宅から外出する自由がない。だから暇さえあれば私と関節技の訓練をしている。
ごく稀に今夜のように晩餐会などのように公務があったとしても、そこには別の護衛がいる。その道中の経路も通いなれた道ばかりだ。つまり地の利がある。地の利があれば、人一人守ることはそれほど難しいことではない。
警護の用意をしながら、今日の関節技の訓練を思い返す。クローディーヌ王女様と私が怪我をしなかったことは、まずは良好な結果であった。怪我をしたら晩餐会に出られないといくらクローディーヌ王女様を説得しても、まったく聞く耳を持たなかったのだから。王女様は関節技に関してだけは絶対に妥協しない。畏怖すら覚えるほどに。
それとは別に最近クローディーヌ王女様の関節技のさらに腕が上がっているように感じられる。もちろん私もある程度の加減はしている。訓練で主を傷つけるわけにはいかないからだ。剣を使うのはもちろん、殴ったり蹴ったり、魔法を使うことも禁止してクローディーヌ王女様と組み合っている。
それでも…だ。私が勝つことも多いが、日に日にクローディーヌ王女様に負ける割合が増えてきていた。情けないと、思うべきだろうか。
なぜ負けたのか。あれこれと考える。
騎士の本分は剣で戦うことであり、関節技を極めようとしている人間自体は世界中を見渡してもクローディーヌ王女様ただ一人しかいない。それでもどうしても敗北の原因を考えてしまう。
これは戦う者の本能なのだろうか?
鎧の装着が終わった時、ドアがノックされた。開けるとメイドが顔を出した。
「王女様の準備が整いました」
「ああ、わかった。すぐに向かう」
この邸宅においてエントランスは最も贅が尽くされた場所である。至るところに絵画や骨とう品が置かれ、訪問した人間に王族の権威を見せつける。もしこれらの品に傷を付けたのなら私やメイド達の首が飛ぶ恐れすらある。
晩餐会のために着飾ったクローディーヌ王女様は美しかった。
あの粗末な訓練着でさえ美貌が際立っていたのだから、一分の隙もなく着飾った今、全身が光り輝いているようにすら見える。
しかしクローディーヌ王女様はそれを誇る様子など微塵もない。関節技以外にほとんど興味を持たないのだ。
私の目の前でクルリと一回転する。
「どう?問題ない?」
その声は先ほどの訓練の時とは、込められた熱意がまるで違った。自分のドレスを煩わしそうに眺める。クローディーヌ王女様にとってはどんな美しい衣装も、ただの拘束具にしか感じられないのかもしれない。
「は。問題ないかと。外で馬車を待たせてあります」
「よし。じゃあ行こうか。モイモイ」
私はすかさず訂正する。
「私の名前はディオンス=モイーズです。決してモイモイではありません」
ようやくクローディーヌ王女様は笑顔になる。
「モイモイの方が可愛くていいよ。ディオンス=モイーズなんて面白くないわ。私はモイモイと呼ぶ」
このやり取りを一日一回以上はする。クローディーヌ王女様の大のお気に入りの冗談である。私には何が面白いのかさっぱり理解できないのだが。
最近ではメイド達も陰で私のことをモイモイと呼んでいるらしい。それを全て咎めるようなことはしないが、非常に心外だ。
外はもう寒くはなかった。冬が終わり、春がもうそこまで来ている。そんな季節だ。
四人乗りの馬車が私たちを待っていた。見上げる程に大きく、意匠も豪華ではある。しかし同時に王族が使う馬車の中では最も質素なものでもあった。
先回りにして扉を開け、クローディーヌ王女様を引き入れる。私の手にクローディーヌ王女様の手が重ねられる。
馬車がゆっくりと動き出す。
クローディーヌ王女様は優雅な動作で椅子に腰かけ、備え付けてあった本を読みだす。私の記憶が確かならばその本は人間の構造について書かれてる本だ。本来は医療用の本を無理を言って取り寄せたのだ。
クローディーヌ王女様の自室にはそのような本が大量にある。関節技の腕を上げるには関節をかけられる側の理解も必要。ありとあらゆる手段を使って関節技を極めようとしている。
数ページだけペラペラと本をめくると、クローディーヌ王女様は憂鬱そうにため息を付いた。
私はこれから参加する晩餐会が憂鬱なのだろうと予想する。公務に乗り気になれないことはわかっていたからだ。きっと今回もそれだろう。
しかし違った。
クローディーヌ王女様は言う。
「ああ。魔王に関節技をかけるにはまだ遠いわ」
クローディーヌ王女様まるで明日の朝食が思っていたのと違ったかのように、ごく当たり前の調子では嘆いた。
それこそがクローディーヌ王女様の最終目標。見果てぬ夢。関節技が魔王に通用すると根拠なく信じている。それも心から。
私は騎士だ、クローディーヌ王女様に忠誠を誓っている。
だからクローディーヌ王女様を信じたい。それが従者の役目である。どこまでも主の味方をしなければならない。
しかし
そんな私でさえ
その言葉だけはあり得るはずがないと思ってしまっている。