LLAC SNOSAESという星の神話
テスト
学生時代に書いたやつ
青年が荒野を歩いている。見わたすかぎり赤茶の砂、目にとまる物と言えば遠くにぽつぽつとそびえる岩石のみ。青年はその中でもひときわ大きな岩石を目指して、風に逆らい太陽の沈む方へ歩いていく。
砂の色と同じ色をした陽射しにその肌をやかれないよう青年が全身に纏っている濃色の布を、砂まじりのザラザラした風がはためかせる。かぶったフードの中にまで入り込んだその風は青年の耳元でぼうぼうと囁いた。
ふ、と目の前が暗くなる。いつの間にか目指していた巨大な岩石の影に入り込んでいたのだ。幾分か体感する温度が下がって、青年の汗でじっとりとした肌に触れる空気も心地よいものに変わっていた。青年はフードをぬぎつつ顔をあげ、あまりにも巨大なその岩石のてっぺんを見つめる。影で黒く染まった岩石の、荒々しい岩肌を赤茶色の光が縁どっている。
「いるのか」
青年は低く、けれどよく響く声で問うた。ガラガラとたくさんの石を転がすような音がして岩石のてっぺんに胡坐をかいて座る者がせり出てくる。
「ああ、いる」
岩の上の男は舞台役者のようなよく通り抜ける声をしている。
「探しものをしている、ルデンに尋ねれば途を教えてくれるときいた」
「ルデン・・・」
岩の上の男は目を細め、久々に自らの名の一つを呼んだ青年のつま先から頭のてっぺんまでをゆっくりと眺めた。
「名乗れ、おれの名を知る青年」
「デオ・ジアール」
「ジアール・・・良い名だな」
ルデンは青年の名を吸いこむかのように、長い長い深呼吸をした。屈強な胸板を膨らませて風を吸い込みながら程よくとがった顎を太陽へ向け、ごつりとした喉仏をゆっくりと上下させる。それからもう一度、ジアールを見つめる。
「最近、おれの真下を流れていったものがあるが・・・それか?」
「きっとそれだ」
岩の上からぶつけられたルデンの視線を避け、ジアールは岩石と土、その下を見透かすように凝視する。
「お前の探し物は流れていって今はロイルが持っている、ロイルから取り戻す勇気があるか」
「元からそのつもりで来た」
ルデンが言い終わるか終らないかの内にジアールは顔をあげ、急いて答えた。
「けれどもおれは、そこまでお前を導けない」
「岩だからか」
「岩だからだ」
逆光を浴びる岩が面白そうに口角をあげた、ようにジアールには見えた。ルデンが左手で手招きする。ジアールは近くに寄れという意味かと考え一歩踏み出そうとしたが、踏み出す前にその足は止まった。足元にぷかり、と人間が水中から浮上するのと同じように、肌の浅黒い少年の頭が影の中から湧き出でてきたからだ。
「・・・影か」
「影だ」
頭から胸のあたりまで体を浮上させた少年が興味深そうにジアールの全身を見回すそのたび、三白眼の中の漆黒の瞳に映った小さなジアールが角度を変える。
「俺の代わりにこのラック スノーサエス中を泳ぎ回る影だ」
頭上から放たれる声に影は嬉しそうに笑い、顔を真上に向けた。
「ルデン」
弾んだ少年の声はみずみずしい。
「影が俺を導くのか」
「それは影しだい・・・ジアールをロイルの元へ連れて行ってやれ」
ジアールとルデンが影の少年を見つめる。少年は交互にそれぞれの顔を見ると青年の方へ視線を定めた。
「少し遠い」
「そうか」
「ルデン・・・」
影の少年がルデンを顧みて眉根を寄せる。渋っているのだ。ジアールも助けを求めるようにルデンを見あげる。黒い瞳と赤茶の瞳の視線を受けとめながら、ルデンは苦笑のような表情をつくった。自身の膝に肘をついて頬杖をつく。
「みかえりを与えればいい、人間は交換が得意だろう」
「みかえり・・・」
呟きながらジアールは足元の影を見る。少年の視線がいつの間にかこちらに移動していたらしく目が合った。黒々とした瞳の奥を覗き込めはしないかと、視線はそのまま、青年は影のただ中に言葉を落とす。
「なにか欲しいものはあるか・・・交換しよう、お前の時間と」
影の中の少年は自身の掌を見つめて何やら考えこみ。やがてぽつり、と呟く。
「名前」
「名前?」
「そう、ルデンのような」
黒の中の少年のはにかんだ表情は明るい。青年は逆光の中のルデンを一度見てもう一度少年を見た後、しばし目を瞑って考え込む。瞼の裏にまで強い赤茶の陽射しが差し込んでくる。ゆっくり瞳を開けて地面に膝をつき、影が覗き込む視線を感じながら手ごろな小石を手にとった。
影の少年は伏し目になったジアールの顔を見つめている。黒く短めの前髪を風がもてあそぶ。ゆっくり顔をあげながらジアールは真っ直ぐ、黒い少年の瞳を見据えた。
「パラン」
ジアールの声が一帯の影を揺らした。
「パ、ラ、ン・・・」
「そう、パラン」
「パランか・・・最後の字が同じだ・・・・・・パラン」
地に石で書かれた文字を読みあげるパランの声に呼応して、あたりの影がゆらゆらと嬉しそうに揺れ続ける。揺れは波紋の様に広がって岩の上のルデンまで届き、その笑顔を柔らかなものに変える。
「パランか・・・飛び跳ねるもの、とかいう意味だったか」
ルデンの声で紡ぎだされる「パラン」という音はパランにとっては何より特別らしく、影がいっそう震える。その揺れでジアールもパランがこの名を気に入ったのだと安堵する。
「飛び跳ねるものパラン、行って来い」
「行って来る」
言うなり、パランは腰のあたりまで自身の体を浮き上がらせた後、ジアールの足元に手をついて頭からつま先まで、クジラが海面をせりあがってから海に潜る仕草で、とぷんと潜りこむ。呆然と見ているジアールの足元から再び頭を出して「行こう」と弾んだ声でそう言った。
「ありがとう、ルデン」
岩の上に座すルデンを見あげる。ルデンは一度うなずいてジアールとその足元に浮かぶパランに笑みをむけると、現れた時と同じガラガラという音とともに何も言わずに消えていった。
「行こう」
「ああ行こう」
荒野を歩いている。目指すのはロイルの住処への入り口、希少なオアシス。足元に共を連れて足元の友に連れられて。
ジアールの新しい友、パランは影の中から決して出ない。ゆらゆら変わるジアールの影の中で頭を出しながら泳いで、時折方向を指し示す。
「影からは出られないのか」
パランが漆塗りのような黒い瞳をジアールに向けた。
「出られる、でも動きづらいし、お前たちには見えなくなる」
パランがさっと両の腕をジアールの影の外へ突き出す。確かにジアールの目にはパランの肘から先が消えて見えた。
「消えた・・・」
「見えなくなっているだけで在る、お前たちにとっては光にあたると見えないのが影なんだろ、ルデンから聞いた」
可笑しそうに肘を曲げ伸ばしし、ジアールに腕を見せたり消して見せたりしているパランを見て、ジアールの頭にひとつ他愛もない疑問が浮かぶ。
「鏡には映るのか」
「映る、けどお前たちには見えない、鏡は光を反すものだから・・・お前たちは光が目の奥に入ると物が見えるってルデンから聞いた、だから見えない、時々見える人間もいるけど、そういう人間は光じゃないものが目の奥に入るからおれ達が見えるんだってルデンが言ってた」
「ルデンに尋ねよ」突然、故郷の町にいる盲目の老婆の声がジアールの耳に蘇った。今は町外れの畑の中で一人、生きている老婆。彼女の目の奥には光でなくて何が届いているのだろう。
「時々おれ達が見える人間に話しかけるけど話しかける前によく考えろって、これもルデンから教わった」
「すべてルデンなんだな」
ジアールが呆れ声でそう言った。この短い時間の中で彼は何度、雄大な岩の名前を口にしただろう。しかしパランは当然だという顔で頷く。
「ほとんどの時間をルデンの影の中で過ごすから、ほとんどの事はルデンから教わった・・・ずっとルデンの影の中に居たいんだ、ルデンが好きだから」
はた、とジアールが立ち止まりパランはその影の中から飛び出そうになった。双方の間にびゅう、と風が吹く。ジアールはパランをまじまじ見下ろして顔をしかめる。
「ルデンもパランも男、だろう」
故にジアールはパランの感情をどうしても理解しきれない。
「男・・・ああ、人間が増えるための形のことか、この姿はジアールが人間だからそれに合わせているだけ、おれ達の肉体も声も人間たちとは別のところにある・・・人間にとっては男とか女とかそんなに大事なことなのか」
「そんなに・・・・・・そんなに大事だ、男と女が好きあわなければ子は生せない」
今度はパランが顔をしかめてこめかみの辺りをさする。その顔立ちと仕草、表情だけならとても人間らしい。
「増えることが好きって気持ちより大事なのか?・・・まあでも、動物はそれでいいのか・・・」
互いに複雑な表情を浮かべたまま、どちらともなく再び目的の方向へ進みだす。ジアールはとても納得したとは思えない表情で傍らを行く影を見つめる。
「どうしてルデンは、おれの案内役にお前を選んだんだろうな」
つぶやいた声はひときわ強く吹いた風のおかげで、パランの耳に届くことはなかった。
「ほら、見えてきた」
その声に前を向くと丘を少し下ったところに、黄緑色に茂った葉が集まっている一帯があるのが目に入る。オアシスだ。中央部から染み出す水でできた池とその周りを取り囲む背の低い樹木、久々に見る淡い色彩にずいぶんと長い間、赤茶の大地と太陽しか見ていなかった事を思い知った。湿った空気の匂いがする。まだら模様の木陰に近づいていくと、パランがその表情を明るいものに変え、愉快そうに木陰に腕を突っ込んだ。案の定パランの腕はまだらに透けて、虫食いのひどい木の枝のようになった。ジアールの背筋がぞわりと粟立つ。
「おかしな目の奴がいる、おかしな耳の奴がいる」
突然頭上から降ってきた声にパランとジアールは顔を上げる。一番大きな木の枝に足を組んで腰かけ、となりの枝に肘を預けた青年が高慢ちきな微笑をたたえてそこに居た。年のころはジアールと同じぐらいだろう、こげ茶の髪の毛先がところどころ白く金色の瞳からぎらぎらした眼光を放っている。
周囲の木々が風によってざわめきだして、ジアールはなんだか金目の青年と周囲の空気が一緒になって自分を嘲笑っている気がした。
「お前は誰だ」
「俺はタニャウさ」
その名にパランがぴくりとする。
タニャウはやはり馬鹿にした笑みで息を吐いた。小首を傾げてぐいと上半身を乗り出しジアールの瞳を不躾に覗き込む。
「あんなに囁いてやったのにあんなに語りかけてやったのに、お前は俺の名すら聞かない聞こうとしない」
ジアールには思い当たる節がなかった。タニャウに出会ったのは今日が初めてのはずだ。タニャウの言葉を聞くのは今日が初めてのはずだ。
「ずっと、ルデンの元に辿りつく前からずっと、俺はお前の耳元で探しものの在り処を囁いてやっていたのに、お前はルデンに尋ねなければ在り処は分からないと思い込んでた、自分の探しものの事しか頭にないから周囲の手がかりに気がつかない、結局お前がお前を探しものから遠ざける」
タニャウは吹き抜けるように一息にしゃべり倒した。その様子をただ見つめるだけのジアールの横で、パランがぱっと表情を明るくした。
「そうか、タニャウはここらの風の名だ」
「なんだ、影のガキの方が聡明じゃないか?」
パランの言葉にジアールは耳元でぼうぼうと鳴る風の音を思い出す。確かにずっと自分の周りには風が吹いていた。
「けれどそれは・・・風がふくのは当たり前のことだ、だから・・・」
「だから気がつかなかった?その当たり前が大事なんだ」
辺りの風がぴたりと止む。楽しげなおしゃべりを繰り広げるように葉の擦れる音を響かせて揺れていた木々が毛ほども動かない。
「お前が大事なのは探しものか?それとも自分か?なあジアール、本当に探しもののことを想っているか?」
押し黙るジアールと木の上のタニャウをパランがそわそわと見比べる。
「そう責め立てるなよ、タニャウ」
高くもなく低くもなく聞くに丁度良い声が耳に届いて、パランとジアールは辺りを見回す。他の木々は毛ほども葉を動かさないのに、タニャウの腰かける樹木だけがざわりざわりとその葉を幹を、揺らしている。
タニャウはふん、と鼻を鳴らして両腕を後方へぐっと伸ばす。こげ茶の髪が伸びていって顔を覆い腕を覆い胴体を覆い、力強く滑らかな羽毛に変わる。足は短く細くなる代わり爪が鋭くのびていき、鱗に覆われ、タニャウの姿はすっかり眼光鋭いイヌワシへと変わってしまった。同時に樹木も揺れを大きくして枝が細くなり、その葉たちが中心へ上 の方へシャワシャワシャワッとまとまっていく。どんどん細く小さくなっていって痩身の麗人へとその姿を変える。
ジアールはパランを踏みつけそうになった時より、パランが自身の影へ入った時より驚いていた。
「初めましてデオ・ジアールそしてパラン」
イヌワシのタニャウを左肩に乗せ、樹木の人はゆったりと微笑む。女にしては凛々しく男にしては柔らかいその顔立ちと声にジアールはどこか安らぎを感じた。横で緊張のほどけたパランがジアールの影から身を乗りださんばかりにタニャウとその人を凝視している。
「私はメリーラン、君たちをロイルの所へ送り届けようと思って」
メリーランは言いながら右の方へ少し首をかしげる。その拍子に頭に緩く一周だけ巻いた紗のターバンが薄い茶色の髪と共にさらさら流れた。ジアールは少しぼうっとしてその流れていく髪の毛先を眺めながら呟く。
「どうして、おれ達を・・・」
「それが私の愛だから」
急いで毛先からメリーランの顔へ視線を移したジアールの目にとびきりの笑顔が飛び込んでくる。ジアールはその笑顔に質問を投げかけようとして、何を尋ねたいのかわからず、中途半端に口を開け閉めした。
「お前はいつも人間に甘い、メリーラン」
拗ねた声色でイヌワシのタニャウはそう鳴いた。
「仕方ないだろう、君やルデンよりは人間と親密なんだよ私は・・・君は親密になりたい相手に対してもっと素直になったら良い、ほらパランと遊んでおいでよ」
突然名を出されたパランは少し瞳を丸くしたが、タニャウが羽ばたいて近くによるとワクワクした表情でそれを迎える。
「何して遊ぼう」
「競おう、どちらが素早く動けるか」
パランは一度にっこりして得意の動きでタニャウの影へと潜りこんだ。タニャウがいっそう強く羽ばたいて木々の間を勢いよく飛び回る。
「彼らはあれで良い、ルデンの望んだとおり」
「ルデンの望み・・・」
ジアールとメリーランは木々の合間を縫って、飛び回り飛び跳ねる彼らを目で追いながら言葉を交わす。
「ルデンは私たちの中では最も儚い」
「あの力強いルデンが・・・」
「そう」
肯定と共にジアールに向けられる、メリーランの微笑みこそ儚い。
「私は時間とともに育っていくけれど岩は一度出来上がれば後は削られていくだけ、ルデンはロイルやタニャウにも負けてしまう、けれどパランは違う、永遠にも似た時を過ごしていく」
「影だからか」
「影だからね」
ジアールは胸の締め付けられる感覚に襲われる。ルデンがパランを案内に選んだのはジアールのためではなくパランのためだ。消えていく自身と悠久の時に置き去りにされるパランと、その二つを想って彼はパランに旅をさせたのだろう。自身はただじっと荒野の中で佇んだまま。
「タニャウは風さ、パランとラック スノーサエスの裏側まで共に飛び回れるだろう、永遠に近い時間を共にすごせるだろう、それがルデンの愛・・・私もタニャウに友ができて嬉しいよ」
ほとんど囁きに近い最後の言葉とは裏腹に、緑の石英のような瞳を伏し目にしたメリーランの横顔は寂しそうだ。ジアールの瞳にその横顔が探しものと重なって見える。
「メアナト」
無性にその名を呼びたくなって、その衝動のまま懐かしい発音を口遊む。石英の瞳がキラリと光った。
「それが探しものの名前?」
「そうだ、メアナト・・・おれはロイルからどうしてもメアナトを取り戻したい、そのために此処まで来た」
「どうしても?」
「どうしてもだ」
メリーランは静かに瞑目すると、自らの髪と共に垂れ下がる紗のターバンをさらりとなで、ジアールをまっすぐ見つめる。
「君の名前は駿馬という意味だけどいささか荒馬でもあるね、私にはそれくらいが丁度いいけれど、此処からは私が案内するよ、と言ってもロイルの元へはすぐだけれど、パランの使う道は人には危ない・・・・・タニャウ手伝ってよ」
その問いかけにイヌワシとその影はひゅーっと戻ってきて、メリーランの肩にとまりジアールの影に収まった。
「タニャウっておれと同じくらいの速さで飛べるんだ、こんなやつ初めて出会った」
パランは父親に遊戯を報告する子どもの様にジアールを見あげて話す。きっと同じ表情でいつもルデンにルデンが見に行けないものを報告するのだろう。一方タニャウは何でもないと言うように瞼を閉じてきょう、と鳴いた。
「行こう」
「ああ、行こう」
微笑んだメリーランの顔にもう寂しげな色は窺えなかった。
佇んでいる。池のほとりに、増えた友と並び佇んでいる。ロイルの住処はこの池の奥。
「おれはいつもこの池から潜っていく」
パランがジアールと共に池を覗き込みながら言った。タニャウは池の上を飛んで、水面に少しだけ爪を触れることでできる波の線をつくりながらそっけなく答える。
「それじゃあ人間には無理だろうな、空気のあるところまで距離がある」
「だから木の根で掘っておいた、こっちだよ」
メリーランの声色が少し得意げだ。華奢な背中を追って歩き出すと、池から数十歩離れたところにぽっかり穴が空いていた。どのくらい深い穴なのか真っ暗で底知れない。覗き込んでみると湿気を含んだ空気がジアールの顔に届く。
「ここから飛び込んで、タニャウが先に行って受けとめてくれる」
ジアールは眉をひそめてイヌワシを見た。自分の命運をこの風ひとつに任せるのは不安だ。タニャウはその視線を受けとめずそっぽを向いてしまう。
「意地悪するなよ、タニャウ」
「ジアールが俺を信用しないだけ」
「拗ねるなよ、タニャウ」
再びそっぽを向いてしまうタニャウにメリーランが苦笑する。一方でジアールはパランに裾を引かれて振り返った。
「タニャウは大丈夫だ、多分」
「多分か」
「多分・・・・・それに万が一、何かあってもジアールの影の中にはおれがいる」
言ってパランは微笑んだ。その笑みが最初に会った頃より大人びて見えてジアールは少し面食らう。しかし同時に安堵もした。
「なら降りよう・・・タニャウ、頼んだ」
その言葉に片目だけ開いてタニャウはジアールをちらりと見ると、何も言わず落ちるように真っ黒い穴へ滑空していった。メリーランが微笑んでいる。
「私も後から行く」
ジアールは安心させる笑みから視線を動かし、不安の渦巻く暗闇をしばし見つめて瞳を閉じた。瞼の裏に映るのは。
「メアナト」
呟きと共に暗闇へと落ちていく、内臓が体の上の方へ集まるような気持ちの悪い浮遊感。下へ下へ奥へ奥へ。閉じていた瞳を開けてしまおうかと思った頃、真下から強い風が吹き上げた。巨大なクッションの上に着地する感覚を味わい、瞳を開けると青年の姿のタニャウが立っているのが視界に入る。柔らかく濃密な空気に包まれゆっくり湿った地へ降ろしてもらう。地に足がつく瞬間、一度よろけたが怪我もなく無事に着地した。腕を組んで横目でこちらを見ているタニャウに気恥ずかしくなる。
「・・・・・すまない、ありがとう」
ジアールがそう口にするのには随分と時間がかかった。タニャウは顎をくい、と上げて「たいした事じゃない」と小さな声で言った。
「タニャウは凄いな」
暗闇の中に響いたパランの声はあたりを照らすように明るい。声のする方を見たジアールとタニャウはパランの視線がいつもより高いところにあるのに違和感を覚える。
「ここは良いなあたりが全部影だ、動きやすい」
パランはジアールと出会ってから初めてその全身をジアールにさらしていた。自身の足で暗い地面に立つパランはより活き活きとしている。
「気に入ったかい、私もここが好きだよ」
耳心地良い声を反響させながら、するすると木が根を下ろすようにメリーランが降りてくる。サンダル履きの足をそっと地に下ろし、ジアールに向き直った。
「ここはロイルが長い時間かけて君たちの町の下をルデンの下を掘り進めた跡、少し先に池が落ちてくるところがある」
ジアールがしばし濡れた岩壁や足元の水溜りなどを観察していると、メリーランに声をかけられパランに急かされ、隣のタニャウと同じ歩幅で歩き出す。
少し歩くと水のせせらぎと共に足首ほどのかさの小川が現れた。
「ここは池から分かれた緩やかな川、池の落ちてくるところや、メアナトが流されてきたところは流れが急で確かに危ないから」
細い岩壁の廊下を一列になって歩く姿は外から見れば滑稽だろうと、どうでもいい事を考えついてしまうほどには長い時間を奏して歩き続けた。そして。メリーランの肩越しに急に視界が開け、ドーム状の空間へ出る。
その空間の中心に愛おしそうに少女を胸に抱くものが座している。そのもの自身と抱いた少女、双方が引き立てあってつくり出すあまりにも美しい空気に、ジアールは全身を緊張させた。
「メアナト」
しまった喉でようやくその名を呟いて近くに寄ろうと足を速める。その瞬間。
そのものと少女を中心に大粒の水滴が放射状に飛び散る。ちょうど雨の日に傘をぐるりと回した時のように、しかしそれより明らかな敵意を持って。
「ロイルか」
「そうだよジアール」
ロイルの声が波紋になってドームの隅々まで届く。パランもメリーランもタニャウでさえも押し黙って口をつぐんでいる。彼らは人間よりも鮮明にロイルへの畏怖を感じる存在。
「メアナトを連れ出しにきたの?今更」
ロイルは膝の上で安らかに眠っている少女、メアナトを抱きしめ直しながらそう言い放つ。ジアールの方へなど露ほども視線を送らない。胸の中のメアナトはしっとりと濡れていて、長い黒髪が光沢を増している。薄いシルクの花嫁装束は肌に張りついて透けて、ジアールは別れの日の朝を思い出した。あの日と変わらぬ姿でメアナトがそこにいる。
「今更だ、それでも連れ戻しに来た」
「連れ、戻す?」
ロイルの透き通るように青い瞳がようやくジアール方へ向けられたが、その色はどこか危険な光を含んでいる。メアナトと同じ光沢を放つ濡れた黒髪が逆立つ。水面の波紋が大きく強くなって、水の中に立っているもの達の腰まで濡らす。
「この娘と共にあの町へ帰ろうっていうの?そこまで愚かだとメアナトも報われない・・・メアナトは雨の代わりに町中が僕らに差し出した娘、そんな娘を連れ帰る?そんなこと君が君の好きなものに囲まれて、居心地のいい町に留まっていたいっていう利己だろう?」
ロイルの言葉にジアールの呼吸が苦しくなる。図星以外の何者でもない。パランだって成長したこの旅で自分は何か新しいことを学べただろうか。パランの愛を否定して、タニャウの愛も理解できずにここまで来てしまった。メアナトが目を覚ましたとき、メアナトはこんな自分を愛してくれるだろうか。メアナトの心を想像する事さえジアールはしてこなかった。
「自分以外のこともよく考えるといいジアール、メアナトはこのまま幸せに眠り続ける、町と君はこの娘の代わりに雨を手に入れる、僕らは雨を降らす代わりにこの娘を愛でる、それでうまくラック スノーサエスは回っていくだろう」
「恐れながらロイル、事実を葉の下にもぐりこませてしまうのはいけない」
波打ち続ける水面の中で凛と、樹木が芽吹くようにメリーランがその波に逆らう。ロイルはかくんと首を曲げメリーランの石英の瞳を見つめた。
「雨が降らないから町の人々はメアナトをあなたにささげた、それは紛れもない事実、けれど雨が降らなくなったのは、メアナトが生まれたからでしょう・・・それがあなたの愛?」
今度はタニャウが前へ進み出る。イヌワシの羽ばたきが大気をかきまわすように、大股で水をわけて歩みでて、その鳴き声で空気を裂くようにロイルへ語りかける。
「風は誰にでも平等に吹く、あんたによく似た娘の誕生をあんたに囁いたのは俺だ、だからジアールにもメアナトの流れ着いた先を囁き続けた・・・伝わらなかったが・・・それも俺の愛」
パランだけがその瞳を丸くして何もいわずに目の前の出来事の成り行きを眺めている。
「利己的なのはそっちだロイル」
ジアールもそう言い放つが、ロイルはそれらの言葉を意にも解さず不気味なほどの笑顔でそこに座している。
「なんとでも言ってくれてかまわないよ、それが僕らの愛・・・言いくるめて帰らせようとしたのに、こんなに多くの摂理が君の見方をするなんて、いや違うな、みな自身の愛に忠実なだけか・・・ねえメリーラン、メアナトのおかげで僕らとの時間が減ってそんなに寂しいかい?」
瞑目したメリーランの眉間に刻まれたしわが下がった眉尻が、答えを物語っていた。それがメリーランの愛。
「そんなに苦しむ愛ならいっそ捨ててしまったらいいのに、僕らとは別のものに代えてもいい、人間とかね、タニャウもプライドにも似たその愛で自ら苦悩するくらいなら、そんな愛捨てておしまいよ、ジアール、君も利己的なその愛でこんなところまで旅をして、君はいったい何を手に入れたの?幸せじゃなきゃ愛する意味がないでしょう」
「いいじゃないか、それで」
パランの声があたりを照らすようだった。
「いいじゃないか、自身の愛で苦しむことのいったい何がいけない」
ロイルの瞳がすっと細くなり、パランを射抜く。
「知らないことは一番の幸せだね、無知なるパラン、だから僕らもメアナトを寝かせておく、何も知らなくていいように、ルデンがどうして君を愛でるか、君はきっと知らないだろう」
「知らなくなんてない」
パランは自身の掌を見つめながら言葉を続ける。
「おれの姿はあの岩にルデンと名づけた少年のもの、愛しい者を思い出させる、だからルデンはおれを愛でる」
ロイルは初めて驚いた表情を作り、するりと視線をメアナトの四肢へながした。
「それで君は苦しくないの」
「苦しい、それでも、おれの中の形以上の価値を、いつかルデンに示して見せる、おれはルデンが好きだから」
ジアールはパラン、メリーラン、タニャウを順に見回す。愛に忠実に生きているから、これらのものはこんなにも強い。
そうだ、一瞬だけでいい。メアナトの答えは目を覚ましたその時にしっかり聴けばいい。今この瞬間だけ何よりも愛に忠実に生きよう。それがどんなに利己的でも、何も手に入らなくても、無鉄砲な愛でもないとラック スノーサエスは回らない。
「ロイル、おれはメアナトの幸せもメアナトの口から確かめる、お前の腕の只中で眠ることが幸せなんだと、メアナト自身がそう言ったなら、必ず彼女をお前の腕の中に帰しに来る・・・・・・何がメアナトの幸せか、わからないのがお前の苦しみだろう」
ロイルの逆立ったつややかな髪にその怒りがうかがえる。今度、図星を知多のはジアールの方だ。ロイルが目を閉じて呼吸を深く長いものへと変えていく。その深呼吸に合わせ、荒々しかった波はロイルの腰かける岩の根元、ドームの中心へ集まっていき、水面が穏やかになる。最後に諦めのため息。
「何万年何億年、どう考えを変えてみても僕らは君たちが愛おしくて仕方ないらしい」
ロイルの腕の力が弱まったのを見て、ジアールがメアナトへ手をのばす。
「行っておしまいよ、強く抱きしめて」
細い手首を掴んで引き寄せ、メアナトに腕を回したその瞬間。中心に引き寄せられて膨らんでいた水たちが、縫い付けていた糸が切れたようにあふれ出す。とっさにメアナトの鼻と口をふさぎ、ジアールも息を止める。視界の端でパランがメリーランとタニャウの胴に腕を回すのが見えた。
水にもみくちゃにされて少しの間、上下左右もわからなくなったがまもなく水の流れが緩やかになり、水面の向こうから太陽の光が屈折して届いているのがわかるようになった。あちらが上だ。必死でそちらへともがく。岸の草を掴んでメアナトと共に懐かしい太陽の下へ。岸に腰かけ咳き込みながら、メアナトの無事を確かめる。足元の水中を黒い影がよぎり、背後の木々がざわめいているのを感じ、頭上ではきょう、と鋭くイヌワシが鳴く中、メアナトはゆっくりとその瞼を開いていった。眩しそうに瞳を瞬かせながら、ぐったりとした手で、それでも、ジアールの頬へ触れようとする。ジアールはその手が頬に届く前に、強く握って胸元へ運ぶ。
「ジ、アール・・・デオ・ジアール」
確かめるように透き通った声でジアールの名を紡ぐ。
「メアナト」
「どうして」
「ただ、君に会いに」
「嘘」
「嘘だ、だけど・・・今はそれでいい」
メアナトがやっと微笑んだ。