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94.花筏

 


1553年 4月(天文二十二年 卯月)



 青丹(あをに)よし、奈良の尼寺をふたたび訪れた。



 お祖母さまが西国三十三所へと巡礼することになっている。菩薩の功徳を得て、あらゆる罪業が消え去り極楽往生を遂げるべく、歩いて寺院を巡るために。


 そして、完全に剃髪されてしまわれる。

 あの、青みを帯び、しっとりとした黒髪を剃り落とす。寂しきことではあるが、源氏の君と同じ過ちを犯すのはあまりに愚かであろう。


 ならば、己の(よく)のままに執着して、お祖母さまの思いを成就させることなく妨げるは悲しき結末を迎えるだけだ。



『青は(これ)を藍より取りて(しか)も藍より青し。氷は水之を為して而も水より(つめ)たし』


 だからこそ、口をつぐんで己の慾は押し殺し、お見送りするが孫の務めというものぞ。後で悔いるのが分かっているからこそ見送ることが出来る。人の機微を書物として残し給うた偉大な先人に感謝。




 背の高い木立に囲まれ、ほんのりと薄暗くもところどころ垣間見える木漏れ日。揚雲雀(あげひばり)が鳴く中、転ばぬようにとお祖母さまの手を携え苔むした石段を登る。と言っても、門まで続いている石段はさして長くもなく、あっという間に最上段へたどり着いてしまった。


 登りきるのを待っていたかのように、鴟尾(しび)へ止まった雲雀がまたも鳴く。その声を耳にして我が心も泣いていた。


 雲もないのに雨がしたたる。

 天泣だ。


 さらには蛙も鳴き始め、とうとう堪えきれずに我が目は泪をこぼす。



 大した別れの言葉はない。

 今生の別れではないのだから当然か。

 だが、悲しいものは悲しい。


 お祖母さまは迎えに来た尼御前に連れ立たれ、敷居をまたぎ行ってしまわれた…… お祖母さまが、行ってしまわれた。


 重々しい門戸が軋みを上げゆっくりと閉じていく。と、閉まりきる間際。


 ほんの一瞬ではあったが、こちらを振り向くお祖母さまの姿が見えた。



 しばらく、そこから目を離せなかった。

 いつの間にやら雨は上がり、それまで聞こえていた生き物の声も止んでいた。


 ── ピッ


 雨粒が滴となって、木の葉から水たまりへと滑り落ちる。常であれば気にも留めないであろう、その雫が立てるほんの小さな音だけが耳を打つ。


 ── ピッ


 また、雫が落ちた。

 聞いた音の数が二十を超えたときだった。こちらを気遣ってか、柔らかな物言いで市正が声をかけてきた。



「我らも吉野へと参りましょう」

「…… そうよな」



 半ば、自分に言い聞かせるように漏れ出た言葉を、もう一度口の中で繰り返した。



 こういう時、周りに人が居てくれるのはありがたいと思う。人目が無ければ、心の赴くままに泣きわめいていたかもしれない。


 人のぬくもりを教えてくれる皆に感謝。




 ■■■




 聞いた話によれば、山科言継が三好長慶に求められ玉葉和歌集の書写をするらしい。その前には源氏物語注疏の書写もしている。それも、誰に送るための写しか、調べておいた方がいいだろうか。

  

 ときを同じくして、三条西(さんじょうにし)公条(きんえだ)も高野山や吉野山を巡っていることも耳にした。一年ほど前に、土佐で嫌味の応酬をした実澄(さねき)の父御だ。


 まぁ、本人でないだけましか。

 ともあれ、この時期に高野山をめぐっているということは、譲位に関わる祈祷に対するお役目を担っているのだろう。



 三月にはときの将軍である義藤が長慶と交わしていた約定を破り、東山にある築かれたばかりの霊山城(りょうぜんじょう)で細川晴元と共に戦端を開いた。これに眉をしかめたのは、言うまでもなく帝だ。公家に至っては震えるほどの激しい怒りを隠そうともしなかった。


 この出来事が、さらに朝廷と幕府との確執を強めることにつながった。さすがに、近衛家を始めとした幕府派の公達らもこれを庇い立てすることはなく、朝廷では三好を迎合しようと動きだす者までいる。



 それはそうだ。

 いくら鴨川を挟んでいるとはいえ、清水寺(きよみずでら)にほど近い京御所の目と鼻の先、下京へ行くのとそう変わらない場で挙兵したのだ。よりにもよって譲位をする年に、である。


 疫病の騒ぎが治まりつつあったこの時に、公家だけでなく京に住まう民でさえ思っている、なぜ今なのかと。



 愚かというにはあまりに度し難い。

 幕臣はそれを諫めることができなかったのか。

 真に仕える身であるならば、諫めねばならないほどの大事だ。


 そういう意味では、将軍の意向に賛同する者は居ても、己の命を投げ打ち主の立場を守ろうとするような、まことの臣下は居ないのかもしれない。


 


 ■■■




 尼寺を後にして、吉野へとたどり着いた。

 (みね)から(ふもと)まで咲き乱れる山桜。


『越えぬ間は よしのの山の さくら花 人づてにのみ 聞きわたるかな』



 桜を咲かせてくれた木花開耶姫(このはなさくやひめ)に御礼と祝福を申し上げてから、吉野へ立ち入る。もちろん、この美しい花霞の絶景を造られた金剛蔵王権現を信仰する修験者らにも感謝をしつつ道を進む。


 古来より桜が咲けば田植えの目安とされていたが、土佐では()うに田植えを終え、青々とした葉が伸びやかに揺らいでいることだろう。



 道を歩めば、ひらりひらりと花びらが舞い散る。

 一陣の強い風が吹き、それらは桜吹雪となって降りそそいだ。


 脇を流れる小川では、散った花びらが互いに寄り添いあう。やがて大きくなった花筏(はないかだ)が、くるりくるりと踊るように流れていく。



 いつまでも気落ちしてなどいられない。

 とくと目に焼き付けよう。

 この、華めく春の美しさを。

 


 

日記などの記録には、山科言継が源氏物語注を書写、長慶の請で玉葉和歌集の書写、三条西公条が奈良高野山吉野山を巡ったことが残されています。


この年の夏から秋にかけて、足利義藤は朽木元綱を頼って近江へ逃れ、以後5年の歳月を朽木谷にて過ごすことになります。



次話より第三章 青春編 春雷に入ります。

春雷では、これまであまり描いてこなかったいくさをメインとして投稿したいと思います。

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