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92.二拍

2話分を無理にまとめたので文脈が変かもしれません。すみません。

 


1553年 3月(天文二十二年 弥生)



 奈良で二泊してから京へと戻った。


 尼寺で教わり、毎朝すっきりと目覚めるため起きてから瞑想を行なうようにしている。心を整え、体を整え、思考を整える。


 すると指向も整い、ものごとに対する意欲が湧いてくる。これぞ、至高の教えであろう。



 今日は…… あぁ、貞敦(さだあつ)入道親王に同道して当今(とうぎん)の帝へ謁見する日だった。つい口から王政復古の話が漏れてしまったばかりに、論議しなければならないとは。


 今なら分かる。

 そんなこと言うべきではなかった。

 なぜ、あの時にもっと別のことを言えなかったのか。


 後悔の至りである。




 ■■■




「何や、どこぞのお公家さんが多くの民に薬を煎じやったそうな」

「風変わりな者がおりやるものよ」



 帝と入道親王が話されている。


 巷では、とある診療所が疫病によく効く薬を処方しているとうわさになっていた。何でも、やんごとない家柄のお公家さんが手ずから調合してくれたものだとか。


 現に、他の診療所と比べて患者の数は三倍ほどいたにも関わらず、命を落とした者の数は半分に満たなかった。うわさが広まるのは早いもので、我も我もと病にかかった者が押し寄せたそうだ。


 無論、宮中でも流行病を患う者が出ており、良い医師を探そうと思えば、どうしてもそのうわさを耳にすることとなる。


 曲直瀬の病状が回復する五日の間だけ診療所で調合していた。しかし、ふた月たった今でも『お公家さんの薬』を求める声が後を絶たないらしい。



 口にさがなき京童(きょうわらべ)


 帝のおひざ元でそのような話があれば、調べられるに決まっている。もしかしたら、御名(ぎょめい)を出したことまで知られてしまったのではあるまいか。


 そうであるからこそ、わざわざ俺が同席している場で話しているということなのか…… ?


 これは、まずい。

 非常に、まずいことになった。

 勝手に御名を使うなど重罪だ。

 良くて流刑、悪ければ死罪は免れない。


 その考えが間違っていることを願うばかりである。

 くぅ、それにしても何という運の無さ。



「そのお公家さんはな、(いとけな)さが残る年若い(おのこ)であったという」

「ほう、兼定は存じおるかえ?」

「…… いえ、存じ上げませぬ。麿の耳には終ぞ聞こえて来ませなんだ」



 帝からの問いかけに嘘をついてしまった。

 心の臓が早鐘を打つ。

 額から、冷や汗がしたたるのを感じた。


 いや、大丈夫。

 証拠がある訳ではない。

 このまま知らぬ存ぜぬを突き通すより道はなし。


 替えましょ。

 替えましょ。

 嘘を誠に替えましょう。



「薬のお代はいつでもええ言うてな、次から次へと訪れた者にくれてやったそうや」

「ま、まことであれば、その御仁はさぞや徳を積まれたことにござりましょう」



 徳を積んだ結果がこれではあんまりだけどな。


 替えましょ。

 替えましょ。

 話題を他に替えましょう。



「その養生所(ようじょうどころ)にな、土佐からおじやったお弟子さんも幾人か居るらしゅうての」

「ほ、ほう、土佐より…… とんと存じ上げませぬなぁ」



 …… 完全に露見している。

 いまさら、名乗りを挙げたところで嘘をついたことを咎められ、このまま嘘を突き通しても咎められるのは明らか…… 引くに引けず、さりとて進むこともままならず。


 汗が止めどもなく流れる。

 これでは自白しているようなものだ。

 あぁ、今日の朝からやり直したい。



「さようか。まことであれば褒美を与えねばと思うておったにのぅ」

「その者が見つかりますれば、直ちに(おん)申し上げ奉りまする」



 帝のお言葉に深く頭を下げ、二拍おいてから顔を上げると、やをら、入道親王がつるりと頭を撫でた。



「ふむ、わずかな褒美では釣られぬか」

「であろうのぅ。兼定、そなただということは分こうておる」

「…… 」



 ひぃぃぃ、天誅。

 帝、御自らのご宣告。

 これが嘘をついた報いなのか。


 拝啓、堯尊(ぎょうそん)法親王(ほっしんのう)さま。

 卑しいわたくしめは身を以て因果応報を知ることとなりましてございます。



「民らに施しを与えたことは良き行いぞ。されど、余に偽りを申したことは許されざることなり。民らへの施しに免じ、余の問いに答えること能うならば、そなたを許してつかわそう」

「…… かかる身で畏れ多くありましゃりまする」



 おぉ、その深きお慈悲にすがらせて頂けるとは、おありがとうございます、おありがとうございます。これよりは誠実さを以ってお答えせねばなるまい。



「心せよ、良いかえ?」

「はい」

「申しょう、下から入って下から出るものとは何ぞや?」



 謎かけかい!

 お好きなのだろうけども。

 謎をかけて、命もかける。

 これが、公家の生きる道。


 それはそれとして、間違えたら罰せられるということだ。厳しい、そう意識した途端にうるさいくらい鼓動の音だけが耳に響く。


 入るのも出るのも下からか…… 全然、思いつかない。いやらしい答えなら、すぐに浮かんだのだが。いや、落ち着けば大丈夫なはず。


 悠々たり、悠々たり、(はなは)だ悠々たり。


 あっ。



「そは、蚊帳(かや)にござりましょう」

「ふむ、合うておる。なれば次を申しょう、見れば見るほど見えなくなるものとは何ぞや?」



 一問で終わりじゃないのか。

 緊張で喉が渇く。


 見れば見るほど、覗けば覗くほど…… か。

 これもいやらしい答えが浮かんだが、正しい答えとは言えないのだろう。何が正しいかは答えてみなければ分からないけども、恐らくはそういうことではない。なれば。



「そは、節穴でありましょうや?」

「ふふ、合うておる」



 やった。

 これでお咎め無し。

 無罪、 無罪判決が下されました!


 冤罪は恐ろしい。

 今回は冤罪ではなかったけれども。

 命に関わるほどの謎かけをしたことなど、これまで一度としてない。


 入道親王は、この息詰まるやり取りを横目にあくびをしつつ呆れた様子で眺めておられた。


 解せぬ。

 いくさ(さなが)らの攻防だったというに。



「はてさて、戯言もこれまでにして、王政の復古における話を主上さんに聞かせてたもう」

「…… はい」

「いかように考えておるんか?」

「………… 先ずは、主上(さん)の徳を世に知ろしめすことが肝要かと」

「余の徳が足りぬとな?」



 いやいやいや、違いますって。

 ほら、そんなこと言うから入道親王の目つきが怖くなった。



「さようなこと、あらしゃるはずがございませぬ」

「今一度、世の民らに知ろしめすということでありやるな?」

「は、はい、その通りにあらしゃいます」



 入道親王の援護で助かったが、もう嫌だよ。

 一気に帰りたくなった。



「いかにしてか?」

「ひとつに、即位の儀は古来の作法にのっとり、民も御所へ立ち入ることを許されるが宜しかろうかと」

「ふむ。しかれど、万一のことあらば主上さんをお守りできるんか?」

「そは近衛府がお守りする手立てを講じるものかと」

「ふむ」



 そこまで考えてないし、無理かな。

 確かに、万全を期するに公開して後悔するよりは非公開にする方が遥かに楽だ。



「ふたつめは、即位にあたり恩赦をお与え下さりますれば、帝のお慈悲を示せましょう」

「恩赦とな」

「はい、咎人(とがにん)の罪を(ゆる)し、借銭を赦し、宗門を追われた僧を赦しまする。なれど、咎人をただ解き放つだけでは、やがて罪を犯すことは火を見るより明らかでありましょう。それら全ての者を一条家に(かしず)かせ給いますれば、我らがその者らに役目を与えまする」

「ふぅむ」



 これまでも、新たな帝が即位された際には恩赦を施されている。だが、言上しているのは(かつ)てないほど壮大なものだ。



「大事となるのは、分け隔てなく全ての者を赦すということにござります。これには『一天両帝南北京也』と言わしめた折に咎人となった者、法華衆が起こした大乱の咎人も、すべからく含みまする。朝敵となって久しい者の子や孫らへ勅免を与えますれば、その喜びはいかばかりか」

「ふぅぅむ」



 南朝の新田義貞や楠木正成らは今だに朝敵とされている。それらを赦すことで、騒ぎとなり得る不満や火種を取り除く。いや、勅免によって正式に朝敵から外されたとあらば不満どころか、これより先は朝廷の力強い味方ともなってくれるだろう。

 

 入道親王は「ふむ」しか言わず、帝は口を閉ざされたままだ。


 良いのか悪いのか。

 まぁ、出来なければそれでも仕方がない。



「みっつめは、東大寺の御本尊であらしゃります毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)さまをあるべきお姿に戻し、この瑞穂国(みずほのくに)に住む(あまね)く全ての者へ徳を示しまする」

「…… なにゆえ今なのだ?」



 言葉では訊ねておられるが、帝もお分かりなのだろう。というよりも、そこまで考えてのことなのかと問い質されているというべきか。



「先の年にて、仏教が伝わって千年となりまする。節目の年でありますれば、一年(ひととせ)二年(ふたとせ)と遅うなりやっても、煌めくお姿にて開眼供養を行うべきにござりましょう。さすれば僧は言うまでもなく、民らの心をも安んじられるかと。それでこそ『和を以って貴しとなす』ことが能うものと存じ上げまする」



 そう、お父さまがご存命であれば千年の節目に間に合っていただろう。だが、悲しいかな、それが叶うことはなかった。


 お二方は小さく唸り、難しい顔で長らく考えておられる。そのあまりの緊張感に固唾を飲んで見守った。


 杳々(ようよう)たり、杳々たり、甚だ杳々たり。


 (かす)かな息遣いだけが聞こえ、常しえに続くかとも思われた重苦しさの中、お声を発せられたのは帝であられた。



「貞敦、いかが思うか」

「至らぬこともありやるものの、こなたが申すこと、一々もっともかと」

「そうよな。余も感じ入った」

「朝廷に(はか)られましゃりまするか?」

「まだその時ではあるまいのぅ。院司(いんのつかさ)調(ととの)えてからになろう」



 にわかに話されている内容は、一個人が聞いて良いものではない、とても重要なことである気が…… 巻き込まれてはたまらん。何も思わず、何も感じず、何も考えることなく、ただただ畳の目を数えるとしよう。




 知らじ知らじ(われ)も知らじ。



 

仏教は552年に伝来したと日本書紀に記されており、東大寺盧舎那仏像は伝来200年の節目となる752年に開眼供養を行っております。千年の節目に法要を行っているはずなのですが、大々的なものとしては記録に無いため、小規模だったのだと思われます。


「悠々たり、悠々たり、(はなは)だ悠々たり」は東大寺で得度した空海の言葉です。


「和を以って貴しとなす」は聖徳太子が定めた十七条憲法の第一条に記されている言葉です。


『一天両帝南北京也』とは興福寺大乗院の別当であった尋尊(一条兼良の子)が南北朝時代のことを表した一文です。楠木正成は子孫の嘆願により1559年に正親町天皇から勅免が出されています。



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