89.飛躍
説明ばかりで話は進みません。
すみません。
1553年 2月(天文二十二年 如月)
およそ五十年前。
それが修理職の転換期と言っていい。
古来より朝廷と幕府にはそれぞれ作事に携わる大工がいる。しかし、この両者には決定的な違いがあった。
朝廷専属の大工は修理職に属する惣官の役目に就き、年貢諸役の免除や領地などが与えられている。一方、幕府専属の大工にはそれらの優遇措置はなかった。
これまで、禁裏の補修や保全は木工寮と修理職に従事する大工たちが行ってきた。中でも木子家は、それら大工の惣官と中務の役目を世襲してきた家柄である。
彼らが居たからこそ、格式高い御所の建造物や庭園は荒廃することなく形作られてきたと言えるだろう。
朝廷を支配下へ置くという野望を抱いたときの将軍義稙は、それらの維持にかかる費えが幕府から支払われていることなどをあげつらい、幾度となく惣官の補任に口を挟むようになった。
訴えを退けていた朝廷であったが、これより先も修理にかかる費えを支払うのであればと、将軍は強権を行使し、幕府が推す者を惣官へ任じたのである。
そのときに選任された者が右衛門尉だった。この男は、底を知らない欲深さと、一度狙った獲物は逃がさない蛇のような性をしていた。
禁裏の惣官を手中に収めただけでは満足できず、さほど間をおかずに中務の役目も強要しだす。当初は拒んでいた朝廷であったが、抵抗むなしく幕府の圧力に屈することとなった。
あわれ木子家はすべての職を奪われ、右衛門尉に取って代わられてしまったのだ。これが、修理職の補任へはじめて幕府が介入したときだった。
当然のこと、それらの裁定に朝廷は納得していない。戦火から逃れるため将軍が京から離れている間に、作事の遅れを理由として中務の権限を鑓屋家へ素早く与えている。
しかし、今以てなお惣官は右衛門尉へ補任されたままだ。仙洞御所を建てるに当たって問題となっているのが、その禁裏大工の惣官である。
御所を建てる事前の備えとして、これまで見合わされてきた建造物のあらゆる補修を行う必要があるのだが、中務を鑓屋へ与えたことへの不満からか、近ごろの右衛門尉はそれらの補修さえも渋り始めていた。
この事態を受け、朝廷では惣官を再び木子へ与える動きが活発になる。
これまで、半ば強引とも言える将軍の意向を受け入れざるをえない状況だったが、この度の譲位にかかるほぼ全てと言っていい費えは朝廷から捻出される。
つまり、費えを負担する朝廷が禁裏の惣官を任命するのは当然のことなのだ。
幕府はそれを不満に感じても、異を唱えることができない。なぜならば、言えば費えの負担を要求されるのが目に見えているからだ。
それだけでなく、右衛門尉を選任した際の理由が『費えを支払う側が選任すべき』と訴えていたため、言い分を認めないことは道理が立たない。ゆえに、朝廷の下す裁決を容認するしかないのだ。
だが、仙洞御所の建造とあわせて申し入れた惣官の補任に対して、ふた月たった今も返答はない。
譲位へ向けた準備は今も行われている最中であり、ただでさえ忙しく、もはや一刻の猶予も許されない。
返答を待っている時も惜しく、急ぎ必要な材木を手配することから始まった。手に入りやすいものは近隣諸国から買い付け、それ以外の大部分を土佐一条家が持ち込む手はずとなった。
直ぐにでも木材を手配する必要がある。しかし、大木ともなれば領地を治める大名か公家の許しを得なければならず、その上、名木の産地は限られている。この火急の事態で即座に応えることが出来るのは土佐をおいて他になかった。それこそ、一条家が選ばれた理由である。
ついては、材木の種類や大きさなど必要なものを木子と打ち合わせた後、文を持たせた者を土佐へと急ぎ走らせた。
設計図ともいうべき絵図は御所に保管されている。しかし、建造する技術は代々の木子家にしか伝わっていない。もちろん、ほかの大工も建造することは可能であろうが、突き詰めていくと耐久年数に違いが出てくるのだとか。
だからこそ、木子が選任されたのだ。
これまで、耐え忍んできたことがようやく報われることとなった木子は、忙しいながらも生き生きとしている。
その様を見て、建てられる御所は大層立派なものになると予感させるに十分だった。
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大工は畿内五国だけではなく、多くの名匠を輩出している飛騨国、美濃国や遠江国などから名門と呼ばれる棟梁が集められた。
町大工は比較的に簡単な作業や人手が足りない部分への人員として配され、作業を懸命にこなし各所で評判の良い者は『精出し者』として評価される。
ここで評価された者は、今後行われる禁裏の普請にも声が掛けられることも有りえ、皆が競うように作業をすることだろう。
禁中には修理の記録が残されている。木子と共に確認した限りでは台風や強風の次の日には御所内を見回っており、破損を見つければ一時的な措置を施して後日に補修をしている。
修理職を通じて惣官の右衛門尉へ普請を頼んでいるのだが、補修が行われるまでに長ければ数十日かかる事もしばしばあったようだ。
ゆえに、御所の大修理とも言うべき今度の普請へ右衛門尉のほか足利将軍家の御用大工となっていた池上家は加わることができなかったのである。
ひとりでも多くの人手が欲しい状況であっても、幕府の息がかかった大工には声をかけないところを鑑みると、相当な確執があるのかもしれない。
このことは大工だけでなく幕府に近しい者らも含め、朝廷に対する見方を改めさせるには十分な采配だった。
ここに、木子家と共に朝廷が復古へと歩みはじめたことを、諸大名らも知るところとなったのである。
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雪が溶けだす二月、ふいに寒さが戻ることもあった。それでなくとも、厳しい朝晩の冷え込みに火桶を手放せずにいる。
いつのまにか、庭の春告草はつぼみを花開かせ始めていた。それはひと足早い春の兆しであり、見た者すべての心を豊かにしてくれるだろう。
…… 私欲だということは分かっている。
しかし、この時代を懸命に生きる者の姿が春告草と重なって見え、その有り様を美しいとさえ思うのだ。
だから、どうしても願わずにはいられない。
この突き抜けるように澄んだ白藍の空へと羽ばたく鳥のごとく、皆にとって飛躍の年にさせ給へ、と。
春告草 = 梅の花の別名
御所の補修などは常に行われており、台風が過ぎたあとに山科言継も見回って保全に努めている記述が残されています。




