86.絶家
1553年 閏1月(天文二十二年 閏月)
貞敦入道親王から聞いたところによれば、長尾が上洛した際に帝へ拝謁することについて訊ねられた公卿は他にも大勢いるらしい。
多くの者にどちらか問えば答えは二分される。拝謁をするにせよ、しないにせよ誰かしらの勧めにより決めたとすれば帝が責めを負うことがない、という後宮の配慮だった。
賛同がひとりふたりでは、万が一にも大事となった際の説得力に欠けるため、複数いるというのがいいのかもしれない。そう考えると、公卿になったばかりの者にまで聞くのは賛同者が存外に少なかったのか、それとも答えの如何を誰かが知りたかったのか…… 気にするほどのことではないか。
どちらにせよ、拝謁したとてさほど重く考えなくて良いと思えば、ことさらに心が軽くなった。
だが、なぜ長尾が…… ということになるのだが、それには徳大寺家が関係していた。
先代の徳大寺実通は神保長職が手の者により、三十三の若さで殺害された。八年ほど前のことである。
その後、久我家から公維を養子に迎え絶家となるのは免れたが、神保家をそのまま容認することを許せずにいた。そのため、長尾家を当たらせようとの思惑から、謁見の是非につながっていたのだ。
これは、朝廷派の考えではないらしいので、近衛派から提案されたのか、はたまた長尾家から拝謁の要望があったのか。
経緯こそどうあれ、互いの利害は一致しており、望ましいことであるのだろう。
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京の町家は、土佐一条家で家司をしている町顕古の本家筋にあたる。
その町家で異変があったのは数年前だ。突如として当代である町資将の行方が分からなくなってしまった。
当初は床に伏しているか、下向でもしたのかと思われたが、中納言の職にある者が代わって出仕する者も置かず姿をくらますのは考えづらく、騒ぎにならないはずがない。
家中の者らが、京の隅々まで探し、下向先を探し、縁者も訪ねて回ったが、依然として行方は知れないままだった。
御所では面白おかしく、狐に化かされただの、天狗にさらわれただのと噂が絶えなかったようだが、月日が過ぎて昨年末に、とうとう中納言の職を解かれることとなった。
職を解かれるだけならまだいい、また中納言に戻る道は残されるのだから。問題なのは絶家の憂き目にあっていることだ。資将に男児は生まれていたが、養子として他家へ送り出しており肝心の町家を継ぐものがいなかった。
かく言う資将も高辻家からの養子として町家を継いでいたため、顕古から高辻家に文を出して養子を打診したが話はまとまらずに終わっている。
顕古にとって、そこからが大変だった。
何度か高辻家へ文を送ったが、やはり色良い返事はなく、一方で資将を探しつつも方々の公家に文を出し続けること二年。いよいよ諦めがついたのか、己が子を養子とするまでに至った。
次子は齢十三になったばかりで、後ろ楯のない京の本家を継ぐにはあまりに若すぎた。そこで白羽の矢が立ったのは、京にて見識を広めていた嫡子の顕貴だ。
顕古にしてみれば、断腸の思いだったであろう。
次子は元服も済んでおらず、兄と同様に見識を広めるなどと悠長なことが出来るはずもなく、京に登ることは一生縁が無いことかも知れない。
しかも、一条家当主が京洛へ行き不在のため、己よりも官職が上となる者が居ない。必然と烏帽子親は自ら行うことになった。
長子が本家の当主で親より官職が上になっていくのも何かと障りがあるため、家督を次子へ譲って隠居となる。
土佐では、ときに憤ったり、ときに落ち込んだりと目も当てられない様子であった。それもあって、顕古は京へ同行できなかったのだ。
この絶家の問題は、なにも町家だけのことではない。一条家の家令である高辻家と東坊城家も家督を継ぐべき男子がいない。
早急に養子を迎えなければ、お家は断絶してしまうか、継ぐ者が現れても家職を伝えきれずに終わってしまう。
これこそ、困窮した公家たちが直面している危機である。男子が多く生まれても費えが無ければ寺に入れるしかなく、それにしたって相応の銭は掛かってしまうのはやむを得ない。
鎌倉時代までならば、男児が生まれるまで頑張ることもできた。が、今の時代では三条家のように女児が三人生まれたとあれば、あきらめて養子を迎えようと思うくらいには厳しい財政であったと言える。
京洛へ着いてからは町家の措置がため房通と共に市正が動いていた。年明けの一月に兼冬が関白と左大臣を兼任したことも助けとなり、何とか顕貴に本家を継がせる運びとなった。
しかし、まだ高辻家と東坊城家が残っている。
東坊城家は高辻家の庶流で、町は高辻家から養子を迎えていた。つまり、三家は血のつながりがあるのだが、互いに養子を望めない状態であり、まだまだ房通には大変な務めが残されていると言えよう。
吉日には、忠節に対する恩賞を市正らへ渡し、これからも頼むとの旨を伝えた。
本来であれば、絶家となる前に手立てを講じるのだが、残念ながら絶えてしまった家もある。すぐにでも再興させなければならないのだが、ことはそう簡単ではない。
遡ってみれば、どこかしら公家の血が混ざるもので、単に血筋に当たるだけでは認められない。父方と母方の血筋、家格、親疎の度合い、身体の強弱などなど、達すべき水準は高く、そこに政治情勢も関わってくる。
中でも難しいのは、お祖父さまが再興を頼まれていた松殿家だ。
松殿家はその昔、摂家に並ぶ家格として創設された家である。養子を迎えるに相応しい血脈の者がおらず、最後の当主は失意のうちに土佐へ骨を埋めた。
何とかしてやりたい気持ちはあっても、今のところ叶えてやれそうにない。あるいは、光源氏のように皇族から臣籍へ降下を賜ることが出来れば、皆が納得するのやも。
まぁ、それこそ容易ではないのだが。
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思いの外、伏見宮での話が込み入り、西洞院大路を通りがかったときには日が暮れかけていた。
そのとき、微かに悲鳴にも似た声が聞こえてくる。
「とめよ」
急ぎ牛車を停めさせて、耳をすました。
その声は寄せては返す波のように、大きくなっては消えるを繰り返し、最後はけたたましいほどの声を上げ、そこで果てた。
すわ何事か、と牛車を降りて警戒しながら辺りをうかがう。用心するように伝えたためか、皆の動きが鈍い。
「…… あの、御所さま」
「しっ!」
続く言葉を、手を上げ押し止めた。
すると、声の出どころと思われる路地の奥、薄暗い中で重なった影がうごめく。
それを指し示し、見つけたことを知らせる。
が、久左衛門らは意にそぐわない顔をしていた。
よく聞き取れないが、路地奥から聞こえる声音からすると男と女であろう。そこまで来てふと、もしやこれは男女間の情事ではなかろうかと察するものがあった。
振り返ったときに見た各々の気まずそうな顔が全てを語っている。先ほどから何か言いたげだったのは、この事を知らせるためだった…… のか?
近習の勘助だけが、まだ何も分かっていない様子で「何事にござりましょう」などと言っている。その純粋さに、いたたまれなくなり、すぐにも引き上げるよう指図をした。
しかし、奥の影は今まさに路地から出ようとする所である。遅かったと思っても目を離せずにいると、そこからぬっと顔を出したのは勘助と同じ近習の佐竹太郎兵衛尉だった。
「次も、お情けをかけて下さりまするか?」
「おう、またぞろ野盗が出たら、いつでも訪ねて来よ」
「あぁうれしや」
「じきに日が暮れる。急ぎ帰られい」
女が男の袖口をつまんで、右へ左へとゆする仕草をしていた。そんな甘い別れぎわを見せつけられ唖然としていれば、こちらに気がついた太郎兵衛尉が言葉だけは慇懃でおどけるような仕草でもって深く頭を下げた。
「おぉ、これは、これは、御所様。お戻りが随分と遅うござりましたゆえ、今か今かと待ちわびておりましたぞ!」
嘘をつくな。
全く悪びれた様子もなく、堂々とした嘘をつく態度に苛立ちを覚える。
「その者を捕らえ、木にでもくくりつけておけ」
「はっはっは、なんともご無体な。ご乱心でも召されましたかな?」
戯れ言だとでも思ったのか、半笑いで答えた太郎兵衛尉へ勘助を除いた皆が飛びかかった。
「よ、よせ! 我は皆の身を案じておったのだぞ!?」
「口を開くな!」
「待て、御所さまは何やら思い違いをしておられるご様子! 話せば分こうて頂けよう。あぁっ! お待ちくだされ、御所様! 御所様!!」
その声を尻目に牛車へ乗り込むと、すぐさま出立するように命じた。
この年の一月に一条兼冬が関白に、右大臣から左大臣に転じられ兼任しております。同じ月の吉日に、市正へ褒美を与えているようです。
室町時代に入り、公家では絶家となる家が多くなりました。財政難や男児が生まれなかったりと理由は様々ですが、養子を迎えようにも条件があって簡単にはいかなかったようです。




