82.桜花
1553年 1月(天文二十二年 睦月)
大内義隆の落とし胤は、従五位下と左京大夫の官職を賜ったことで大内家の血脈を受け継ぐ者として内外が認めるところとなった。
これらは代々の大内家当主が賜ってきた官職であり、跡目を継ぐことの正当性を示すものでもある。だからこそ、大内晴英はその官職を欲し、躍起になっていたらしいのだが。やはり、公家との繋がりが無いためか思うようにことが進まず、逆に後から望んだこちら側の申し入れが認められる結果となった。
それは、ひとえに義隆の側室であった東の御殿から国子様へ嘆願の文が届けられたことによる。仲睦まじい姉妹のこと、国子様も尽力されたことだろう。その裏には、官職を与えることで大内家を義隆の子が継ぐことの一助になれば、その後は大内家から朝廷へ助力が叶うとの思惑もあったに違いないが、双方に利がある事は確かだ。
これで一条家はもちろんのこと、西国に朝廷派の大名家を保持することへの期待が高まる。いや、むしろ先達と比べ更に尊皇心が厚い、より朝貢を見込める大名へとなってくれるだろう。あとは婚姻による結び付きを強めることが出来れば言う事はない。
更に言えば、周防にいる問田殿と亀鶴丸の命を救うことにも繋がる。当主になったとはいえ、晴英からすれば大内の血を受け継ぐ者は疎ましい存在であることに違いはない。己の存在を知らしめることに夢中で、今すぐどうこうするとも思えないが、それが落ち着いた後には隙あらばと考えていたはずだ。
しかし、正統なる跡目として朝廷にも認められた新たな脅威が現れたことで、謀反に力を貸した内藤家の血を引く亀鶴丸は取るに足らない存在となる。その上で、命を狙いわざわざ内藤家と対立するとは考えられず、厳しい監視の目も緩むだろう。そうなれば、いづれは文をやり取りすることもできる。
今回の官職は、幕府への手回しが大変であったことは想像に難くない。しかし、そこは昵懇衆が上手く間に入って丸く治めたようだ。一条家の意向もあって、広橋家と飛鳥井家が特に奮闘したらしい。
飛鳥井家は一条家門流でありながら、将軍家に近しく昵懇衆のひとつに数えられている。一見してどっち着かずのように思えて、その実は朝廷方に与している。
近衛ら幕府側の人間と近しくしているために、親朝廷派の門流の中には比興の者と呼ぶ輩も少なくない。
そんな中で、幕府と密接な関係を保っているのは一条家が認めているからであり、何かあっても切り捨てないことを示すためでもある。
代々、飛鳥井家の当主は調和の取り方に秀でているらしい。幕府側に身を置きながらも、朝廷と繋ぎの役割もこなし、密かに情報をこちらへ流す。
最悪、京より落ち延びるとしても土佐には一族に連なる曽衣がおり、摂関家の一条ならば朝廷へ取りなすことも容易い。
それらの差配を行なっている飛鳥井家の当主は戦略家としても優れているだけでなく、他者を信用させる話術と瀬戸際を見極める目、何よりも欲に左右されない勤皇の心が試される。精神的に大変な役目を担う者だと言えよう。
故に、事情を知らない一部の者がどんなに比興と陰口を叩こうとも、飛鳥井家は重んじられるべくして重んじられているのだ。
将軍派閥の間者であることを知っている一条家の当主らに、毛の先ほども疑ったり、比興などと思う者はいない。
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質素倹約を旨にしているため、むしろ当然とも言えるが宮中で行われる儀式は意外と少ない。
年始めに行われる女官や大臣など職の補任帳を進る儀式の除目や叙位は九つにも及ぶが、個別に宣旨を発するため一同に補任する儀は省かれている。だが、今年は補蔵人のみ行われることとなった。これは、禅譲の儀に向けた備えであり、それだけ忙しくなる事を意味している。
二宮や大臣家との大饗の儀はなく、踏歌も射礼も白馬節会もない。あるのは、一条兼良が再興させた四方拝と小朝拝、元日節会だけだ。
歯固、鏡餅、 供御薬、卯杖、供若菜、七種粥などは行事として大々的に行われることはなく、各自が個別に済ます。
朝廷の倹約は儀式の廃止だけではなく多岐にわたる。歌会や祈祷の削減、朝廷が取り仕切る祭りの廃止、果ては女子衆も化粧様式を変え白粉を薄くして費えを減らす努力をしているほどだ。
他にも、皇后を新たに迎えることなく、帝のお世話は側室のみで行われているのもそうだ。側室は、基本的に大臣家より下の家格である家からであり、清華家や摂関家より迎えられることはない。
もし迎えようものなら、当然のこと皇后に据えることになるからだ。しかし、皇后がいない現状は政権を巡って派閥間の争いが激化することはなく、却って良かったのかもしれない。
もちろん、派閥間抗争や朝廷派と幕府派である昵懇衆はときに衝突することも度々あるようだが。
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今年は催し物があると聞いてはいたが、まさか口約束の料理を宮中でやらされることになるとは…… 断ろうかと思ったが噂が噂を呼び、ついには帝より期待する旨のお言葉を賜ってしまっては、後にも引けず元日節会の余興として行った。
普通であれば、捌くのは魚と決まっているのだが…… 用意されていたのは鶴だった。嫌がらせも、ここまでいくと敵ながら天晴れなことよ。
二間四方に組まれた敷板が土台となり、その上に置かれた大きな俎板には鶴が、右手に庖丁刀と左手には真名箸を持ちつ、四条家の当代である隆益より教わった鳥の捌き方と切形を思い出していた。鶴は千年の意を込めて、切り分けた羽を十文字にし『千』の一字を作るように頭を置く。
それらを見た小御所にある中段の間にいた帝や女房衆からお言葉を賜り、大きな問題もなく無事に終えることが出来たと言っていい。
上手くいった秘訣は、竹製の真名箸へ指を入れる輪っかを取り付けておいたため安定感が増し、長い箸の先端まで力を込めることができたからだ。
迂闊に引き受けたばかりにえらい目にあった。これに懲りて、今後は調子よく返事をしてしまわないよう心掛けていこうと思う。
この散々たる年始めの行事で、ひとつだけ良いことがあった。
それは、お祖母さまにもお声掛けがあり、行事へ参加されたことだ。未だに後宮はその時のお祖母さまがされた化粧様式で噂はもちきりとなっている。
その化粧法は現代に近く白粉は明るい薄橙色を使用し、淡く赤みがかった色の頬紅と統一感のある明るい紅をさし、ぱっと見は地味に感じても肌と一体になった自然な仕上がりは、お祖母さまの美しさをより際立たせていた。
落飾した者が施すそれとは明らかに一線を画すものであり、流行りの化粧法とは異なりつつも、間が抜けたようなものでは決してない。
溢れる透明感と漂う気品。
例えるならば、弥勒菩薩が悟りを開くという龍華樹も遠く及ばない桜花のごとき美しさだった。
それが話題となり、一条家には訪問客が絶えず大忙しだ。後宮では、庚申の日に献上した白粉がすでに無くなる勢いで挙って使われているそうな。
鶴庖丁は豊臣秀吉が鶴を帝へ献上したことから始まりました。
菅原道真は『弥勒菩薩が悟りを開くという龍華樹も遠く及ばない』と、桜花の美しさを称えてます。




