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78.庭

 


1552年 12月下旬(天文二十一年 師走)



 京の仮住まいは、庭が荒れていた。

 申しわけ程度に草が刈られているだけで、景観としてはあまり好ましくない。


 池を作るには狭く、水を引くことも難しそうだ。となれば、枯山水庭園にするのが良いかもしれない。



 ときの将軍であった足利義満の代には北山文化が、足利義政の代では東山文化が花開いた。両者が建立した金閣寺と銀閣寺はあまりに有名であろう。


 金閣寺には平等院鳳凰堂の物と酷似した鳳凰像が屋根へ飾られているそうだ。もしかしたら、あらゆる戦火の中でも焼失すること無く残り続けた鳳凰堂にあやかっているのかもしれない。



 庭造りに関する書として平安時代に綴られた前栽秘抄(せんざいひしょう)には枯山水の記述もある。各家々による注疏(ちゅうそ)が作られるほどに作庭は盛んとなり、一条家にも内容が書き加えられながら秘伝書として受け継がれてきた。


 枯山水は本来の庭造りの意図とは違っているものの、水場が無くとも作庭を楽しめるとあって、室町時代に入ってから禅宗寺院を中心に流行している。



 書によれば、庭園造りは『石を立てん事まづ大旨をこゝろうべき也』とされる。


 石の品種や大きさ・形、それを置く位置や向き、立てるか伏せるかといった細かいことまで決め事がある。これは、陰陽道に基づく風水に通じているためで、作庭の奥は深い。


 現に、説明のひとつには『八卦は八象に、八象は易経に、易経は方位に通じ、方位に後天と先天あり』として四神相應(しじんそうおう)にも言及している。



『人の居所の四方に木をうゑて、四神具足の地となすべき事』


 具足とは、備わり足りるの意で、仏教用語にて完全なという意味でもある。すなわち、完全なる四神の住処となすべきと言っているのだ。


 そのためには、東へ(やなぎ)九本を植えて青竜の代とし、西へ(ひさぎ)七本を植えて白虎の代とす。南へ(かつら)を七本植えて朱雀の代とし、北へ(ひのき)を三本植えて玄武の代とす。


 かくのごときして四神相應の地となせば、官位福禄や無病長寿が叶いやすくなる…… と、記されている。



 その他に植えるのならば、東へ花の木を、西に紅葉の木を植える。植え方は、夏場に日陰となるような木立にする、というのが想像するになんとも涼しげで胸躍る。


 石並みを奥まで続くように見せる造りは、実際よりも奥行きを感じさせ庭を広大に見せられる。垣根の高さを手前から奥へ行くに従って低くし、それに沿って石も小さくすることで奥行きを演出できる。そうした遠近法や借景による目の錯覚を利用した技法を用いて庭造りを行うのだ。


 眺める側の近くに大きな木を植え、その木の向こうに庭園の景色を見せることで、ひとつの絵画のような美しさを醸し出すこともできる。



 花の御所と呼ばれる将軍家の邸宅は、それは見事な回遊式の庭園として名が知れ渡っている。そのような庭造りは無理であっても、土佐の名所に思いめぐらせ、趣ある所々を取り入れて石を山河のように、あるいは大海のように立てる。


  (いわ)んや、是即(これすなわ)ち土州の山海が如く也。


 それでこそ、幽玄な京の町並みに合わせた侘び寂びを感じさせる庭造りが調うのではなかろうか。その(きざはし)から見る『景色を生けどった』庭園であれば、お祖母様はどんなにか喜んで下さることであろう。


 今から楽しみだ。




 ■■■




 房通が言うには、帝の一人称は元来『(ちん)』であったが、禅譲したくとも出来ず、さりとて帝として居続けるのも徳が…… と悩まれた末に、伊勢神宮へ陳情した頃から『()』になったようだ。


 せめても一人称を『余』に変えることで、帝であり続けるのは本意ではないことを神々へ示しているのだとか。


 何という高潔さよ。

 そんな帝に対して卑俗(ひぞく)な戯言を聞かせてしまう己の卑小(ひしょう)さが恨めしい。



 御所の庭園も借景がそれは見事であったが、紫宸殿の左近桜(さこんのさくら)と、それに相対する右近橘(うこんのたちばな)は更に知れ渡っている。


 これらは、儀式の際に並びの目安とされるもので、左近衛は桜の前に陣を敷き、右近衛は橘の前に陣を敷く。目出度い儀式では左近衛の衆は(かんざし)の先に桜の細工を付け、右近衛の衆は橘の細工を付ける。


 したがって、それぞれが中心となった組織を桜会・橘会と呼んでいるそうな。言い換えれば、任官と同時に強制入会させられるという、なんとも恐ろしい仕組みであり、当然のこと俺も入会済みであろう。だからこそ、初めて会ったとは言うものの、徳大寺の左中将から戒められるのは仕方がない…… のか?


 もうひとつ分かったことがある。

 謎であった兼冬と同じ歳くらいの摂家の御仁は近衛 晴嗣( はるつぐ)だった。恐らくは、公家の中でも有名な近衛前久(さきひさ)本人か、そうでなければ兄弟のどちらかだと思う。



 年の瀬が迫る明晩に、内裏へ赴いて後宮の警護をする事になった。近衛少将となったからには断る訳にもいかず、朝までお勤めを果たさなければならない。




平安京は四神相應の地とされていますが、根拠となる当時の資料が見つかっていません。後付けかもしれないし、当時の地形では該当していたのかもしれません。「平城之地、四禽叶図」と、平城京こそ該当の地という文献もありますが、こちらも詳細は書かれていません。そんな中で四神相應の典拠とされているのが『作庭記(前栽秘抄)』になります。

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