77.革命
源 市正 (源康政の嫡子、側近)
安並 久左衛門(安並直敏の嫡子、側近)
土井 孫太郎 (土井宗珊の次子、側近)
1552年 12月下旬(天文二十一年 師走)
それにしても、帝が禅譲しようとしているとは驚いたが、御歳が五十半ばを過ぎていることを考えれば、急がれるのも無理はない。よもや来年とは思ってもみなかったが。
拝謁したところ、体調が悪そうには見受けられなかったが、何か急がれる理由でもあるのだろうか?
「謁見は如何にござりましたか?」
「うむ。つつがなく済んでおる」
「それは、良うございました」
他のことで失敗しているが、まぁ言わなくてもいいか。
「何やら、帝は禅譲をなさるそうな」
「ほう、そはめでたきことにござりましょうや?」
「うむ、帝がそれを望まれておるゆえ、めでたきことであろうの。されど、年が明けたのちに儀を行うはあまりに急なことと思うが」
独り言のように呟いていると、何やら久左衛門が小声で市正に問うている。市正が久左衛門へ耳打ちし、久左衛門は孫太郎に耳打ちしている。
(『ぜんじょう』とは何であろう?)
(帝が東宮さまへ位を譲られるということぞ)
(ほう、そうであったか)
「そは、如何なることでありましょうや?」
(静かにせい! 御所様が思案なされておろうが)
孫太郎は耳打ちの意味が分かっていないのかもしれない。三人のやりとりが滑稽に見えて思わず笑ってしまう。
「ふふ、そは帝が変わられるということぞ」
「さようで。和井殿が言うていた通り…… にござります」
「和井? 一条殿衆のか?」
「はい」
和井城城主の和井舎人佑か。昨年、周防へ出陣した際にもいたな。確か、小早船のみで陶の軍勢にひと当たりしようとした者だったか。
帝へ銭を献上したのは今年の始め、その時には帝が禅譲することを予想していたと…… ?
もう少し詳しく聞いてみる必要があるな。
「して、何と申しておったのだ?」
「麿様が銭を渡したゆえ、帝は位を譲られると」
「麿様と呼ぶでない!」
孫太郎は俺のことを「麿様」と呼ぶ。好きなように呼ばせれば良いと言っているのだが、生真面目な性格ゆえか市正は気に入らないようだ。今日も孫太郎をたしなめているものの、当の本人は全く意に介していない。
「よい、よい。好きに呼ばせてやれ。些末なことよりも、銭を献じたがゆえに帝は位を譲られると、そう申したのだな?」
「そう、そう」
「他には何か言うておったんか?」
「革命ゆえ…… と申されました」
「革命、それだけであるんか?」
「うぅぅん、事を知るには元を辿れば良い…… とも」
革命が起きるから位を譲る?
元を辿る、これは謎かけか?
もしや、過去に革命が起こったのであろうか。元とは過去の禅譲が行われた記録か、それとも革命の歴史か、そもそも何の書を確かめればいいのか……
「その折に、この書を授かった…… のでございます」
孫太郎が、いつも手にして眺めていたものだ。書の中身を見せてもらうと、そこには計算問題が書かれていた。
載っているのは、鼠算や俵杉算、虫食い算、円周率、つるかめ算と多岐に渡って問がまとめられていた。つるかめ算とは言っても雉と兎ではあるが、考え方は同じものだ。
…… いや、ありえない。
これらは小学校で習う算数の問題として出てくるようなものばかりだ。この時代でこれほどの問いを自ら考えて作ったのであれば、それは問題の本質を理解し応用できるということ。
ともすれば、俺と同じ転生者の可能性だってある。むしろ、そうであった方が納得できるかも。
書の最後には『辿るべき元』も記されていた。まさか、今こうして見ていることまで想定していたのか…… 考え過ぎかもしれんが、もしも、そこまで見通していたならば、なんとも恐ろしい男だ。
「皆、土佐より持って参った書物を探しやれ」
「はい」
「おう! 楽しそうだのぅ」
「御所様の大切な書物ゆえ、粗略に扱わぬように」
「よしきた!」
「急ぎ、探して給れ」
「「はっ!」」
久左衛門の言葉に微かに不安がよぎったが、書を探すべく近くにあった箱を開けようと背を向けたその時、荷箱の中身が乱暴に落とされる音がした。振り返ってみれば、久左衛門の足元には挟み箱に入っていたであろう何十という書物が散乱していた。
丁寧に扱えって言われてたよね?
「御所様の大切な書と言うたであろうが!」
「がっはっは。すまんな!」
市正に叱られても、全く悪びれていないのか笑いながら謝っている。
謝るなら俺にだろう。
散らばったものを見れば、偶然にも探していた書が開かれて落ちていた。
なんと運のいい奴。
怒るに怒れん。
「まぁ、よい。散らばった書は箱に仕舞うておけ」
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…… なるほど、そういうことか。
これで禅譲を急がれた理由がわかった。
日本書紀纂疏──
そこには、神代の天地開闢から始まり天孫降臨などなど日本の歴史として綴られている。そして、見つけたのが天皇譲位についての内容だった。
改元の理由は大別して四つに分けられる。帝の即位による『代始改元』、吉事による『祥瑞改元』、天災地変や戦乱による『災異改元』、そして最後のひとつが『革年改元』だ。
その革年改元の典拠となっているのが、讖緯思想である。
六十干支によって数えられる紀年法では、その年ごとに干支が割り振られている。六十年に一度訪れる辛酉の年は災厄があるとされ、改元することで厄を祓い避けることが出来ると考えられていた。
それと同じくして、甲子の年は政での変革があるとされ、それらを『辛酉革命、甲子革令』と言う。
天は己に代わり皇孫に地を治めさせている。その皇孫が徳を失したとき、革命が起きるとされた。帝は自ら禅譲することで、次代の帝へ徳と位を受け継いでいく。
歴史上、この変革を理由付けした乱も起きている。
それが、後漢末期に起こった『黄巾の乱』だ。
『蒼天已に死す、黄天當に立つべし、歳は甲子に在りて、天下大いに吉とならん』と、五行思想にもなぞらえ変革を正道であると皆に言っているのだ。
こうした改元は平安時代より行われてきた。
文亀が三年しかないのもそれが理由であり、三年までの元号は大抵が革年改元と見ていいだろう。
改元にさいしての新たな元号は、ときの文章博士が考え後世に残しており『二中歴』に古代年号の記載もある。元号は古来より考えられてきた候補から選ばれることがほとんどで、中には『平成』という見慣れたものまで見受けられる。当然、文章博士として名高い菅原道真が考えた元号も記されているはず。
南北朝時代を終わらせるため、朝廷が幕府と交わした密約がある。それは、荘園の統治を認める代わりに儀式の費用を幕府が負担しなければならないというものだ。だが、今や力無き存在である幕府に、後土御門天皇ならびに後柏原天皇の二代続けて譲位をさせるだけの力が無かったがため、両帝は在位のまま崩御されている。
在位中の天皇の崩御は禁忌であり、後土御門天皇は五度も譲位しようとしたが、その都度、足利将軍家に拒否され続けていたらしい。つまりは、幕府が費用を工面できなかったか、あるいは政権争いによる微妙な緊張関係により行えなかったのか。
それはそれとして、此度の献上で費用の目処が立ち、当今の帝は禅譲を断行されることにしたのだ。辛酉革命の年まで十年を切っており、もう間近に迫りつつある。禅譲で改元して、すぐにまた革年改元では混乱を招く上におさまりも悪く、新たな帝の権威に傷がつく。だから、急いでおられるのだ。
房通らに確かめて間違いが無ければ、土佐にいる和井へ問いたいことが山ほどある。
古くは孫子算経にも雉と兎の鶴亀算が記載されています。
江戸時代に書かれた雨月物語には易姓革命の話が出てきます。
今回も説明ばかりになってしまいましたが、この改元にはある大名が関係してきますので、禅譲の話と合わせて投稿させて頂きました。




