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73.京都

 


1552年 12月(天文二十一年 師走)


挿絵(By みてみん)



 折良く西風(ならい)が吹き、室戸御崎から蒲生田御崎を経て黒崎にて一晩泊まれば、明くる日には住吉に着いていた。ここまで十二日しか掛かっておらず、あまりに順調な旅路で拍子抜けしてしまった。


 欲を言えば、阿波の水門(みと)渦潮(うずしお)を見たかったが、わざわざ難所へと立ち寄るわけにもいかず紀伊水道を横断したことだけが心残りだった。またいつか見れる機会が来ることを願う。



 住吉からは八梃櫓(はっちょうろ)の小舟へと乗り換えた。京へと続く川は都に近くなるにつれて水深が浅くなっていくため、小さく軽い舟でなければ進めない。


 川とは言っても入り組んだ川幅は狭く、行き交う舟同士の(かい)がぶつからないように綱で()かせて川を遡上していく。曳き舟ができない所は竿で川底を押したり櫂を漕いで進むしかない。


 ある程度の距離を進めば次の者たちへ、更に進めばまた次の者たちへと綱が受け継がれていく。そうして暫くすると、途中で牛車(ぎっしゃ)が連なって停まっていた。



 一条家のものと思しき家紋が見える。

 近くまで寄って知った顔を見かけたことで、ようやく一条の車であることを確かめられた。


 牛車で迎えにきたのは飛鳥井曽衣の嫡子である雅高(まさたか)と、町顕古の嫡子の顕高(あきたか)だ。


 曽衣と顕古は話が合うのか土佐では一緒に歓談しているところをよく見かけた。子の名前に同じ『高』の字が使われているのも示し合わせたものだろう。



 その二人に加えて入江左近(さこん)の嫡子である右近(うこん)の三人が、公家として様々なことを京で学んでいるところだ。


 出迎えに礼を言い、女子供や公家衆が各車へ乗り込んだ。他は馬に乗る者や歩いて同道する者がおり、残る者らは荷と一緒にそのまま舟で進んでもらうことになった。




 ■■■




 いよいよ京の町へと入れば伝え聞いていた様子とはまるで違う印象を受けた。街並みは幽玄で道幅は広く物静かな『これぞ京都(きょうのみやこ)』といった趣きがあり、荒廃とは程遠い。


 雅高より聞きたところによれば、禁裏の壁が崩れているようなこともないらしい。考えてみれば、当たり前か。そんなことがあれば何を差し置いても先ずは壁の修理を優先するはずだ。



 大名の献金は内裏経済にとっては、なにがしかの貢献をしているだろうが、食べるものに困るような困窮の仕方ではない。どうも『内裏の歳費が一割にまで落ち込んでいる』という噂は献金を促すための方便ともなっており、皇室領からの貢納と大名からの献金を合わせると三割から四割くらいで落ち着いているらしい。


 しかし、行えない儀があったり歌会が少なくなっていることは事実なようで、(さき)の帝と比べれば歌会は半分ほどになったとのこと。


 公家が儀式へ参列するためには、装束や牛車を調達して整備を行い、町民への心付けとして銭も支払う。手持ちが足りなければ借り入れて参列する者も居るくらいだ。


 その中のひとりに山科言継(ときつぐ)の名も挙がっているほどで、荘園からの納付がない分、公家個人が困窮しているのだろう。



 儀礼や歌会の度に入り用となるばかりで、公卿であろうとも月に何度も参加する者はそう多くないらしい。そうなれば、参加している者は少人数で補填する費えや役目も増えていく。


 そのことが、さらに公家衆の足を遠ざけてしまい歌会は催す機会が減っているのが現状のようだ。かく言う、房通(ふさみち)も何かにつけて土佐へ下向しているし、そんな公家衆の行動も『食うものにも困る有様』などという噂の信憑性を高める一因となっているのかもしれない。



 それと、百年前の寛正の大飢饉による印象が払拭できずに、今なお残っているということなのだろう。


 当時の京における惨状は読む書の全てが最悪の出来事として記している。その様は地獄と呼ぶに相応しいほどで、道という道に(しかばね)が溢れかえっていたらしい。


 水害・旱魃(かんばつ)・虫害・疫病と(わざわい)が相次いでいたにも関わらず、幕府はそれらに対処することなく民らの死が蔓延していった。その時からだろうか、朝廷が幕府に何も期待しなくなっているのは。



 そんな状況でも、公家の下向を喜ぶ大名が多かったのは、子や家臣へ芸事や言葉使い・書などの教養を身につけさせることができたし、公家は礼として束脩(そくしゅう)を受けてと双方に利があった。


 更に、公家を通して官位を奏請(そうしょう)することも考えているため、武家は公家とのつながりを欲していた。しかし、寒すぎたり暑すぎたりする土地へは下向する者は少なかったため、東西の地方では方言に特徴があるのだろうか。



 下向した者は、武家に合わせて言葉遣いも変えている。御所言葉を知らない者へ話しても通じるはずもなく、言ったことを始めから説明しなければならない。そんな二度手間を減らすために、自然と合わせるようになっていったらしい。


 臨機応変に対応出来なければ、下向しても環境が良くなることはない。言葉遣いや態度を改めず下向先の武士を怒らせた輩の話は、時おり耳にしている。



 高すぎる自尊心は時に身を滅ぼす、ということだろう。


 さもありなんむべなるかな。

 


 

朝廷式微論でも語られている、御所の壁(築地)が崩れて修復も出来ず、館からろうそくの明かりが見えたというのは後世の創作だと思われます。


朝廷の歳費は室町初期と比較して十分の一になっていたようですが、荘園公領制が崩壊した後は大名からの進物や献金と皇室領の貢納を合わせてある程度の水準を維持し得るだけの歳入があったことが見られます。小説では、そこを三割から四割としました。

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