72.海路
1552年 12月(天文二十一年 師走)
川はさざなみ、きらきらと陽の光を照り返しては止めどなく流れていく。その眩い輝きは美しく、どのような宝玉であっても比ぶべくもない。
舟のへりから手を伸ばして川水に指先を差し入れれば、ひんやりとして何とも心地が良い。
水を切って進んでいく感触を楽しみながら、目を閉じ耳を澄ませば、まるで鳥にでもなって飛んでいるかのような気分を味わえる。
上洛に向け中村御所を立つときには、多くの者が見送ってくれた。中には馬で追って来てまで手を振り続ける者さえいたほどだ。
紀貫之も同じような気持ちであったのだろうと思うと、土佐日記に描かれている情景を想い起こし、じんわりと心に沁みた。
川を下る折にも、こちらに気づいた村の者らが手を振ってくれた。別れ難い思いを背に船は進みつ、他の皆も気持ちが高ぶっているのが分かる。これを『もののあわれ』と呼ぶのであろう。
何が起こるか分からない時代だからこそ、二度と会えなくなるとの覚悟を持っておかなければならない。そう思うからこそ、見送る者も見送られる者も互いの無事を願い姿が見えなくなっても尚、手を振りつづける。
『惜しと思ふ 人やとまると 葦鴨の うち群れてこそ われは来にけれ』
『棹させど 底ひも知らぬ わたつみの 深きこころを 君に見るかな』
飛鳥井曽衣と入江左近の二人が楽しそうに和歌を詠んだので、漢詩で参加することにした。
『船屋形の塵も散り、空行く雲も漂ひぬ』
それを読み終えて、船上の皆で笑いに笑った。
ふたつの和歌と漢詩はどちらも土佐日記に出てくるものなのだ。紀貫之らと同じく、京へと無事にたどり着きたいという思いをこめて、縁起を担いでいる。
二人の粋な計らいにより皆の心が和み、口にすることはなかったひとりひとりが抱えていた幾許かの不安を打ち消してくれたように思う。それは、公家であるからこそ出来たことなのかもしれない。
途中で唐船に乗り換えたら、いよいよ海に向けて旅立つ。
船上にて夜を明かして翌朝、辺りは薄っすらと見え始めるまだ暗がりの中、日が昇る前に七つ立ちするようだ。
仄暗い海に向かい漕ぎ出すと、次第に明るくなり始めた。あっという間に朝日が昇り、風を受けた帆が膨らみぐんぐんと進んでいく。
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御所を立ってから五日目。
今日は風が吹かず、日和まちをしている。
土佐日記では五十五日の移動の内、実に三十八日は風待ちなどで舟は動かずに、実際に航行していたのは十七日のみだ。
その時に使われていたとされる十梃櫓などの舟に比して今の船には良い点がある。一つ目は、船が大きな唐船であるため荷を含め二隻で済むこと、二つ目が昔と違って陸伝いに移動することなく海を横断することが可能なために日程を短縮できる。
であるからこそ、延喜式では土佐から京までの目安が海路で二十五日としており、荷を下ろした帰りなどは十八日となっている。風と波の状態が良ければもっと早く着くこともあるだろう。
「よう似た姉と妹よな」
「は?」
持明院基規が話しかけてきたが、急なことで意味が分からなかった。
「祭りで化身と謳うておった姉妹のことよ」
そのことか。
「実のところ、あれらは生まれ出でた日も胎も同じゅうにしておる双子に御座いまする」
「何と!? そは忌むべき不浄ぞ」
「ではありましょうが『生まれ出でた命に罪はなく』ともすれば一条家の礎となるやもしれませぬゆえ、寺の僧と計り化身と致したもの。むろん、禊や祓の呪法も施し、身も心も穢れ無き者らでありまする」
「そうであったればこそであろう。秘すべきことぞ?」
「太占にて占いましたるところ、八百万の神々よりお赦しも得られたようでありますれば、すでに穢れなき清浄の者でありましゃる。何を秘すことがありましょうや」
太占は亀卜と似た占いのひとつだ。牡鹿の肩甲骨を波波迦と呼ばれる桜の樹で焼き、その骨の表面を町形と呼ぶ割れ方を見て占う、古くから伝わるものだ。
年寄りというのは眉が伸びて目尻は下がるため、見た目が好々爺としており何でも話してしまいそうになる。京では誰がどんな思惑を持っているか知れないのだから、気をつけないといけないのにな。
「ははは。戯言でありますれば、どうぞお忘れ下され」
などと言ってはみたものの、難しい顔をして何かを思い悩んでいる。このような顔を見るのは初めてのことだ。
「今は昔、やんごとなきお方の御子が生まれ給うた」
しばらく眉間に皺を寄せていたかと思えば、不意に語り始めた。
「生まれ出でた子は、男の子と女の子がおひとりづつであった。不憫なことに生まれて間もなく、女の子は息をせぬようになってしまわれた」
おひとりづつ?
しまわれた?
言い方が気になるな。
持明院が隠すほどの『やんごとなきお方』って…… 限定されるだろ。この話の続きは聞かない方がいいような気がしてきた。
「男の子は生みの母と共に都より山代の国へと下がって行ったそうな。高貴なる生まれであるにも関わらず、田舎にて慎ましく暮らす男の子。それをあわれに思うた母は、兄の計らいによりさる公家の子として育てることにしたのよ」
少なくなったとは言っても公家の落とし子が居ないわけではない。一条家の小松谷寺覚桜もその一人なわけだし。だからか、急に子供が一人増えたところで大きく騒がれることはないらしい。
「子の母は髪を落とし寺へと入り、男の子は乳母に育てられ大きゅうなっていった。されども、男の子があまりに品良く育ったため、ある晩にふと兄は思うたのよ『高貴な血筋をそれとは知らしめずに絶やさせても良いのであろうか』と。如何に思われる?」
いかがもなにも…… どうしようもない。
双子の中でも、特に災いを呼ぶと恐れられているのが男女の双子だ。生まれた子が男女の双子ともなれば、本当に夭逝だったかも怪しいところだ。
「お労しいことに、今もって持明院家で過ごされておられるのよ」
「…… それは、何とも」
とうとう持明院家って言っちゃったな。かける言葉もないというか、深入りしたくない…… などと思い悩んでいれば、持明院はいつのまにか微笑みを携えた表情へと戻っていた。
「ほほほ。虎将さん、これなるは戯言ぞえ?」
「さ、さようで」
「そないなことよりも、都でお使いになりやる言の葉は覚えてあらしゃいますのやろなぁ。ほほほ」
笑い声を上げながら、いそいそと立ち去ってしまった。
戻って来て教えてほしい。
一体、どこからどこまでが戯言なのか。
この、もやもやした気持ちはどうすればいいというのか。いっそのこと、今日という日が戯言であってくれればな…… 残念ながら四月の愚者ではないけど。
最後に痛いところを突かれた。
まだ、お祖母様と練習中で御所言葉は覚えきれていない。このままでは「これだから南海の田舎者は」などと言われてしまいそうだな。
もぉと前から練習さすておげば、こっだらごとにならねがっだのになぁ。
七つ立ち = 午前四時に旅立つこと
帝の御体に祟りが有るか亀卜で調べていました。また、史実では持明院基規の妹が後奈良天皇との間に双子の皇女を産みましたが夭逝してしまったとなっています。小説内では男女の双子としております。




