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71.楽市令

当主が上洛しても問題無いってことを説明してるだけなので、読まずに飛ばしても大丈夫です。

 


1552年 12月(天文二十一年 師走)



 土佐一条家とは、如何なるものか。

 それを確かめるには、始祖である教房(のりふさ)の代まで遡る。



 摂政や関白も務めた『稀代の才人』である一条兼良の嫡子として生まれた教房。二十四の時には応仁の乱が起こり、戦禍を避け興福寺まで身を寄せた。そこは、弟の尋尊(じんそん)門跡(もんぜき)を務める寺院だったからだ。そこへ、同じく逃れてきた兼良に遠慮し、自らは家領があった土佐幡多荘(はたのしょう)へと下向していく。


 行動を共にせんと下向した諸大夫(しょだいぶ)は、町や難波・松殿 ・日野(平松)・飛鳥井・白川・松木らの名がある。中でも、町家と松殿家の者は南北朝以来の公家大将と呼ばれ、絶えず戦のために各地へと赴いていた。それは、元号が文亀 (ぶんき)となった後も続いており、町顕基(あきもと)と松殿忠顕(ただあき)の勇名は今でも語り草となっている。


 土佐の地侍や国人衆を、京で培ってきた知識や摂関家の権力で以って従えたが、束ね続けるのは容易いことではなかっただろう。公家大将が率いる軍勢は、あるいは国人衆よりも戦に慣れており、恭順の裏にはその武力も一因としてあったのかもしれない。


 公家というものは、武家から文弱(ぶんじゃく)()などと揶揄(やゆ)されて久しい。しかしながら、土佐一条家を含め戦う公家は少なくない。町顕古(あきふる)が村上海賊の住まう地へと外交に赴いた勇ましさ、その理由も分かろうというものだ。




 もうひとつ重要なのは、当主が不在でも戦さや(まつりごと)を行えるということ。それを可能にするのが官位と血縁だ。


 荘官であった土居ら四家老は、代々荘園(しょうえん)を守ってきた武家集団として一条に対し好意的であり、外縁となる豪族衆もこれに習い従ったことで土佐一条家は形作られた。それは、公家・武家・国人衆らが一条家を核とした合一勢力であって、必ずしも当主を欠くと機能しないものではない。物事は当主の在否に関わらず、合議制で決められ官職に就いている血縁の者が代行として是非を下す。



 だからこそ、房家の代より当主が上洛している最中(さなか)であっても、各人が自らの成すべき役割を全うしていた。逆に言えば、不出来な当主であるならば()げ替えることも出来てしまう…… ここは京へ行かせて正解だったと、無くてはならない存在なのだと思わせるほどの成果を挙げる必要がありそうだ。


 土佐へ訪れる公家は多いため、少なからず面識はある。中御門(なかみかど)宣治(のぶはる)持明院(じみょういん)基考(もとたか)などは房通(ふさみち)と一緒に土佐へ来てそのまま居着いており、夏には従三位への内示を手に山科(やましな)言継(ときつぐ)が訪れ、中御門と土州の儀について雑談していった。


 気掛かりなのは摂関家のことだ。近衛家と九条家の者には会う機会もなかったし、良くは思われていないだろう。それでも、他家と円滑な関係を築くべく、日々努力を怠らず邁進(まいしん)せねばならぬことは言うまでもない。




 ■■■




 政務にあたっては、信長に習い楽市楽座や関所撤廃を行なうのも良いかもしれないと思い立ち、康政や宗珊へ話してみれば酷評に次ぐ酷評だった。その時に諭されたのが現状の支配体制だ。


 小京都と呼ばれる土佐の町並みは一条家が築いたものであり、そこに住まう者は座や(とい)、番匠・鋳物師(いもじ)や下人に至るまで一条家の支配下にある。


 その支配は寺院にまで及ぶ。菩提寺となる金剛福寺を始め、仁和寺・大圓寺・善光寺など領内の寺社へ一族の者を院家(いんげ)として、または大檀那(おおだんな)となることで制しているのだ。実質的に、その領地は一条家のものとして扱われてきた。



 ゆえに、関料や税を操作することができる。

 商人へ課す税は『棟別銭(むねべつせん)地子銭(じしせん)市場銭(いちばせん)有徳銭(うとくせん) 』とし矢銭(やせん)を免除していたり、農民へ課した税は『年貢・公事(くじ)』とし、私段銭(したんせん)は無く伝馬・普請・陣夫などの夫役(ぶやく)は強制されず、少ないながらも銭が支払われた。つまり、国司(くにつかさ)たる一条家が直接支配している土佐領内では、民に掛かる税が他家の領地と比べ格段に低いと言えるのだ。


 土佐を訪れる者の大半は舟で移動しており、わざわざ陸地を通る者は少なく、寺社は一条家からの布施を運用していた。そのため、関所は徴税というよりも、通行者の管理や検問、外敵を防ぐことを目的としている。




 座や問が一条家へ従う大きな理由として勘合貿易があった。


 勘合符は大内家より融通されたもので、一条家が商人を伴って私貿易を行っていたのが実情だ。その恩恵により、商人らは他国と貿易することができた上、警護にかかる費用は最小限で済んだ。また、集団での航海は倭寇(わこう)や海賊への牽制ともなり、艘別銭(そうべつせん)を支払う場合でも負担額が減る、と利になることが多い。


 そんな中で一条家を出し抜けばどうなるか?


 二度と貿易に参加ができないし、土佐では商いも行えず店の利益が激減する。だからこそ、座を始めとして商人らは一条家を立てると共に、その仁政にも同調し健全な商いとして切り盛りしている。もちろん、それ相応の利益があるからこそで、これより先の貿易には支障が出ると知れたらと考えただけで恐ろしい…… これは、御家の根幹を揺るがす事態であり『ゴショ・ナカムラ計画』の前倒しも視野に入れた早急な方策を講じねばならない。



 座や関所を廃すれば、商人や荷を制することが出来ず税の取立ては難しい。だれも取り締まらないのであれば抜け荷が横行し、その先は闇市となって税が入らないどころか物資の供給が滞り、物価が高騰し大混乱に陥ることも考えられる。


 その内、座に代わり支配権を得ようとする商人が現れ、結局のところ誰かが座に代わって支配するだけなのだ。しかしながら、座でなければ他の町とは交易できなくなってしまい、ゆえに、信長と同じやり方で土佐の経済を活性化させることは難しく、座と良い関係を保っている現状では必要が無いという考えに改めさせられた。


 よくよく考えれば、座があったればこそ山深い村などにも行商人が出向いて物資を供給しているのであり、それらがなくなれば民百姓が困ることは目に見えていた。座とは、属する商人を保護し各町にある座と相互扶助の関係により販路を維持し、物資の仕入れや流通を管理・調整を行う者たちの集まりなのだ。




 もし、暴利をむさぼり物流や市場に悪影響を与えている座であれば、楽市令によって市場の活性化へと繋がることもあり得るのかもしれないが。


 いつか、信長の作った城下町がどうなっているのか見てみたい。

 





この年、一条家へ連なる多くの者に官位が与えられたと公卿補任に、山科言継が土佐へ訪れて中御門と土州の儀について雑談したと言継卿記に記載があります。


史実では、京で六年も過ごすことになる兼定ですが、官職は上がることはなかったという謎が多い期間です。

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