68.造船
教行 = 東小路 教行
曽衣 = 飛鳥井 曽衣
顕古 = 町 顕古
康政 = 源 康政
宗頼 = 加久見 宗頼
源次郎 = 岡 源次郎
1552年 11月(天文二十一年 霜月)
祭りの日、ガーゴと名乗る者が謁見にやってきた。
事前に謁見の話はあったが、神楽を舞うことに集中しており忘れていたのだ。かれこれ二十日近くも待たせてしまった。政所に通されたのは、質素な濡羽色の衣装を身にまとった南蛮人と通事だった。
この通事には見覚えがある。
確か、ザビエルに同行していた者だったはず。
男は居並ぶ面々を見回している。
「~~~~~~~~~~~~~~~~」
「お目通りが叶い、恐悦至極に存じまする。これなるは『ガーゴ』と申す、遠き南の地より参りました者。献上の品をお持ち致しましたゆえ、お納め頂きとうございます」
南…… 西じゃなくて?
四夷では、西なら西戎や戎蛮と呼ぶが、南から来たという認識であれば南蛮と呼ばれるのも納得出来る。
それと前の謁見でも気になっていたが、この通事の男は完璧ではないにしろ、ある程度の言葉遣いを心得ているようだ。何者なんだろうか?
「此度は何用で参った?」
「~~~~~~~~、~~~~~~~~」
「友より頼まれ、土佐の御所様が所望されたという細工師を連れて参りました」
「友とは誰か?」
「シャビエェル」
シャビエェル…… ザビエルじゃなくて?
単なる発音の違いなのか?
それより細工師というのは、もしや南蛮絞りと古代コンクリートの製造方法を知る職人のことだろうか。仕方がないとはいえ、康政を介して受け答えや質疑を行っているのが、なんとももどかしい。康政の不遜な物言いは、ときどき不安にさせられることがあるし。
「~~~~~~~~~~~~~」
「ひとつ、謹んでお願いしたき儀がございまする」
康政がこちらを見たので、小さく頷く。
「申してみよ」
「先の船旅にて強き風が吹き付け、どうにか土佐の岬へと行き着きはすれども、帆は飛ばされ船底は破れて浮かんでおるのがやっとであり申した」
「ほう、それは難儀であったな。して、御所様への願いを申せ」
「はっ。船底を確かむるに、直すは能わぬほど大きな穴が空いてございました。我らにとって船は何にも変え難く、これより先も入用となりますれば、なにとぞ新たな船を造るため御所様のお力添えを賜りたく、伏して願い申し上げる次第」
なるほど、船を造りたいのか。
恩を売り、誼を通じておくのも悪くはない…… か?
当然、造るのは南蛮船なのだろうから、構造を知る良い機会と言えなくもないし。今ある唐船との違いを調べれば、より良い船を造ることができるかもしれない。
「~~~~~~~~~~、~~~~~~~~~~~」
「礼は言うに及ばず、我らに出来得ることあらば如何様なことでも致しますゆえ。この儀、お引き受け願えましょうや?」
こいつ、どこかの家に仕えてたな?
言葉遣いや振る舞いが見るからに違うものであるし、これほど胆が据わっている通事など居るはずがない。それなりの地位にいた者であろう。とりあえず、こちらの意向を康政へ伝えれば、呆れて物も言えないといった具合の後に怪訝な面持ちになる。
早く伝えろっつぅの。浅く頷いても動かないため、今度は深く頷いて見せる。もう一度、頷いて見せようかと思った矢先に、何か言いたげな様子ではあったものの、軽くため息をこぼし通事へと顔を向けた。
「礼は無用と心得よ。建造に入用となる銭や材木は当家より用立てるゆえ、按ずるに及ばず」
「なんと! …… されば、御所様は何を望まれまするか?」
「御所様は何も望まれてはおらぬ。ただ、汝らの願いを聞き届け、船を造ることを差し許すとの仰せである」
「~~~~~~~」
今度は、通事の男が怪訝な面持ちをしている。
ガーゴはどうなっているのか分からず「何と言っているのだ?」みたいなことを聞いているのだろう。さすがに通事の男は『只より高い物はない』ことを知っている様子、どこかで仕えていたのは間違いなさそうだ。
「どうされた? さぁさ、急ぎ伝えられよ」
康政がなげやりな態度で促すと、訝しみながらもガーゴへ通訳しはじめた。
「~~~~~~~~~~、~~~~~~~~~~~」
「ヴィッシ、マリーア! アリガト、ジョンジマル!!」
ジョンジ丸!
久々に聞いた。
ザビエルを思い出し、ほっこりする。
『ガーゴ、おまえもか』
造船は、加久見と舟匠である源次郎へ頼んでおこう。
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土佐一条家は戦国にあって異色と言える存在だ。
四国の片隅にありながらも限られた者のみが成り得る公卿へと任官し、朝廷をも動かすことの出来る力を手にしている。それを象徴するように、土佐一条家には官位を授かっている者が多い。
一条の家系に連なる教行や公家である曽衣と顕古は別としても、蓮池城の城番である白河兼親や長尾正直ら国人にも与えられている。
これは偏に一条家の恩恵を受けている証であろう。初代教房は土佐へ下向し、土着の国人へ官位を与えることで摂関家の『力』を見せつけ、土佐の居並ぶ豪族をはじめとした国人衆は目の当たりにした力に次々と従っていった。
忠節を誓った豪族の中に加久見家がある。この家は土佐の最南端である清水に土着した国人だ。かの地の大半は山と浜が占めており、作物を栽培するには不向きな地形であった。ゆえに、漁を主体とした生活になり、操船術や気候の変化・潮の流れといったものを読むことに長けているのも自明の理というものだ。その独自の情報は口伝として、親から子そして孫へと引き継がれている。
豪族である加久見が従ったことで、橋本家を筆頭とした入野・布・大岐・立石・川口・岡らも加わり、一大海賊とも言える様相を呈していく。今では『加久見衆』と呼ばれる彼らは、ときに誼を通じた一部を除く商船に対して海賊紛いのことも行っていた。
商人らは日向灘から紀伊水道へ至る土佐南海を通らずに内海を進むこともできる。むしろ、穏やかな内海を進む方が安全なのだが、そちらへは行けない理由があった。内海の先、燧灘は加久見衆よりも性質が悪いと言われる村上水軍の縄張りゆえである。
だからこそ、一条家へ銭を払い荒波に揉まれながらも南海を回っていく。もちろん、無許可の商船も航行しているのだが、それらに対して海賊行為をするのが宗頼が率いる加久見衆だ。
仮に、一条家をやり過ごせたとしても、豊後水道へ入れば大友家、周防灘の海峡を抜ける際にも大内家の許可を必要とする。しかし、一条家の許可さえあれば大内・大友の領海内を安全に通ることが可能であった。その対価として、一条家から大友・大内へ銭が支払われ、その逆もまた然り。
詰まるところ、大内・大友・一条により他国との貿易は統制されてきたと言える。だが、大内家が崩れた今は統制が取れずにいたため、一条家は村上水軍と組み貿易船を制することにしたのだ。
今後は大内と通じていた倭寇も好き勝手に暴れる恐れもあるが、ひと先ずこの体制を維持することで勘合貿易が断絶しても、収益減を最小限に抑えることが出来るのではないかと期待している。
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正月から行われる宮廷行事に参加するため、年が明けてふた月は帰れないと言われている。
それならと、周防から逃れてきた者も含め領内の者へ仕事を与え、春に向けた備えをする。五穀の栽培が盛んに行われており、昨年には開墾を行い田を広げた。凶作で無い限りは穀物に困ることはそう多くないと思っている。
だから、生活には欠かせない『麻・紅花・藍』の三草と『茶・桑・漆・楮』の四木に加えて苧や茜、荏胡麻の栽培を奨励しようと思う。山や川が多い土佐には、これらが自生しているのだろうが、人為的に植生することで安定した収穫を見込んでおきたい。
紅花は花から、茜は根から、藍は葉から染料が取れ、紅花と荏胡麻の種子は火を灯すための油が取れる。桑は生薬や蚕の飼育に、漆は樹皮から絞り取れる汁を塗料や接着剤とし、楮は和紙の原料、苧は茎の皮から繊維を取って糸を作り、晒などの布を織ったり縄や網を作れる。これらの栽培を領民に促し、年貢として納めさせたり買い取りを行うことにしよう。
ただ、藍を植えるには一所の土地では養分が枯渇し、二年は休耕させなければならない。そこで、大雨によって河川が氾濫する平田村の近辺に目を付けた。毎年起きる洪水が、養分を多量に含んだ水と肥沃な土壌を運んでくれるため、連作が出来そうであったからだ。
今は、蓮根を植えているので区分け作業が必要で、そう容易なことではないけど。それでも、やるだけの価値はあると思う。
もしかしたら『大事な物は土佐藍で染めろ』なんて言われる日が来るかもしれない。
『ヴィッシ、マリーア(なんてことだ)』 はポルトガル語です。
四木三草は江戸時代の言葉になりますが、分かりやすくまとめるために使用しています。
史実にて、兼定が豊後へ追放されたことを知り立ち上がった国人衆が加久見率いる海賊衆の面々でした。




