3.爪切り
1547年 6月 (天文十六年 水無月)
ここが戦国の時世だと分かってからひと月ほど経ち、前世に比べれば当初こそ不便を感じだが、徐々にではあるが別段の問題も無く日々を過ごしていた。
ある日、何気なく手を見ると爪がだいぶ伸びてきていた。この時代に爪切りはあるのだろうかと疑問に思い、母へと問う。
「お母さま、爪が伸びて参りましたゆえ切り揃えたいのでありまするが、何ぞ切る物はございますか?」
「さようで。なれば、母が揃えて差し上げますゆえ、近う寄りなされ」
近くへ腰を下ろすと、母はおもむろに蒔絵が施された黒塗りの化粧箱から短刀を取り出した。
それを見てぎょっとするが、「いや、まさかな」と思いつつ、待っていると母は手を差し伸べた。
「こちらへ手を出して給れ」
「…… もしや、その短刀を使われますのか?」
「母は慣れておるゆえ、心配には及ばぬ。さっ、お早く手を出して給う」
催促されるが、手を出す勇気が沸かない。
信用してる、していないの問題ではないのだ。うっかり指先を切ってしまうことは十分に考えられることである。
「い、いえ、まだ爪は切らずとも良いのではありますまいか」
「何を言うておるのです。随分と伸びておるゆえ、さぁさ、早うしなされ」
手を掴まれたかと思えば、否応なしに切り始めようとした。子供の力では振り払うことは叶わず、恐怖に強張らせつつも歯をくいしばって耐えるしかない。
「大人しゅうなされませ。あやまって指を切ってしまうゆえな」
あまりの恐ろしさに、目を背けた。
血を見るような事もなく器用に切ってくれたが、やはり生きた心地はしなかった。
普段は気遣ってか寝てる間に済ませられていたが、起きているときでは話が違ってくる。早急に爪切りが必要だと言わざるを得ない。
爪切りの構造は『てこの原理』を使っており、戦国時代でも作れないことはない。部屋に戻り近習の市正に声をかけた。
「市正、掃部を呼んで来てくれぬか?」
「はっ、直ぐに呼んで参ります」
市正は、土佐一条家で家司を任じられている源康政の嫡子だ。そしてもう一人、代々家老を任じられてきた安並直敏の嫡子である久左衛門とが、近習として仕えている。
久左衛門と少しばかり話している間に、掃部と呼ばれる康政が、市正を伴い政所から御殿へとやってきた。
「お呼びにござりましょうや?」
「うむ。これなる物を鍛冶師に作らせて給れ」
そこには、爪切りの部品となるべき形を示す紙が数枚あった。
「卒爾ながら、これは何を成すための物にござりましょうや?」
「爪を切るための道具よ」
「爪…… にございまするか?」
この時代に無く、何の役に立つ道具か分からないだろう。しかれど、思っていた反応ともまた違い、どこか冷めたような態度であった。
「うむ。今は短刀を使うておるが、これがあらば容易に切り揃えることが出来よう」
「短刀であろうとも不足に思うてはおりませぬが?」
確かに、不便に感じなければ必要性も感じることはない。だから、先の反応に繋がったのかと勝手に納得する。
「さ、さようか。なれど、何とか拵えてもらいたい。首尾よういけば皆が求める物となろうぞ」
「若様、俗がごとき振る舞いはお控えなされませ」
「そうは言うてもな。麿には要り用の物であればこそ、こうして頼んでおるのだ」
無ければ差し迫った事態になるではないが、切ってる最中は生きた心地がしない。誤って指を深く切ってしまえば、最悪の場合は破傷風になることも考えられるだろう。無くてもいいが、作れるのであれば必要なことは確かだ。
「この通りよ、頼む」
「さようなまでの仰せとあらば、御所様の下知を賜って参りまするが、ご承諾を頂けぬのであらば、それなる物はお諦め頂きますぞ?」
「分うておる。頼むぞ、掃部」
しばらくすると、承諾を取りに行った康政が政所から戻ってきた。
「御所様がお許しになられました」
「おお、さようか。ご苦労であったの」
「これらは、竹で拵えまするのか?」
「いや、鉄で無うてはならん」
「それはまた、大層な事にございますな。しからば後日、鍛冶師へ話をして参ります」
「うむ。頼む」
鉄は貴重だ。だからこそ、露骨な嫌味を言われても我慢する他なく、その言葉を軽く流すと、細かい形状の説明をした。
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あれから、すぐに鍛冶師へ造らせ、出来上がった部品を組んでは直す作業を繰り返していた。ある程度の形が見えてくると、職人が手を加えてより良い物へと修正されていった。
構造や作り方も、各々の技術にて工夫されていった。そして、出来上がった物が御殿へ届くまで述べ二十日しかかかっていない。
同じ物を作れば、もっと短い日数で出来上がるだろう。出来た爪切りを使用すれば「パチンッ、パチンッ」と小気味良い音と共に爪が飛んでいく。
現代の爪切りと比べても遜色ないどころか、全く問題ない出来栄えであった。むしろ、切れ味はこちらの方が良い。
仕上げに、持ち手の裏へ爪を研ぐためのヤスリを、漆を塗った竹の覆いを付ければ、十分に 仕上げに、竹の覆いを漆で黒く染めれば、見栄えも良い満足のいく品物が出来たのだ。
試しに家臣へ配らせてみた結果、目も当てられないほどの不評であった。
その理由として、切っている際の姿や音が何とも武士らしくないという声が多い。
そんな中『怪我をする心配もなく、誰であろうとも使うことが出来る良き品』と言った者が現れたのだ。それこそ、違いがわかる男である土居宗珊であった。
完成した品の内、いくつかを一条本家に送った。安全に早く切れるため、公家には人気があるだろう。
幼児用には、先端を丸くして鋭すぎない安全性の高いハサミを作れば良い。こちらも、かなり重宝されることは請け合いだ。
完成品でお祖母様の爪を切って差し上げねばならないと考えていれば、居ても立っても居られず、今日も今日とて祖母の部屋へと向かっていった。