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65.胡麻塩

 


1552年 9月(天文二十一年 長月)



 公家の二条尹房(ただふさ)より、悲しいことを聞いた。

 御綸旨(ごりんじ)には「帝へ拝謁を賜りに京まで来い」という意味が含まれているらしい。


 年が明ける前に京へ行かなくてはならない。

 なぜ、こんなことに…… 。

 無理押しにより、公卿へ補任された状況で上京するのは気が進まない。これも常行が悪いゆえの仏罰なのだろうか。人知れず、そっと小経を唱える。



 天台大師(てんだいだいし)と呼ばれている天台宗開祖の智顗(ちぎ)が著した仏教の論書に『天台三大部 摩訶止観(まかしかん)』があり、四種三昧という精神統一の(ぎょう)が記載されていた。そのひとつには、念仏を唱えながら歩き阿弥陀仏の周りを九十日のあいだ回り続けるという常行三昧なるものがある。


 これは『般舟(はんじゅ)三昧経(ざんまいきょう)』に沿った行で、精神統一の末に御仏(みほとけ)が現前すると説いているわけで、己の(ごう)がそこまで深いのか直に問うこともできよう。


 やってみても良いかもしれない。



四種三昧(ししゅざんまい)!』




 ■■■




 大友義鎮から唐辛子とその種が送られてきた。


 豊後に訪れた南蛮人より献上された品のようだ。

 昨年の南瓜(かぼちゃ)といい、今回の唐辛子も如何なる狙いがあってのことかと疑えば、添えられた文で何となく察しがついた。



 現状、晴英(はるひで)は大内家の当主となっているが、家内を掌握するに至らず事実上の傀儡でしかない。それと併せて公家や大内家の縁者が土佐へ避難していることを嗅ぎつけたのだろう。


 恐らくは、それらを調べていく内に俺が官職を賜ったことにも行き着き、慌てて一条家との仲を密にするべく珍しき品を贈ったといったところか。その意図が文面からも透けて見え、尚のこと信用に値しないのだと思わざるをえない。 


 だがしかし、南瓜や唐辛子は貴重な作物であるため無下にはできず、これが狙いだとすれば確かな外交手腕を持っていると言える。贈る品と時期、打つ手が絶妙である。若年であることを鑑みるに、油断のならない相手だということも認識せねばなるまい。




 一条家にて育てている『胡荽(こすい)山椒(さんしょう)陳皮(ちんぴ)・麻の実・紫蘇(しそ)山葵(わさび)』などは『本草和名(ほんぞうわみょう)』や『延喜式(えんぎしき)』にもある通り、古来より知られた香辛料だ。


 それらと、胡麻のほか青海苔も食されるようになり、このたび唐辛子も加わった。五葷(ごくん)五辛(ごしん)と呼ばれる『ニンニク、ニラ、ラッキョウ、ネギ、ショウガ』も含め、香辛料や薬味に関しては充実してきたと言えるだろう。


 そして、新たな薬味となる胡麻塩を作った。

 単に胡麻と塩と水を炒って混ぜ合わせただけではあるが、ミネラルを多量に含む塩は濃度が高く塩辛い。その分、胡麻との黄金比を求めるのには苦労したが、穀物へ振り掛ければ食欲を増進させる効果は抜群だ。





 戦道具として、バックパックを作ろうと思う。

 先の初陣で感じたが、戦へ赴く兵が持つ荷物は多い。


 飲食物は、水を入れた吸筒と強飯(こわいい)、味噌や塩で煮たものを編んだ芋の茎縄、陣立味噌、薬玉なども持っている。他に、着替えとして羽織や股引、手拭、鼻紙、護符に縄、鎌、鉈などなど。


 これらは、具足に縫い付けた内嚢(うちふくろ)や食料品を藁で包み腰に下げた腰苞(こしづと)、首から提げた頸袋(くびぶくろ)打飼袋(うちかいぶくろ)、薬袋、巾着などで携帯している。これだけの荷物を持っては動きの妨げになる上に落とすことも危ぶまれ、荷を一纏めにして背負えば解決できるのではないかと考えた。


 定期的な点検を要するが、食料品以外はある程度まとめて置くことができるため、戦の折には支度も捗るだろう。




 農具開発として、たけのこを掘るための鍬や一本爪の手鍬を作る。底へ小さな穴を空けた桶を竿の両端に吊るした(えぶり)も作ろう。竿を担げば桶の下から水が出て水撒き作業が容易になる。いづれは竹や銅で如雨露(じょうろ)を作れればと思っている。


 作ったものには、木製の(わら)編み台もある。

 俵やむしろの編み機はあったが、従来は足の指で挟んで縄を編んでいた。これは足の代用となるもので、台を使えば足の指が擦れて傷つく恐れもないだろう。



 嫌なことがあると、よく妄想をして現実逃避をしてしまう。そこで開発品を思いつくことが多いのだが、いつかは向き合うときが訪れる。


 なぜ、現実とは此れほどまでに非情なるものなのか。



挿絵(By みてみん)



 ■■■




 大寧寺の変が起きる前、周防には六万もの人が住んでいると言われていた。

 その一部の避難してきた者や身請けした者が土佐で暮らし、今もなお増え続けている。


 中には、瓦師・縫い物師・舞舞(まいまい)白壁師(しらかべし)・染め師・車作りなど数多くの職人が含まれていた。特に、吹工・石工・山師・金堀が居たことは僥倖(ぎょうこう)と言える。


 銅の精錬法や灰吹法など門外不出の技術を持つ彼らには、鉱山を探し鉱物資源を採掘したり銀の抽出をしてもらいたい。南蛮絞りを教わったら、粗銅の精錬を行い含有している金銀を精製しよう。


 加えて、たたら製鉄を勤める職人の長である村下(むらげ)炭坂(すみさか)の他、鉄を(つち)で打ち鍛錬する手子(てご)がいた。ふいごを踏む番子(ばんこ)と炭を管理・調整する炭伐(すみきり)がいなかったのは残念だが、村下の指導によりそれらの職人も育ててほしい。



 他にも、絹製法を有する者がいたことで織物でも技術の飛躍的な向上が期待できる。そうすると、生糸の国内需要も増えるため、養蚕を考えた方が良さそうだ。また、一部の商人としか取引していなかった博多商人らとつながりを持つ者もおり、交易に対する人脈も広がる。




 平安時代の高僧は「末法法滅の時なり」と残しているように末法が始まっていると自覚していた。そんな中で、多くの経典を貿易で持ち帰り、寺社の復興や横領された荘園の寄進を行った大内義隆が『末世の道者』と讃えられていたのは納得できる。


 その遺志を継ぎ、産業を振興し寺社を手厚く保護したい。義隆が財を注いで培った鉱山採掘と技術開発であるが、同様に一条家も柱心とすることで絹・綾・扇子・屏風・刀剣など交易に必要な輸出品の多くを領内で調達し、莫大な利益を生むことになるだろう。







土佐の領域では十五世紀後半にかけた陶磁器が数多く出土しています。

このことから、勘合貿易が途絶えた後も他国と貿易が続いていたとも考えられます。

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