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62.くぎょう 【図解あり】

 


1552年 7月(天文二十一年 文月)



 御所内の庭を散策すれば、明るい紫色をした葵の花が見えてくる。この花が散る頃になれば暑い季節がやってきて、鳳仙花などの花が咲き乱れることだろう。


 生命力に満ち満ちた花々は、極彩色となって眼に映り込む。すると、自然に晴れやかな気分となり活力が沸いてくる。風薫るこの季節、夏間近の草花が好きだ。




 昨年は、身請けした者や避難民たちの食料を確保するのが大変だった。


 一条家より社倉米(しゃそうまい)を分け与え、それだけでは不足する恐れもあったため領民より米を買い取っていた。結局は社倉米でほとんどが賄えてはいたが、不足するよりは良かったと思う。


 社倉とは、鎌倉時代に朱熹(しゅき)が体系化した朱子学と同時に伝わったもので、村民が飢饉(ききん)に備え平時から穀物や財を貯蔵した制度だ。奈良時代や平安時代には常平倉(じょうへいそう)義倉(ぎそう)などが隋や唐への遣使(つかわしめ)によりもたらされたが、それらは律令制の終焉と共に衰退していった。もはや戦国時代では社倉も含め存在していないだろう、唯ひとつの大名家を除いて。



 土佐一条家の書物に朱子社倉法の注釈書もあり、今なお制度として残している。制度とは言うものの、民衆に負担を強いている訳ではなく年貢の一部を社倉として蓄え、旱魃(かんばつ)や冷害による飢饉に際し、年貢を免除すると共に社倉米を分け与えてきた。


 お父様の代でも行っていたがため、家臣や民から慕われていた一因になったのだろう。ゆえに、一条家を支持する領民がより一層増えたとも言える。俺の代では良いのか悪いのか飢饉は起きていない。



 いっときの支持を得るために税率を下げることは容易である。が、それはいつしか当たり前となり、万が一にも税率を上げでもすれば民の不平不満は一揆となって爆発する。人は得をして満足感を得るよりも、損をして不満が怒りへと変わる方が行動に出やすいのだ。


 その土地土地で事情も違ってくるため、領地ごとの年貢に差をつけることも出来ない。はっきり言って二期作を実施している土佐だけであれば、三公七民でも一条家は問題無い。だが、それは土佐だけで見ればであって、不用意に周辺大名を刺激するようなことは控えたい。そういった意味でも税率は変えるつもりはなかった。



 しかし、不平不満は聞こえてこない。実質的には数年前の同じ月に比べ四倍近い米や塩、もしくは銭が手元に残っているからだろう。安易に税率を下げれば良いというものでもなく、ただ下げて民心を得るだけでは愚の骨頂だ。


 なぜなら、今回のように社倉米を発布することもあるのだから。平時より年貢を蓄え、非常時には銭や蔵を開け民衆へと還元する。困窮(こんきゅう)している民へ施しを与えることができる、だからこそ国人は領主たり得るのだ。


 それは国人を束ねる大名も同じこと。民衆は、自らの地を治める領主が偉大な大名に仕えているという思いだけでも違ってくるはずだ。それが『安楽の心』となって、いつしか道徳にも繋がっていく。




 座を通して、赤米(あかごめ)・大麦・小麦・(あわ)(ひえ)・大豆などの豆類や作物もできる限り買い入れてもらい、その他あらゆる食料品をかき集めた。



 室町時代には食されていた饂飩(うんどん)

 奈良時代に唐から伝えられたという切り麦で、小麦粉に少量の塩を加えたら水でこねて、薄く延ばしてから切り茹でた麺には汁や具が添えられる。


 すでに21世紀と同様の製法で切り麺として作られているようで、禅宗の教えと共に仏僧から武家や民衆へ普及し、戦国時代では大衆化している。温麺(うーめん)とも呼ばれ、折り詰めに入れられた小さな団子状の饅頭と一緒に勧進猿楽などでも振舞われているらしい。




 以前に、明の蓮根を植えた沼地へも行った。

 山の斜面は急勾配で沢には澄んだ水が流れている。しかし、あたりは水びたしで所々で深い水たまりがあり、沢の脇には大きな熊の足跡が残されていたりして、恐怖に身が(すく)んだ。


 沼というと底無しをイメージしてしまうが、水が張っていて足を踏み入れると膝下まで沈み込んでしまうくらいの泥濘が溜まっているだけだ。


 そこには葦や蒲が生い茂っており、除草しながら自生している日本古来の蓮根を収穫した。湿地にはすっぽんがいるため、足を踏み入れるにも注意が必要だ。蓮根の他に鯉や鮒、雁や鴨をトリモチで捕まえて羽毛や食料とした。



 海で獲った魚の半分はその日に食し、もう半分は干物や粕漬け・塩漬けにする。秋に獲れた鰹を塩漬けし十日寝かせた後、二十日ほど冬の風に晒して出来る物が塩カツオだ。少し塩っ辛いが食が進む。


 他にも冬が旬の魚は多い。そんな中で注意を必要とするのが、土佐で『川』と呼ばれている魚だ。いわゆる河豚(ふぐ)のことで『フグに当たれば身の終わり』から『美濃・尾張』と変換され、美濃は東山道・尾張は東海道があっても、海へ行くには川を降るというのが由来だ。


 川には『三途の川』の意味も込められており、同じ意味で『北枕』とも呼ばれていたりする。そのように呼ばれるだけあって好んで食べる者はいない。内臓を傷つけないように取り出せば大丈夫だった気もするが、怖くて試す気になれずにいる。




 野菜は、朝から夕方までザルの上で日干しする。『半干し』状態となった野菜は甘みと旨みが増す上、火の通りがよくなるらしい。生活の知恵だな。大根も味噌汁に入れたり、その他に余った野菜は素揚げして野菜チップスを作ったが、味は悪くないどころかむしろ美味しい。


 昨年の秋頃、大友家より瓢箪(ひょうたん)のような形をした柑子色(こうじいろ)南瓜(かぼちゃ)とその種が送られてきた。届いた文には、以前より育てていた瓜が実ったのでお裾分けと一条家が豊後を発ったあとに南蛮船がやってきて、また種をもらったからそれを送るとの旨であった。


 晴英を大内家へ送っておいて何を言っているのかと腹立ったが、食料はありがたくもあり不本意ながら返書を(したた)めた。



 ヤム系の芋や里芋を蒸かして塩を振ったものがあり、芋類は数も多く皮むきが大変そうだったので小型の芋水車を作った。


 軸受けとなる筒へ軸を入れ、紐で吊るして川に浸す。水流を利用して回転させることで、水車の中に入れた芋同士が擦れあって次第に皮がむけていく。泥やむけた皮は水で洗い流されるため、三十分と掛からずツルツルになっている。今では、この水車が三十ほど作られ、ひとつの水車に十個の芋が入れられるため、一度に三百個の皮むきが出来る計算だ。



挿絵(By みてみん)



 春の七草や春菊などで日替わりの薬草がゆを作ったが、これは評判が良かった。


 一月十五日に宮中で行われる行事である七種粥(ななくさがゆ)は七草粥とは別物だ。春の七草は一月七日に行われる供若菜(わかなをくうず)に由来する。それは平安時代に伝わったもので『鶏・狗・羊・猪・牛・馬・人・穀』を元日から日ごとに食さない物を定め、七日目の人日(じんじつ)には若菜の(あつもの)を食した。醍醐天皇の時代には、それらの習慣は宮廷行事となり『枕草子』にも描かれるほど知られている。


 七草が今の七種になったのは、源氏物語の注釈書である『河海抄(かかいしょう)』にて『(せり)(なずな)御形(ごぎょう)繁縷(はこべら)仏座(ほとけのざ)(すずな)蘿葡(すずしろ)』と記されているからだろう。



 豆類も仕入れており、小豆は水と砂糖と一緒に煮て練り上げた物を牡丹餅や饅頭にしたり、大豆には栄養が豊富に含まれている。そのため、大豆をすり鉢で擦って砂糖と混ぜてきな粉として、水に浸した大豆をすり潰して手ぬぐいで濾せば豆乳として、搾りかすは『おから』として食べられる。


 また、豆腐や醤油・味噌にも使われるし、煎れば乾燥豆として長期保存が可能だ。これは、軽量で調理も不要であり手軽に食せるとあって、戦さでの食料に打って付けだ。早速、荷駄に加えよう。




 土佐で採れた蜜柑も配った。食べ終えたあとの皮は、干して陳皮にすれば色々と役に立つため取っておかなくてはならない。陳皮をすりつぶしたものをお茶に混ぜたりみそ汁に入れたりすれば変わった味わいにもなる。


 酒粕も買い入れ、水・塩で煮詰めた甘酒を作った。砂糖を入れていないため、甘い飲み物ではないが飲めなくもない。紫蘇(しそ)ジュースなんかも作ってみたが、やはり蜂蜜か砂糖を入れないと美味しくなかった。




 領民からは、新米の高い時期と同じ価格で米を買い入れた。本来であれば、新米の時期もしくは物価が安定している古米となってから売る者がほとんどだ。ゆえに、米問屋では古米が主に流通している。


 もちろん、問屋は新米も扱っているのだが民衆が古米を喜ぶため、新米が売れ残れば貯蔵して翌年に古米として売った。古米が喜ばれる理由は、新米と比べ米を炊いた際に大きく膨れるからだ。


 つまり、米粒の量が同じでも古米の方が炊き上がりの量が多く、味より量が好まれている。身分によっては古古米や古古古米を食している者もいるらしい。



 古古古米がありえるのか疑問に思い確認すれば、籾の状態で保存するため、一年程度ならば品質を保つことが可能なようだ。もちろん、古米となる直前くらいから味や風味は衰えていき古古古米に至っては何を食べているのか分からないようだが。とにかく数年は米として保存できるらしい。


 各民家では、その日食す分だけを杵と臼を使って脱穀し精米にして米を炊く。これこそが、唐箕や千石通しが不要な理由でもある。




 ■■■




 従三位へ越階する内示が届いた。

 こんなこと…… あっていい筈がない。

 十二月に越階したばかりで、まだ七ヵ月しか経っていないのに。



 あぁ、夢であって欲しい。

 いや、いつかはなりたいと思ったが一年足らずでとは言っていない。


 今思えば官職を賜ったのも、おかしかったのだ。

 正五位下に叙位されて官位相当の近衛少将に補任されることなどありえない。余程のことがない限りは官位より低い職司に就くのが通例だ。何しろ、官職に就きたい者が列を成している状態なのだから。逆に言えば近衛少将に就かせるために正五位下を直叙されたとも言える。



 内示のことを報せれば子供のように、はしゃぐ公家のオッサンども。あいつらは『ぼくのかんがえたさいきょうのくげ』に酔っているのだろう。どうすんだよ、オッサン連中が居なくなったら朝廷には味方してくれるやつが居なくなるじゃねーか。もし寄ってくるとしても、下心があるような輩だけ。


 公家ボッチ確定!

 あいつらは敵なのか?

 獅子身中の虫なのか?


 あーあ、公家終わった。

 これじゃ、苦行だわ。



 こうなったら、兼冬にすがって生きていくしかない。兼冬は見捨てないはず。俺に偏諱(かたいみな)を授けるくらいだもの。


 逆に逃げたくても、せ゛っった゛い゛逃がさないけどねぇぇええ゛!?




 これよりは、名字朝臣(なのりあそん)である『藤原兼定朝臣(のあそん)』から姓朝臣(かばねあそん)の『藤原朝臣(のあそん)』へと変わり、兼定の後には『卿』が付けられる。



 ここに『こども公卿・兼定卿』が誕生した。

 

 

一条兼良以来、これほど高位かつ短期間で越階をしたのが兼定です。数多くの公家が居並ぶ中で、とても異例のことでした。


フグはナゴヤ(美濃・尾張から)やキタマクラ(食べたら死ぬことから)、トミ(富くじから)などと色々な呼ばれ方をしますが、作中の『川』は創作となりますので、呼ばれてません。

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