61.五常 【図解あり】
長くなってしまったので流し読みで大丈夫かと思います。
もしくは後書きへ内容をまとめた一文を記載いたしますので、ご清覧頂ければ幸いです。
1552年 5月(天文二十一年 皐月)
生類憐みの令を制定した徳川綱吉が何を望んでいたのか、今なら分かる気がする。
恐らくは、あまねく民へ道徳を教えたかったのだろう。しかし、本質を理解されず複雑化した法は民を混乱させ、取り締まりだけが厳しくなってしまったのではないか。
なぜ、道徳を教えようとしたのか?
その答えは経書にある。
綱吉は令を発する前に、四書五経を学んだのだろう。そこで儒教の教えを知り、中でも『論語』と『礼記』に強く影響を受け政治の改正を行ったのだと思う。
では、儒教とは何か?
世を治め民を救うために、人が持つべき徳についての教えを孔子が体系化したものだ。書の中では、在るべき君子の姿について述べており、仁義と徳によって国を治めるべきとしている。
土佐一条家における嫡子は四書と併せて五経を網羅する十三経と、それらの注釈書である十三経注疏を手習いで修めることになっており、生類憐みの令で何が間違っていたのか理解できる。
過ちの一つめは、刑罰による統治を行おうとした点、二つめが基本的な道徳と仁心を育てるべきだったという点だ。
子曰わく。
『人民を導くのに法制を以ってし、人民を統治するのに刑罰を以ってすれば、人民は刑罰を免れようと法の目をかいくぐり恥じることはない。人民を導くのに道徳を以ってし、人民を統治するのに礼節を以ってすれば、人民は徳と礼節を知り悪事を行うは恥に思い、その身を正し善に至る』
ゆえに、政治を行うのに道徳をもってすれば上手く民衆を治められると説いている。
しかし、綱吉やときの幕府は令を乱発し人民の生活を法で制し、科す刑罰も重かった。これでは恐怖政治と何ら変わらず、民衆は反発し一揆の温床になりかねない。論語を学んでいても正道を歩むことができなかったのだ。
これは各大名の分国法にしても同様だ。公儀として戦国大名が領地を支配するためには、公平無私な検断を行うに足る規範となるべき法を定めねばならなかった。それによって、身分制度における不合理や村落間の協調、家臣の相互扶助などの健全性が保たれる。
分国法も数々あれど、そのほとんどが下人や百姓の逃散には厳しく、その身を束縛している。それこそが一条家の式条と大きく異なっている点であり、公家法と武家法の違いとも言える。
なぜ、生類憐みの令が悪法と言われているのか?
それは、人や犬・猫はもちろんのこと、虫に至るまで全ての衆生を保護すると謳ったからだ。
これは仏教の思想であり、その教えを取り入れているのは、どこぞの僧が入れ知恵でもしたのであろう。
儒教の教えに父母や年配者を労わりその言に逆らわずというものがある。儒教を学び道徳を広めんと法を定めたが、儒教を学んでいたがために悪法へと姿を変えてしまったのだ。
人の身分制度も変えることが出来ていない状態で、全てを救うなど傲慢だ。それでも多くを救いたいのであれば人が滅すべきと言えるが、それでは誰も納得すまい。
だからこそ僧は、太平の世を迎え増上慢となっていたのかもしれない。であれば、五千起去にも等しい愚かなことだ。
綱吉が悪く言われる理由として『生類憐みの令』の他に『忠臣蔵』の影響がある。忠臣蔵とは人形浄瑠璃のために赤穂事件を基にした創作物だ。21世紀であれば注意書きをしていたことだろう。
『この物語はフィクションであり、登場人物、団体名等は全て架空のものです』
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四書五経のひとつに易経がある。
これは伏羲が著した書で、陰陽道の根源となったものだ。
陰陽道の『陰陽五行思想』は『伏羲の陰陽思想』と『禹の五行思想』からなっている。伏羲が創案した八卦の原理を表した河図洛書の先天図、禹は土御門有尚が好きな禹歩や五芒星などが相当する。
易経では森羅万象を説いていた。
太極とは万物の根源であり、その性質は混沌あるいは無(無極)。されど何らかの兆候を孕んでいる状態だ。無極にして太極であり、五行に分類される万物全ては無極から生じて無極へと帰す。これが無極というものの本質であり、生死もまた然り。
『易に太極あり。これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず』
ゆえに聖人と天地とその徳を合し、日月とその明を合し、四時とその秩序を合し、鬼神とその吉凶を合す。君子たるはこれを修めて大業を成し、悖る者はおよそ人の上に立つべきではない小人である。従って、天の道を立つるを陰陽と言い、地の道を立つるを柔剛と言い、人の道を立つるを仁義と言う、これが天地人の三才である。また、始めを尋ね終りに返れば死生の理を『知る』ことができる。
易経を見るに君子は陰陽道に通じていなければならないが、それを家職としている者たちがいる。だからこそ、帝のお側には陰陽師がいて御助けしているのだ。一条家にも陰陽師が下向しており、これを大事にしたいと思う今日この頃。
また、仏教経典のひとつである維摩経にも似通った思想があった。生死と涅槃、創造と破壊、善と悪など相反しているように見えて、その実ひとつである、と。学べば学ぶほど全てが繋がっていく、これぞ真理なのかもしれない。
いつしか『維摩経義疏』にあるような不二法門に入ることができるだろうか?
…… とりあえず、座禅を組んで禅を知ることから始めよう。
『維摩の一黙、雷の如し』
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未だ嘗て、諸々の経書を真に理解し『智・仁・勇』の三徳を兼ねた者など存在し得たのだろうか?
答えは「存在した」だ。
『その誉れ世に高く、慕う臣と民の多きこと類を見ず』と謳われる、それがお父様だった。
もし、お父様が生きていたのならば、高潔なる君子として歴史に名を馳せていたことだろう。戦国時代は、偉大なる君子を失したのだ。
己の都合のみで物事を考え、浅はかにも暗殺などという行動をした愚かな者の手によって。徳高き者が死に、徳の何たるかを理解し得ぬ者が生き残る。これでは人に道徳が育まれることはなく、争いが無くならないのも道理だ。
ときに人は愚かな行いをするが、心と生活に余裕があれば他者に優しくすることもできる。領民の生活が豊かになり始めている今こそ、道徳を教える機会が訪れたように思う。
ただ、人の意識を抜本的に変革することは難しい。何年、何十年とかけていかなければ、真に変わることなどないのだ。『生類憐れみの令』の良い部分のみ令として発布し、まずは生まれた命に対する慈愛の心を育む。
この時代では人の命が軽すぎる。
周防や豊後に訪れた折に、民の暮らしぶりを目の当たりにしたことで認識を改めさせられた。捨て子が当たり前であり、助けようとする者もいない。赤子は岸辺や往来に放置され、犬に食べられてしまったり牛や馬などの家畜に踏み殺されたりと、それらは日常的に起きている。
たとえ妊婦であろうと日々の仕事はこなさなければならず、堕胎を誘引する薬湯を飲んだりすることも多いらしい。生まれた子らは腹掛け一枚を着ているのみで、ほぼ半裸の状態で育てられる。よほど高位の家でなければ愛情を注がれることも稀だろう。
それでなくとも、衛生環境や医療水準が低いため乳幼児の死亡率は高く、成人を迎えるのは三・四割くらいかと思う。
生まれ出づる子らは一条家にて養うことにしよう。それには、道徳も必要であるが申し出た者に利がなければならない。
子を産み一条家へ届ける者には銭を、それから一年のあいだ母乳を与える者には三食と銭を日毎に支給する。母乳が出る者や世話をする者も雇い、汚れ物や掃除などは、申し訳ないが下人に行ってもらおう。分業にすれば少なからず申し出てくれるのではないかと期待している。
俺は聖人になるつもりもないし、この身分制度を覆すことが出来るとも思っていない。そんなことをすれば一条家に従う者など居なくなる。
身分制度を廃すには、太平の世を迎え生活に不安がなくなり、文明が発展した後にようやく行える。誰でも『汚い・臭い・危険』な仕事を行いたくないからこそ生まれた社会制度なのだから。
だからこそ、今から道徳心を育むのだ。せめて、下人に対して非道な振る舞いをする輩が居なくなるように。少しでも、衣食住の生活環境が改善するように。
果たして、家臣や領民を護ることが俺にできるだろうか?
もし、お父様を超えたと言わしめるには三徳では足りない。『仁・義・礼・智・信』の五常を兼ね備えねば。人を思いやり、利欲にとらわれず、礼を尽くし、道理を弁え、言明を違えないようにする。
『任重くして道遠し』
だが、やるしかない。
やらねば滅亡するのが分かっているのだ。
戦国大名の生滅さえも両儀であるのなら、一条家興隆の大業をなさん。
まとめると『兼定が仁義と徳によって、四角い領地をまぁるく治めまっせ』です。
徳川綱吉や赤穂義士がお好きな方には申し訳ありません。話の都合上、良くない内容で引き合いに出させて頂いております。




