59.禁書
1552年 3月(天文二十一年 弥生)
古来より医薬に関する学問として本草学がある。植物や鉱物を薬として服用するための調合方法や効能も解説書として纏められていた。
それらの基となっている『神農本草経』から始まり、『開宝本草・経史証類大観本草・政和新修経史証類備用本草・本草衍義・紹興校定経史証類備急本草』などが日本へと伝わり『本草和名・医心方・大同類聚方』として著されている。
平安時代より宮中の典薬寮にて、薬草の研究が弛むことなく続けられてきた。その中には蘆薈と呼ばれるアロエ、黄瓜と呼ばれるキュウリなども効能が確認され、本草書に書き留められている。
しかし、それは帝のための書物であり、例え公達と云えども触れることも許されない、言わば禁書である。ゆえに、人目に触れることはないのだが、そこは五摂家の一条家であるからには、もちろん写本を頂いている。これらに記載がなければ草の葉だけで品種を判別することは容易ではなかったかもしれない。
本草書にて学ぶまで気がつかなかったが、よくよく見れば中村御所内の森山には人の手で薬草が植生されていた。一条家では典薬寮にあたる役目を担っている者がおり、必要に応じて森山へ入って薬草採取をしているようだ。
先ず作るのは、化粧水からだ。
一条家の女性たちは、明より伝わったヘチマ水を塗っている。ヘチマ水は花の露とも呼ばれ、地上より一、二尺のところで蔓を切り、先を陶器へ差し込み一晩待つ。すると陶器にはヘチマ水が溜まっており、濾過して煮沸させれば完成だ。中秋の名月に採取したものは美人になると実しやかに囁かれている。
しかし、夏から秋にかけてしか採取できないのが難点だ。そこで、春は酒粕、夏はアロエ、秋がキュウリで冬はみかんと季節毎のものに加え、一年を通して漢方薬を原料とする。
未熟なまま食べる現代のキュウリとは違い、この時代の黄瓜は黄色く熟してから食されている。緑のままでは苦すぎて食べられず熟すのを待つのだが、熟しすぎるとまた苦味が増していく。丁度良い頃合を計って食べる青果なのだ。美容に関しては熟す前の緑の状態で使用するから問題はないのか。
それらと、はちみつ・精製水・エタノールを混ぜれば化粧水ができる。あとは肌にべたつきが残らずにしっとりとする分量を模索すればいい。
化粧水は防腐剤が入っていないので、陶器に入れてからは早めに使いきるのが望ましい。
次に作るのは顔パック。
調合する物は、酒粕・抹茶・黄瓜・卵のいずれかと精製水、はちみつにオイルを少し混ぜてから塗る。
寝る前に、豚の蹄を米のとぎ汁でとろみが付くまで煮詰めた溶液を塗り、朝になったら洗い落とすというものも明より伝わっている。これは豚の蹄に含まれるコラーゲンの作用によるものかと思うが、なんだか肌に悪そうだ。やっているのはお母様くらいだが。
続いて、クレンジングと洗顔。
顔を洗う物としてクレンジング料と洗顔料があるが、同じように思えて機能は異なる。クレンジング料は化粧に含まれる密着性の高い成分を除去するためのもので、洗顔料は肌本来の皮脂や古い角質などを洗い落とすためのものだ。
クレンジングとして、蓬などの薬草を乾燥させて精製水とはちみつを混ぜたものや、米ぬか・はちみつ・粉末状の小豆を混ぜたものがある。
洗顔料は、米のとぎ汁で顔を洗う。
現代と違い精米技術が発達していないため、米を研げば白濁した水の中に米ぬか成分が豊富に含まれている。米ぬかを絹で包み、ぬるま湯へ溶かしてもいいだろう。
クレンジングと洗顔の両方に使えるものとして塩がある。手の平でぬるま湯に塩を溶かしざらつきが多少残る程度になったら顔をやさしく撫でていく。
この時代では塩も容易に入手できるわけではないが、一条家では贅沢に使える。
古くからの習慣で夜も化粧を落とさない者もいるため、肌荒れ対策が必要だ。就寝前には洗顔するがにきびや吹き出物があれば、熱湯消毒したアロエの果肉と大根をすりおろしたものを少量混ぜて患部へしばらくあてれば良い。
化粧筆も、筆職人に頼みできる限り用意した。白粉をまぶす刷毛をヤギ・狸で、紅筆をイタチ、洗顔筆は馬の毛で作られている。
ついでに、歯ブラシも作ってもらった。筆職人のなかでも刷毛を専門にしている者が手掛けており、厳密にいえば柄に対して垂直に毛がでるような物は刷毛に当たるらしい。
それらの道具を入れる化粧箱は、全体を艶のある黒漆で塗られ金の蒔絵が施されている。描かれている意匠は、源氏物語における桐壺から夢浮橋までの五十四帖にちなんだものだ。
もちろん、序列があるので人気のある帖のものを選べるとは限らない。そのため、五十四帖の内で人気がない帖半分の意匠には螺鈿の細工を付け加えている。豪華さで言えば人気のない方となるため、必ずしもそちらを選ぶのがいいとも限らず、悩みどころだろう。これで、選ぶのも楽しみの一つとなればいい。
あとは、リップクリームとハンドクリーム。
リップクリームの材料は蜜蝋に植物油・艶紅・香木や青果から抽出した精油も少しいれて湯煎で溶かしつつ混ぜる。それを漆器製の紅入れへ注いで固まればできる。夜用には艶紅を入れないものを作る。これらは指で唇へ塗りこむため、少し軟らかい方が紅入れから掬いやすいだろう。
紅を引く前に、唇の血行促進として、『う』を発音する形で突き出してから口を閉じて口角を横に引き伸ばすことを繰り返す。もしくは、口を閉じた状態で上と下の歯の隙間に上下の唇を巻き込むように吸い、甘噛みして刺激することで血色が良くなる。
ハンドクリームも同じく艶紅以外の材料を混ぜて固めればできる。リップクリームよりも軟らかくするため、油を多めに入れればよい。
白粉は、パウダー・リキッド・ケーキタイプの三種類を準備する。パウダータイプの粉白粉は、黄烏瓜の塊根から採取した白い粉末と、すり鉢で擦って絹製のふるいにかけた白雲母の微粉を調合する。
リキッドタイプの水白粉は、化粧水に粉白粉を溶かしたもの。最後にケーキタイプの練り白粉は、油に粉白粉を練ったもの。広がりやすくするために化粧水を加えてから塗る。
白粉に雲母を配合するのは、表面の滑らかさや化粧の伸び、ツヤ感を出すためだ。
この時代でも採掘されて雲母と名付けられているが、螺鈿の虹色光沢と同じような真珠光沢をもつ白雲母は『きらら』、白粉は『はくふん』とも呼ばれている。
肌色などの顔料はこれから改良していけばいい。
売り出すときには、季節ごとに新色の白粉を発売する。皆がこぞって土佐まで買い求めに来るだろう。
その他に、ハトムギエキスは皮膚に塗布すれば保湿作用・美白作用があり、海藻エキスやにがりにはミネラルが豊富に含まれている。にがりは洗顔料などに微量混ぜるだけで十分効果がある。
直接作用する美容成分としては、鶏冠からヒアルロン酸、すっぽんからコラーゲンが採取できる。馬油もそうだが、美容の為だけに捕殺する事がないように素材は黙っているつもりだ。
女性が華やかになることで、御所の雰囲気も明るくなればいいのだがな。
されど、綺羅を着飾った女性には気をつけねばなるまい。
およそ、たおやかな花には棘があるものだから。




