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58.欲 【図解あり】

 


1552年 3月(天文二十一年 弥生)



 五経のひとつである礼記(らいき)四十九篇には、人が元来持つ七情は『喜・怒・哀・()・愛・悪・欲』と記している。


 仏教の七情では『懼』が『楽』とされており、こちらの方が聞き覚えがあるものの、(もと)を正せば同じであろう。その内の『欲』には『色・声・香・味・触』の五境(ごきょう)に対する五つの欲があり、十悪という人の罪悪について説いている。



 また、天台宗僧侶である湛然(たんねん)が残した注釈書『摩訶止観(まかしかん)輔行弘決(ぶぎょうぐけつ)』の一節には、このようなことが書かれていた。


 生きとし生けるものは三界において輪廻を繰り返す。その内の欲界を抜け色界へと昇華し、(ことわり)(わきま)え十善を修したならば、四禅さらには無色界を過ぎ(つい)には有頂天へと至れり、と。



 だが同時に、食欲や性欲から離れ純粋で清らかとされる色界ですら物欲はあるともしている。善行を重ねるは容易ならざる仕儀にて、衆生のいかに善なるものであろうとも抗い難く、本能に従い千姿万態な妄想をしてしまうのも無理からぬことだ。(こと)に心身共が未熟であろう男子高校生にとって、ひとつの欲のみ膨らむのも致し方ない。


 詰まるところが、人には多くの欲があり耐えること自体が苦行となる。しかしながら、ときにその限度を知らぬ欲望は途轍もない原動力となり人を突き動かす。思うに、人類に欲があったればこそ文明は絶えず発展してきたとも言えるのではなかろうか。無益に苦しみ虚ろな心労を重ねることを必要とせず、ただその欲望へと身を任せ直向(ひたむき)に突き進む。


 であれば、罪というものは個々の行動にこそ現れるものであり、善行を重ねるにも苦痛を伴う忍耐ばかりではないのかもしれない。





 これは、とある男子高校生の話。


 その者、近所に遊び友達がおらず、異性と話すのも苦手としておった。話をしようとするだけで顔が赤くなり言葉がつっかえてしまう。だからまともに人と会話も出来なかった。だが、思春期の健全たる岡崎の体躯(たいく)は人並みの妄想や願望などもあるがため、女性に恋焦がれ悶々(もんもん)としてしまう。そんな性格だった。ちなみに岡崎は『とある男子高校生』の苗字だ。



 しかし、あるときにテレビを見て天啓が閃く。


『メイクアップアーティストになればいいのでは?』


 密接していても痴漢扱いされず、且つ女性に触れても事案にならないという素晴らしき発想だ、と、信じて疑わなかった。



 生来の生真面目さゆえか、その日から一心不乱に打ち込み始める。五境における『味』を除いた四つを満すことが出来る、その夢。その欲望がもたらす行動力といったら、空恐ろしい。


 まず、動画や資料を漁って猛勉強をし、閉店間際の百均へ行きメイク道具を一揃え買い入れた。並んだのは、もちろん男性店員のレジだ。


 自分で自分にメイクをして、研究に(いそ)しむ日々。

 化粧を施しマ二キュアを塗り、ウィッグを着けて女装したりと、あらぬ方向へ突き進む始末。女装趣味があったわけではないが、ありとあらゆるものを学び吸収していった。


 果ては手作り化粧品に手を出し始める。家族は腫れ物に触れるかのごとく接していたが、当人は気がつかない。全ては、若さゆえの過ちであろう。認めたくはないが。



 人生、何が役に立つかなど分からないものだ。何かに打ち込み突き詰めた経験は、いつか必ず活きるときが訪れる。無駄な経験など、一つとしてありはしない。()()となった高校生は、今それを実感している。





 ということで、麿は化粧品を造ろうと思う。



 大内家の菩提寺は曹洞宗だった。

 そこで、土佐にある曹洞宗の僧へ頼み、義隆を弔うための仮葬がしめやかに執り行われた。少数での仮葬となったのは、義隆の御子であり跡継ぎと成り得る亀鶴丸が周防にいる以上、向こうの立場を考慮し一条家が大々的に行うわけにはいかなかったからだ。


 未だ、大内家に縁ある者たちは、見ていて痛々しいほどに塞ぎ込んでいる。難しいとしても、新たな化粧道具が少しは気慰みになればいいのだが。



 化粧品とは基礎化粧品とメーキャップ化粧品に大別される。基礎化粧品は口紅・眉墨や洗顔料・化粧水といった肌の健やかさを保つもので、メーキャップ化粧品は肌荒れやしわなどを隠し肌に色を与える。今はメーキャップ化粧品ではなく基礎化粧品を主に考えている。




 化粧品作りに必要な材料は、精製水・油・エタノール・蜂蜜・蜜蝋などだ。あとは青果や生花、精製化した漢方や薬草など作りたい成果物によって適した材料を調合すれば完成か。


 精製水は井戸水を入れた淡水化装置を晴天下へ放置すればできる。同じ要領で、水と香木・薬草を入れて蒸留したものの上澄みが精油になり、残った水溶液は芳香蒸留水となる。



挿絵(By みてみん)



 植物油は二年前に搾油機が出来てから、様々な油を作ってきた。今では搾油機の数を三台にまで増やしている。



 油も取り揃えた。

 栄養が豊富な、大豆油。

 保湿力が高い、菜種油。

 手や首の他、顔にも使える、椿油。

 皮膚疾患でも使用可能な、亜麻仁油。

 火傷や肌・手荒れの治療にも良い、馬油。

 抗酸化作用が高く老化防止も期待できる、ごま油。

 神経細胞に作用し活性化することで細胞の若返り効果がある、米油。



 エタノールは濁酒(にごりざけ)を淡水化装置で蒸留したが、温度管理などの手間が掛かり寝る間を惜しんで苦労を重ねること延べ百二十日、ようやく度数の高いアルコールが完成した。上手くいった要因として、火ではなく太陽光で熱して蒸留させるため、温度の調整がし易かったのではないだろうか。作り上げた家臣へ褒美を渡したが、完成させたことを誇ってほしいと思う。




 山の民である山家(やまが)が猟の傍らで養蜂をしている。毎年、税として納められる毛皮の他に蜂蜜と蜜蝋もあり、買い取ることもしばしばであった。蜜蝋は美容製品の他、石鹸や革製品の手入れにも使える。


 養蜂には適した場所があるようで、その技術や知識は山家の秘するところだ。思いつくのは、日当たりや風通しが良く水辺付近といったところか。


 巣箱について少し聞くことができたが、ミツバチは木の洞に巣を造る習性があり、巣箱は杉の丸太をくり抜いて作っているらしい。巣門の回りは木皮を剥ぎ、全体に煤をまぶすことで人や鉄の匂いを消して、上には天板を取り付けてある。巣箱には蜜蝋を塗って、ミツバチを引き寄せる金稜辺(きんりょうへん)と呼ばれる花を近くに置くと良いらしい。


 それこそ秘密にした方がいいのではないかと思うことを教わったが、それだけで真似ができるほど養蜂は甘くないということかもしれない。



 土佐で取れる作物にみかんとアロエがある。

 アロエは鎌倉時代に渡来してより、土佐の沿岸沿いに自生していた。


 それに、柚子やみかんの産地でもある。

 みかんにはビタミンが豊富で、冷え・くすみ・むくみ・血圧改善や壊血病にも効果がある。みかんの皮は乾燥させれば陳皮と呼ばれる漢方薬にもなり、お米と並び副産物の用途が多岐に渡る。




 一番の問題となるのは白粉(おしろい)だ。

 化粧品の歴史を調べたときに、昭和まで白粉には鉛が使われていたとあった。含有する鉛の毒性により中毒症状を引き起こし、最悪の場合は死に至ることも。美人薄命の語源でもある『佳人薄命』と古来より言われてきたが、鉛中毒による健康被害が少なくないような気がする。化粧を施している公家にも短命の者が多いのは同じ理由なのではないだろうか?


 長命の女性は総じて、若くして落飾している傾向にある。乳母や侍女らはしっかりと化粧をしているが、お祖母様やお母様は落飾してからうっすらと化粧をするのと同様に。



 鉛を含有する白粉に代わる原料として、滑石(かっせき)黄烏瓜(きからすうり)がある。滑石は白く光沢をもつ見た目でよく勾玉(まがたま)に使われてきた。土佐でも採掘可能な山や川辺は知られている。


 黄烏瓜も雑草として道端に生息していて、手の平に収まる大きさの実をつける。塊根(かいこん)栝楼根(かろこん)とも呼ばれ、解熱作用がある生薬だ。


 以前に作ったうろこ引きで、黄烏瓜の塊根をすりおろしたものを、手ぬぐいで包み桶の水へと浸す。白く濁った汁が出なくなるまで、水の中で振って・揉んで・絞るを繰り返したら半刻ほど放置する。水に溶かした澱粉(でんぷん)は沈殿するため、静かに上澄みを捨てれば底に溜まっている。


 再度、精製水を入れかき混ぜてから放置して上澄みを除くまで繰り返すこと三度。採取した粉を大皿へ移し、広げて乾燥させれば白粉の原料が出来上がる。



 滑石はやすりで削って微粉にして、絹製のふるいにかければ原料となるため、滑石の方が容易に出来るかもしれない。だが、勾玉などの装飾品に使いたいので黄烏瓜を白粉用に加工しようと思う。





 昨日今日と続いている曇天を見上げて思う。

 一条と大内の行くすゑが、開雲見日たらんと欲す。


 

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