56.官位
宣旨と御綸旨の内容を修正いたしました。
1552年 1月(天文二十一年 睦月)
公家の入江左近が厳かな室礼の中、淀むことなくしっかりとした足取りで文櫃を運んでいる。華足付きの高台を頭上へ掲げているが、台に乗せられた櫃は一切揺らぐことはない。
高台と文櫃は、全体を艶のある黒漆で塗られ、相対的に施された金の蒔絵と螺鈿がより際立ち、絢爛で美しい粧いとなっている。
上座に鎮座する勅使の御前まで台を運び置き、恭しく櫃を大きく掲げた後に台から降ろす。中には、お主の勅が二札と三巻の巻物が納められおり、それらをひとつひとつ取り出し掲げては台へと並べていく。
下座には、房通と俺を筆頭とした家臣一同が控えている。勅使は並べられた勅の一札を持ち、ひと折づつ広げていく。
それを受け、下座に控えている者は皆が揃って頭を下げた。
これより宣旨と御綸旨を受け賜る。
「『正五位下藤原朝臣兼定。二品行式部卿邦輔親王宣る。勅を奉るに、除目等の雑事、宜しく左近衛少将をして国司に准ひ、儀之を行はしむべしと者。天文二十年十一月二十八日、大外記奉る。天気候うの所なり』 言上件の如し 」
読み上げると、宣旨を見えるようにこちらへ向け前に掲げた。我らが深く頭を下げると勅使は折りたたみ、次いで御綸旨を広げ読み始めていく。
「『従四位上行左近衛少将藤原兼定朝臣。住国並びに隣国に於いて敵心を挿し挟む輩、治罰せらるるところなり。威名を子孫に伝へ勇徳を万代に施し、弥 勝ちを千里に決し、宜しく忠を一朝に尽くすべきの於。兼定に下知せしめ給ふべきと者。天気此くの如し』 之を悉せ、以って状す」
読み終えれば、先と同じく見えるよう前へ掲げ、こちらもまた頭を下げて押し戴いた。三巻の巻物にはそれぞれ『御所号・禁色・昇殿』を聴す旨が記されている。
ここで最も重要なことは、この治罰綸旨によって一条家は隣国へ侵攻する大義名分を得たということ。
帝の近衛となったからには、お墨付きをもらったようなものだ。ともすれば、一条家に敵対するということは朝敵ということにも成りかねない。
通常、公家の位階は蔭位制に従って叙される。お父様は従三位の非参議であったので、嫡子は従六位上より低い位階となる。
だが、正五位下へ直叙され元服したことで従四位上に越階した。この位階への直叙というのは異例なことだ。賜った正五位下は親王の嫡子より下、諸王の嫡子よりは上の位になる。言い換えれば、嫡子という立場にいる者の中で俺よりも上の位階を直叙される御人は次の帝と親王だけなのだ。早くも次世代における公家カーストの最上位に達したと言っても過言ではない。
摂関家の当主が急逝して嫡子が名跡を継ぐための位階でも、叙されるのは高くて従五位下までだろう。ひょっとすると、元服と合わせれば正五位下の直叙もありえるのかもしれないけど。
更に、越階したのが従四位下ではなく従四位上というのも異例だ。これは、ひと月という短期間であることから直叙のときには決まっていたはず。
だとすれば、それらは一条家の力だけでは成し得ない。おそらく二条家も動いたのだろう、それと親王家も。
結果的ではあるが、現関白である二条晴良の父と弟を土佐で保護したことへの返礼といったところか。加えて、お祖母様の実家である伏見宮親王家は文官の選叙を統括する式部卿へと代々補任されている。現在の式部卿は、伏見宮邦輔親王で俺の伯父にあたる人だ。
近衛家と九条家はさすがに動かないと思うが、裏で手回しされて了承したのかもしれない。
当然、配慮してくれた伏見宮親王家を始めとして数多の公家に御礼をしなければならない。公家社会では一度でもお礼をし損なえば二度と相手にされなくなる。誰がどの程度まで尽力したか、どれほど譲ってくれたのかを正確に見極め適当な謝礼をする。謝礼が多ければ侮られ、少なければ見限られてしまう。
だからこそ、家令が裏で事細かに調べて吟味した上で謝礼を出す。つまり、己のみで決めれば必ず不備が生じ公家の出世街道から外れていく。ひとりでは難しいとなれば、自ずと大家の庇護を求めざるを得ない。
そうして上にいる者がより大きな力を得る仕組みとなっている。いつの時代も縁故と権力ある者が上へと昇っていく。
あな、恐ろし。
これまでは御所様と呼ばれると心苦しく思っていた。しかしながら、御所号を聴されたからには誰憚ることなく使える。それに、近衛少将は近衛次将とも言われており、公卿への昇進が約束された超エリートなのだ。
いくら何でも従四位上からすぐに越階することは無いだろうが、いずれお父様と同じ官位である従三位になれれば嬉しい。
お母様の喜ぶ姿が目に浮かぶ、大騒ぎだろうな。
今でもキャーキャー言ってるけど。
あれが親心というやつなのかもしれない。
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皆が年明けを喜ぶと共に、お礼の文が届いた。
公家や女性は筆まめだな。
例年より遥かに多いのは周防から避難してきた公家連中の影響だ。
小槻と持明院の正室や子から始まり、
三条家の三条実香、伏見宮貞敦親王と正室の藤原香子、細川晴信の正室、武田晴信の継室、本願寺顕如の許嫁。
二条家からは、二条尹房の正室経子、現関白の二条晴良、貞敦親王の娘であり晴良正室の位子女王、九条稙通。
一条家は、一条兼冬とその正室保子。
広橋兼秀とその正室に加えて、権典侍である国子。
それから帝からも届いた。代筆なのだろうが、私的な文を賜るなど滅多にあるものではない。
届いた文で納得したこともある。
それは、俺の官位を賜るのに九条も動いていたということ。一条家と九条家は嫡流をめぐって対立していた為、当主同士は基本的に仲が悪い。だが、九条家の次期当主は二条家より養子に入った九条稙通であり、そことはわだかまりがない。
鷹司家の当主は急逝し先代は高齢のため、長らく床に伏している。事実上、動かなかったのは近衛家だけだろう。配慮したのであれば文を送り示唆するはずだからな。
五摂家において鷹司家を除く四家の内、三家が動けば誰も抗いようがない。やりたい放題やった結果が、異例の越階だったのだ。
これは不味い。
他の公家から妬み・嫉みを受けること必至。
こういう小さなことが、いじめに発展しちゃうかもしれない。卑しくも摂関家に名を連ねているのだから、大丈夫だとは思いたいが。
しかし、用心に越したことはない。
公家が詠んだ和歌集の横書きで悪口を残すことも考えられる。『か・ね・さ・だ・あ・ほ・う』とか、ありそうで怖い。今後は、編纂された和歌集を全て確認していく必要があるだろう。
文を届ける使者として来たのは、三条西実澄だった。兼良とも親交があった三条西実隆の孫に当たる人物だ。
正直、嬉しい。
実隆のことで聞きたいことが沢山ある。
一通りの挨拶を済ませると、突如として実澄が長嘆息をつく。なんでも銭が足りず皇居の修理を進められずにいるとか。婉曲的な言い方ではあるが修理費用を催促された。
妙に得心がいった。
道理で三条西ほどの人物が文を預かってきた訳だ。
元よりそのつもりであったため、銭を献上することは吝かじゃない。
「では、土佐一条家より一万貫を献上いたしまする」
「何と、何と、ほっほっほ! 朝廷に対するその御心は嬉しゅうありましゃるが、真のところを知りとうございますぅ」
「真のところとは?」
「有り体に申さば、如何ほど献上なさるおつもりかぁ?」
「先にも告げた一万貫にございまする」
…… 無言?
足りないはずがない。
公達から烏滸の沙汰と噂されかねぬほどだ。
ふと見れば、房通がゆでダコのように顔を赤く染めている。
こちらは、激おこだった。
家臣らは瞠目結舌といった様子で、声を出さない。
それも無理はないか。
円に換算すれば、十億から十五億くらいの価値なのだから。
やはり、皆が必死な思いで貯めた銭を安易に献上しようとするのは不味かったか。でも、どうせ使うのであれば人が驚くほどの額でなければ意味がない…… と、何かで見た気がする。
「都と違い、土佐は山の緑深く灘に囲まれた閑やかなるところでおじやるゆえ、虎将様が疎いのも無理からぬことぉ。そうではありましゃるが、畏くもお主へ奉るおたからは、鐚なお銭や明のお銭が混じやるようでは困りますぞぇ」
今呼ばれた虎将とは、近衛少将の唐名である虎賁中郎将の略称だ。官職は和名か唐名の言いやすい方で呼ばれ、ときには略されることもある。
それにしても、任じられたばかりの役職を知っている点は、さすがというべきか。
だが、子供の戯言と決め付けさぞ面倒くさそうに述べたあげくに、田舎者と馬鹿にするとは。
金を募りに来て、その態度はないのではなかろうか。
あーあ、房通の顔に不機嫌さが滲みでるほど怒りに油を注いだな。
あまりいい人柄とは言えない。
色々、語らいたかったが諦めるしかなさそうだ。
公家の嫌味には同じく嫌味で返さねばなるまいて。
「鐚なお銭や明のお銭なるものがござりますのか。一条では宋のお銭しか扱っておらぬゆえ存じ上げませぬが、全て宋のお銭となるは心苦しくもありましゃるぅ。明くる年の献上には世にも珍しきそれらの銭を揃えておきましょう。されど、此度だけは許されたく、一万貫に加えて二千貫をお納め致しとう存じまするぅ。これなるは田舎者ゆえ、畏み畏み願い申し上げまするぅ」
嫌味を返すというか、言葉を選ばずにはっきりと言ってやった。ついでに口調も少し真似て。
もちろん一条家の蔵には鐚銭や明銭もある。
鐚銭の割合は一割で、明銭が三割、宋銭が六割くらいだ。現状、一条家の貯えは二、三十万貫くらいだったと思う。これは勘合貿易によるところが大きく、大部分はお祖父様とお父様の代で貯めたものだ。
それ以前の代までに財を注ぎ灌漑を整備したという土台があってこそ成し得たものであり、改めて歴代当主たちの偉大さを痛感する。
気づけば、三条西の顔から表情が抜け落ち只只こちらを見澄ましていた。土佐一条家を推し量っているのかもしれない。
だが、よく見れば手元の檜扇が震えている。
強く握りしめているのだろう、腹を立てている証だ。
まぁ、気分を害したかもしれないが、こちらは子供だから最後には許してくれるはずだ。…… たぶん。これ以上嫌味を言われるのも面倒だし、早めに追い返そう。
「かような遠きところまでお運びのこと、ありがとう存じまする。ご機嫌麗しゅうに」
「っ…… ! 」
三条西が顔を引きつらせた。
房通もあきれて口を挟む。
「虎将、それではあまりにおきもじやな。こうして文を持っておぢやったのだ。おみやを渡さねばならぬであろう」
「そうでしたな。亜相様がお入用とあらば」
「…… ありがたく、もろうときますぅ」
見るからに檜扇のプルプルが激しくなっていた。
謝礼として渡す銭は281疋にして、添えた紙へ『あらず』とだけ認める。
つまりは戯言で『冗談だよ。本当は憎くないよ、ごめんね』という言葉遊びだ。
人によっては逆効果かもしれないが。
『二 八十一 あらず』
宣旨に『天気』に関する記述があるか無いかで意味合いが大きく変わります。記述があるものは帝の意によって発するものとなり、その威力は絶大です。無いものは公家が申請したものを朝廷や公卿が検めて認められたものですので、家格が低い家は根回しなどがそれは大変だったことと推測されます。
8世紀頃に成立した万葉集には戯書として八十一を「くく」と読んでいる記述があります。これは九九のことで9×9の答えが81になることから「くく」の読みを当てた言葉遊びです。
他には二二で「し」や、二五で「とを」などもあります。 昔の九九は9×9から始まっていたため、その名残で今でも九九と呼ばれているようです。




