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2.鏡

 


 目を開けると、四方(よも)の柱へ垂れ下がる幕は絹特有の光沢があり、柔らかいことが見て取れる。敷かれた畳の上で仰向けとなって、打ち掛けの着物が胸にかけられ体を覆っている。


 部屋には誰もいないのか、しんと静まり返り幕のすき間からは障子戸のみが見えていた。そのままぼうっとしていると、すっと戸が開き、侍女を連れた『おたたさま』が部屋へと入ってきた。


 上体を起こした姿に気がついたおたたさまは、たたたっと勢い込んで倒れるように膝をつき、壊れ易いものを扱うような慎重さで、小さなからだを優しく抱きしめた。



「あぁぁ、目を覚ましてくれたんか…… ほんに良かった」



 黒々とした艶のある髪が顔にかかる。すると、ぽたりと滴が頬へと落ちた。右手は胸に左手は頭を抱きかかえられ、動かせないながらも身動ぎしてほんの少し目を上へと向ければ、それは母が流す安堵の泪であった。


 泣くほどに心配していたのかと、抱きしめる手に自らの手を重ねて、目を閉じた。母の慈愛は気恥ずかしくも嫌な気はしない。それどころか、心配をかけた申し訳なさと嬉しさとが交互に湧き上がり、ほんのりと心が暖かくなっていく。



「ほっとしました。そなたが気を失うてしもうて、ほんに心が潰れてしまうかと…… 大事は無いんかえ?」

「はい、何とも」

「二日も寝ておったのだ、無理をしてはいけませぬ…… こなたが二度と目を開けぬのではないかと…… 変われるものなら変わってやりたいと、そればかり願うておりました」



 袖で涙を拭っている、お(たた)さまを見て、今の記憶にある通り、やはり母なのだなと改めて感じる。どこか他人のような、さりとて母との認識が無いわけではなく、むしろ慕う気持ちが次から次へと溢れてくる。


 前世と今世の記憶が入り混じったからなのだろうが、自分が自分でないような、何とも言えない複雑な思いだ。



「気分は悪くありませぬか? まだ、お体が優れぬのではないのですか?」

「何ともありませぬ、お母さま」

「はぁぁ…… さようか、さようか」



 うんうんと二度ほど頷いて見せれば、それを見てまた抱き寄せては身体をさすり、袖で泪を拭う。



「まつ、医者(さじ)を呼んで参れ」

「只今、呼んで参ります」



 まつと呼ばれた侍女が部屋から出て行く。それから少しすると、廊下を急いで歩く足音が聞こえた。戸が勢いよく開き、部屋へ入ってきたのは、お(たう)さまだった。



「万千代丸、もう起きても良いんか?」

「はい、ご面倒をおかけしました」



 その言葉に、一呼吸のあいだ唖然としていたものの、すぐ様うんうんと言いつつ頷いたのを見て、はっとする。


 その素振りが先ほどの自分と全く同じものであったのだ。あぁ、やはり父親なのだなと、胸にすとんと落ちるものがあり、血のつながりを頭ではなく心で理解できた。


 きりっとした眉に大きな瞳、鼻筋が通った凛々しい顔つきで、年のころは二十三、四と若くありながらも落ち着いた雰囲気で人を惹きつける『何か』を持つ男。それが一条房基、父であった。


 代々が公卿となる家柄で親王家の娘を母に持ち、知勇の将として名を馳せている。房基に忠誠を誓う家臣達は皆が一体となり、その大きな力は他の家を圧倒するほどであった。



「なれど、まだ無理をしてはいかぬからの」

「はい」




 しばらく話してから、父と母が出て行った。

 それと、入れ替わるように、お祖母さまが入ってきた。女童の二人も一緒だ。



「若御所様、気ぃつかれたんやな」



『お祖母さま』と言うには若々しい見た目で、房基とどことなく似ている。二十代半ばくらいかと思ったのだが、もし十五で嫁いだとしても三十は超えていないと計算が合わない。



「今し方、目が覚めたところで」

「何や、大事あらへんみたいでほんに安心しました」



 これほど美しい女性に心配されることなど前世であっただろうかと、嬉し恥ずかしで己の顔が熱くなっていくのを感じていた。


 色めいて落ち着かず、辺りを見回していれば御帳台の中に鈍く光るものが目についた。表面が磨かれた銅鏡だった。


 はっきりと顔を思い出すことができない。いま一度、確かめてみるべきだろう。



「お祖母さま、鏡を見ても良うございますか?」

「ええ、構いませぬ。綾、御鏡を取っとぉおくれ」



 そう言うと、綾と呼ばれた女童(めのわらわ)が掛けられていた八稜鏡(はちりょうきょう)を外し、木で出来た鏡台へ置く。



「覗いてみやれ」



 お祖母様に促され覗き込むと、そこには、父と母いずれの面影をも残した顔があった。子供でありながらも、涼しげで凛とした顔が。


 一条家の血筋は美形が多いと言われているのは、近親の三人がそれにあたるからだ。つまり、その血を引いているお陰で恵まれた容姿であることは当然なのかもしれない。


 どちらにしても、人は本能的に子供を可愛く映すものであるし、成長していくに連れてどうなるかは知る由もない。




 ◾️◾️◾️




 部屋には乳母であるお菊と侍女のまつが残るのみであった。



「お菊、今の暦を教えて給れ」

「…… 五の月上旬にございます」

「何年になる?」

「天文の十六になってございます…… 」



 菊も訝しんでいる。

 が、わからぬわけではない。

 倒れる前までは、年相応の幼子といった振る舞いであったにも関わらず、気がついたら暦を気にするなどということ自体、不審にも思うだろう。



 それにしても、天文年間であったのは幸いだった。この元号であれば、西暦を逆算できると内心ほっとしていた。天文は二十三まで続いており、誕生日の二月三日と同じ数字なのを覚えていたのだ。人は数字を見ると、己に関係するものを連想しがちであるからこそ、好きな数字も生じ、それにまつわるものは記憶しやすい。



 今が天文十六年は西暦でいうと1547年だと結論づけた。


 この年に何が起きるかまでは知ってはいない。だが、逆算できただけでも、何かの役には立つかもしれない。歴史は詳しいと言えるほどの知識もなく、まして知っているものとはそもそもが違う可能性もあり得るが、先ずは史実を基本として物事が起きる時系列を作れば、自ずと答えが出るだろう。



「将軍は誰ぞ?」

「足利義晴様にございますが…… 何故、そのようなことを?」

「いや、気にするでない」



 天文が改元される時、将軍は義輝だった覚えがある。



「織田信長は知っておろう?」

「存じ上げませぬ。そは、どこの御仁にござりましょう?」

「…… 」



 聞いたことがない様子に、あぁ、なるほどと思った。


 隠す必要もないことであり、それは嘘ではないと思われる。

 ならば『桶狭間の戦い』は一地方の話であってさほどの大事ではないのか、はたまた報せが届いていないだけなのか、いくらでも理由は思いつく。


 しかし、知れ渡っていないのはやはり、まだ起きていないとみていいだろう。今川義元には近しい公家がいるのだから、報せが届かないなどという事はあり得ない。



 それが、史実の通りであればという結論に次々と確認すべき事柄が増え、乳母たちを置き去りに思考の渦へと沈んでいった。



 

正式には万千代丸ですが、万千代と略称で呼ばれることもあります。

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