52.舟 【地図あり】
1551年 9月9日(天文二十年 長月)
真如院との会話を終え、すぐに散見していた大内由縁の者や公家衆を集め始めた。それらの者たちを宿へ案内しながらも知り得る情報を尋ねて回った。
皆の話を聞くところによると、どうやら公家たちは当初は義隆と行動を共にするつもりでいたようだが囮として大寧寺へ向かうことを知り、法泉寺で袂を分かち海岸沿いの村へと逃れた。丁度、その村には村上水軍が舟を着けていたため、彼らの手助けで宿毛に逃げることが出来たらしい。
周防で顔見知りとなった者たちの大半は宿毛まで避難していたが、この場にいない者もいる。それが義隆の御子と側室の問田殿だ。室らは義隆の勧めで真如寺へ行き着いてすぐに真如寺より妙喜寺へ移った。
しばらくの間は妙喜寺へ身を寄せていたが辺りが静穏となったことで、舟にて逃げるため南に向かう。しかし、道半ばで落ち武者狩りに見つかり、問田殿と亀鶴丸は皆を逃がすためにと敢えて残ったようだ。
自ら犠牲となった問田殿は陶と共に謀反を起こした内藤興盛の娘であるため助かる可能性はあるかもしれないが…… 。義隆に同道して大寧寺へと向かった珠光姫や亀童丸はもちろんのこと問田殿と共に残った亀鶴丸も逃げるべきだったように思う。陶がどうするか分からないが危惧の念が次第に強まっていくばかりだ。
宿毛に集まっている避難民の居住もどうにかしなければ。
方々の寺社に頼むにしても早々に解決できるものでもない。
気の毒に思うが、しばらくの間は野宿でも我慢してもらうしかない。
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具足を着た上から袖無の長羽織を着用し、烏帽子の上から白い鉢巻を巻いている。
もちろん戦場ともなれば烏帽子の先を折り曲げて上から兜をつける。
兵を指揮する際は、大将であれば采や団扇を、それ以外の将は軍扇や鞭を使用している。特には決まりが無いようなので、個々の好きな物を使うのだろう。兼良の著書である御代始鈔に、宝亀時代に持ち込まれた高貴な者の顔を隠す柄の長いさしばが団扇やうちわの元になったと書かれていた。せっかくなので兼良に因み、団扇を使うことにした。
目線を皆と合わせるために俺だけ鎧櫃の上に敷皮を乗せた物を床几の替わりにし、他の者は床几に敷皮を当てた物に腰を下ろしている。
「直ちに周防へ向かうこと能わざるや?」
「疾うに日も暮れておりますれば、夜明けを待つべきかと存じまする」
「篝火を焚けば進むことは出来ましょうが、岩へ当たりなどすれば舟が沈む恐れも御座いまする。ここは夜明けを待つが肝要かと」
俺の問いに宗珊が答え、それに加久見も言い添える。他の者たちもそれに賛同したため、明るくなってからの出陣となった。
各舟には夜間に明かりを灯すことができるように、篝火用の籠が吊るされている。それ以外の明かりというと松明なんかもあるが舟に燃え移る恐れがあり、使う際には必ず舟上に海水を撒いて用心しなければならない。櫨の実で作った和ろうそくも順調に生産されているし、安全な照明具を作りたい。
関船と安宅船には薪が積まれており、松明以外にも湯を温めたり鍋を火に掛けるために使われる。丸一年は軒下で乾燥させた薪を竈と呼ばれる持ち運びできるかまどへとくべる。ガマの穂を火口として、先端に硫黄を塗した薄い板の付木へと火を点けた後、くべられている薪の間に入れることで薪に火が燃え移る。これらは、陸に上がらずとも船上でも使うことができるため人数に応じた数が用意されている。
小早は十二艇で計七十二名、関船二艘で七十名、安宅船一隻七十五名が乗り込む。
戦に備え舟にも防護が必要になる。
小早を守るための舟楯が、舟の外に取り付けられた。
船首にいる者は手楯を持つ者もいるが大半の者は持たないようだ。
まだこの頃は関船・安宅船といっても総矢倉で囲われていなかった。
安宅船の防護には、帖楯と呼ばれる掛け外しが出来る金具で連結した大楯同士を屏風のように舟上の縁へ展開させ、その内側には竹把を並べている。先陣を切るのは防護の厚い関船と安宅船であり、小早は前方には出ないように注意して後から追随する。
舟同士の連携や指示には法螺貝・軍鼓・鐘が使用される。関船と安宅船には幾本もの細く白い布を円環状の竹にめぐらせた吹貫と一条家の家紋が入った幟旗が掲げられており、吹貫は風見のために一際高い位置へ置かれ矢戦に備えられるている。
舟上で使用される主な武器は袖搦み・薙鎌・熊手などの長手の物か弓が好まれている。多くの者は弦巻を腰に下げ、弦を外した弓は弓袋へ入れ手元に置いていた。左手には釧を嵌め、更にその上に熊の皮を牛の革緒で巻いた鞆を付けているのだが、これは実用性はあまり無く一種の験担ぎとして付けている者が多い。
海上では走り回ることがないため、空穂は使用せず矢櫃に何十と矢が仕舞われている。矢櫃には矢以外にも携帯用の筆と墨・硯が纏められた矢立の硯が括られており、いざという時でも文を書くことができる。矢立の硯を使い辞世の句を書き残すことも珍しくないようだ。
よく使われている弓は弓胎弓か昔ながらの藤巻弓であるのだが、中には鉄で出来ている鉄弓や主に陸地戦で使われる弾弓という滅多に見ないものもある。これは矢の代わりに石や弾を飛ばす物で専用の弦と弓が必要になる。
弓と弦、矢にも箆・羽・鏃など材料や構造・長さなど何十種類もあり、弦の結び方や弓の持ち方・矢の番え方など所作も含めればそれだけでも多岐に渡る選択肢がある。弓は正に千差万別なのだ。
それこそ何億通りもある中で己に合うものを探さなければならない。その上、扱いも大変で道具の手入れなど全てこなすだけでも人の倍以上の努力が要る。だからこそ古来より弓の名手は『将の中の将』と謳われてきた。
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まだ日も出ていない暗い中で篝火を焚いている。
日の出と共に周防へ向かうため、後方に陣幕を張った場に皆を集めた。
出陣にあたっては、加護を願う儀式を行う。
そこで藤巻弓の弦を打ち鳴らした後に、陰陽師の有尚から教わった九字を切る。
藤巻弓は陰陽道とも関わりが深い。
握りの部位より蔦が巻かれた箇所を上地の三十六禽、下天の二十八宿の名がそれぞれに当てられて弓自体が神聖視されており、その弓を打ち鳴らすことで破魔や邪気払いの力があると口伝されてきた。
九字は本来はひとつであったが、そこから派生して一般に広まったものが大きく分けて二つあるらしい。
元祖とも言える『臨兵闘者皆陣列前行』と、俺も知っている『臨兵闘者皆陣列在前』だ。濁音の無しと有りの言葉が交互に唱えられるため『兵・者』は濁音で発生するのが正しい。
このふたつは似てはいるが意味が違う。
元祖の『前行』は戦で攻めるために唱え、『在前』は戦で守るために唱える。
両者に共通しているのは、これを唱えることで魔や邪気を祓い死などの災厄を遠ざけるための護法であると共に、これを唱えまた皆に聞かせることで物怖じせず不退転の決意を持って戦に望むという誓いを共有するためでもあるのだ。
だからこそ、攻めと守りで意味が変わってくる。
攻めでは戦で何があろうと敵を破り前に行く、守りでは何があろうと敵の前に立ちふさがるの意味となる。今回の戦ではどちらを使うべきかを迷ったが、身を守るという意味では『在前』が適当かもしれない。
それと、この時代に半濁音は無い。
そう聞こえるような語句はあっても、はっきりとした『ぱ行』は存在していないといえる。
ただ例外はある。特有の言葉やその土地々々の方言であったり、陰陽師が呪を施す言葉であったり。だから、陰陽師が使う九字では半濁音の読みをするものがあるのだが、なじみが無い者が聞いても半濁音と認識せずに濁音だと思うだろう。そういうところでも陰陽師は特異な存在と言えるかもしれない。
もちろん俺は普通に言えるし認識できる。
だから御所を出る前に「反閇はしないのか?」と聞いた時も有尚が驚いていた。何度も何度も反閇と言わされたが、半濁音を陰陽師では無い者が正しく発することなどありえないらしい。その後も何やら言っていたような気もしたが、それどころではなく何も言わずに出陣してきた。
兼良も神仏儒教の三教一致を説いているように、戦国では天道思想が広がっており神仏習合の観念が庶民にまで根付いている。その中でも広く信仰されているのが摩利支天と八幡大菩薩であり、一条家では摩利支天に加護を願っている。
まず護法善神である摩利支天の真言を唱える。
太刀を抜き眼前に向け真っ直ぐ突き出し、二文字づつ格子状に九字を切り氣を込める。最後に七難即滅と七福即生を願って九字護法としている。
「オンアヂチヤマリシエイソワカ」
「臨兵、闘者、皆陣、列在、前。えぇぇい!!」
「オンアビラウンケンソワカ、オンバザラダトバンソワカ」
各将兵らは、それぞれ用意していた護符に祈り護法が終われば具足の内袋にしまい身につける。
いよいよ周防に向け出発となった。
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それから二日を費やして三日目。
日が中天に差し掛かる頃になって、ようやく周防国の岬が見えてきた。
様子を伺おうと豊後水道から椹野川の河口へと向かい始める。
と、その行きがけにある岐波村と阿知須村辺りまで進んだ時だった。
フ゛ォォォォォォォオオンホ゛ッホ゛ッホ゛ッ
動物の鳴き声にも似た低い音が船団の左側より聞こえてきた。
これは、響目という八寸はある八目の大鏑で人影か舟を見つけたときの合図だ。
左前方を見ると、確かに船が見えた。
そこには丸に上文字の旗を掲げた舟が数十はある。
「あれに見えるは村上水軍の旗でありましょう」
「然れど…… 様子が妙であるな」
東小路と加久見が訝しんでいる。
舟が近づくに連れ徐々に顕となってくる…… 。
そこには異様な光景が広がっていた。
この小説内では【反閇】を半濁音の【へんぱい】としておりますが、辞書では濁音の【へんばい】が正しい読みとなります。
また、九字護法の手順や説も正式なものではありません。
ご了承頂けますよう、お願い申し上げます。




