47.鰹節
1551年 7月(天文二十年 文月)
府内に戻ると熊の毛皮を見た者たちが皆どよめいた。
大友家にも人喰い熊の件は陳情されており、一度は村に出向き熊を追跡したのだがあまりの巨大さと凶暴さに逃げ出す兵ばかりで狩るまでには至っていなかったらしい。
身請けした者たちの相談をすると義鎮の計らいで寺社の敷地内を寝床として借りることができた。しかし、全員を収容できるような建物はもちろんない。野宿をしているものが大半だ。
そんな中、顕古と源次郎が戻ってきた。
「万千代様、遅くなりましたが、只今戻うてまいりました」
「ご苦労であったな。約定はいかがか?」
「はい、難なく五百貫文にて引き受けて頂きました。手付として二百貫文を、事が成りましたら残りを渡しまする」
「ようやってくれた」
顕古から報告を受け、僅かながら望みが持てるような気がした。
「しかし、このような依頼であれば五十貫文も出せば喜んで引き受けましょうに」
「いや、今後のことを考えれば誼を通じておくのも悪うないと思うておる」
「然様にお考えであらば宜しいかとは思いまするが、五百貫文は高うございませぬか?」
「ふふ、頭首は喜んでおったか?」
「それは、人を運ぶ楽な仕事でこれだけの銭を受け取るのですから喜ぶのは当然にござりましょう」
「そうか」
そうかもしれないな。
でも村上水軍でなければそこまで出さなかったかもしれない。今後も何かあったとしても敵に回ってほしくはないからな。
「それはそうと、表に干してある熊の皮は万千代様がお手ずから討ち果たされたとか」
「い、いや何、あの場にいた皆の助力あってのことよ」
これは、本当にそう思う。
特に弓矢で牽制してくれた佐竹親子と護衛の者に感謝しているし、感状を発布しなければならないと思っている。
「ほう、これは、これは。良きかな、良きかな」
何がいいんだか。
城に戻った時、事情を知ったお母様は気を失われた。
目が覚めてかなりのお叱りを受け続け、二人が戻ったことでようやく開放されたのだ。
「有り体に申さば、当家では万千代様に心から従わぬ者が少なくありませぬ」
えっ…… 初耳ですけど?
「何も万千代様が悪いなどと云うてはおりませぬ。未だに先の御所様を慕う者が少なく無いのでございまする。追腹をと考えていた者も一人や二人ではありませなんだ。家臣にとってはそれほどの主君であり唯一無二と言っても宜しかろうかと」
知勇兼備は伊達じゃないんだな。
「然れども、その者共を思いとどまらせたのは近江守殿なのです」
宗珊が?
「追腹よりも遺児を盛り立て西園寺を討つことこそが主君のためであるというておりました。皆も一先ずは賛同し収まっておりましたが、一向に西園寺と戦をせぬことに苛立ちを募らせていたのでございまする」
「そうであったか」
一周忌を終えた昨年の今頃に西園寺へ攻め込みたいと宗珊から言われて保留にしていた。そのことで余計に俺への疑念を抱かせることになったのかもしれない。
「此度、万千代様は熊を討ち果たされた。今、武勇を示すには申し分なき仕儀にございまする。『正しく万千代様は先の御所様のお血を継いだお方』と、従っておらぬ者たちも思いを新たに致すことにござりましょうぞ」
おお! 死ぬほどの思いをした甲斐はあるな。
出来れば熊討伐による波及効果で従わぬ者や謀反を企むような者がいなくなって欲しい。
熊が出た時はマジかー思ったよ。でも武勇ってメチャメチャ大事!
「全て、ご承知の上でのことですかな? 流石は万千代様にござりまするなぁ」
そんなわけがない。
生きて帰れたことは幸運であって、次はありえないから。
もう、あんな目に合うのは二度とごめんだ。
普通に死ぬわ!
◾️◾️◾️
義鑑は溺愛していた三男塩市丸に家督を譲ろうとしたようだ。
年をとってから出来た子。いわば孫くらい。
それは可愛くて仕方がなかっただろう。
大友義鑑の寵愛を受けていた入田親誠は義鎮と馬が合わず、義鑑と共謀して義鎮を廃嫡しようと企み二階崩れの変に至ったようだ。その後、塩市丸の母の岳父である阿蘇惟憲に助けを求めたが嫌悪した惟憲は親誠を殺している。 娘と孫をむざむざ殺させた上に己だけ助かろうとする姿勢が許せなかったのだろう。
そんな事とは知らずに面会時に不用意なことを言ってしまって後悔していたが、芸事や蹴鞠をすることで親交を深めることはできたと思っていた。
「御所殿とは大いに楽しい刻を過ごせて嬉しく思う」
「はい。麿も同じゅうに感じておりまする」
「大友と一条はこれまでと変わらぬ関係でありたいものよな」
「はい。是非にも」
「そこで盟を結んでは如何であろうか?」
こいつ……。
義鎮は盟を結ぶ話を出してきた。
大内が盟を結ぶ話をしてこなかったのは信用しているからだと教わった。
だが、義鎮には信用されていないらしい。
こういうちょっとしたことで相手の心情を読み取ったり駆け引きしたりするのが外交なのかもしれない。
それにしても腹立たしい。
お母様はお前の姉だというのに。
大内が尚のこと良く見える。
「子細については、追って連絡いたそう。起請文も同じく送るゆえ確かめられよ」
「…… はい。ご機嫌麗しゅうに」
義鎮は信用できないかもしれない。
◾️◾️◾️
同日の日暮れには土佐に着いた。
すると平野村の近くを通った際に、見知った顔があった。
いつだったか塩田の説明をしてくれた平野村の村長である五平だ。
大量の魚を前に数人の漁師と見える者たちと話し込んでいた。
淡水化装置を整備して三年は経とうかというところだ。
そろそろ装置の点検と修理が必要になるかもしれない。
家人に状況を聞いてくるように使いを出した。
すると、淡水化装置は問題無いそうなのだが、一行に俺がいることを知った五平が陳情したい事があると言っているらしい。話を聞くと例年と違い漁が上手くいかず魚を貢ぐことができないのだとか。
魚なら目の前に大量にあるのに何を言っているのだろうか?
事情を聞くため家人に確認してもらう。
五平の話によると魚は獲れても猫も食べないような魚で、とても貢ぐような代物ではないとのことであったが、よくよく聞くとその魚は鰹だった。そうか、土佐といえば鰹が有名だ。しかし、秋の鰹は脂が多くて食べられたものではないらしい。俺の認識では脂が多いものも美味しいと思っていたが。
獲れた鰹は全て捨てるとのことだったので買い取った。
船に乗せ中村御所に戻ると、急いで血抜きをしてもらい藁で表面を焼いた。
料理番に薬味としてねぎ・生姜・大葉を用意させ食べると、少し生臭さがあったが十分食べられる。さすがに日持ちはしないので身内の者たちだけでなく、身請けした者たちにも饗してもらった。
例年だと9月頃から獲れる魚は鰹ばかりになるらしい。今回もかなりの量ではあったが、これからもっと多くの鰹が取れるそうだ。獲れたものは一条家で買い取る旨を言い残し、近隣の村にも伝えてもらうように頼むことにした。
鰹のたたきを食べている時に思いついたが、麿は鰹節を作ろうと思います。
小学生の課題で父の職場訪問をしたことがある。
だから、工場見学でなんとなく鰹節の作り方は分かっているつもりだ。これで、予てからの懸案事項であった出汁の問題が解決するかもしれない。
お祖母様が喜ぶこと間違いなし!
御殿には義隆から手紙が届いていた。
妹の阿喜多(六歳)を亀童丸(七歳)の嫁にどうかと書かれている。
その前に、陶の謀反を何とか出来ればいいのだが……。
戦国時代では鰹の干物はあっても鰹節はありません。鰹節が作られるようになるのは江戸時代からです。




