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46.二つ名

 


1551年 6月下旬(天文二十年 水無月)



 今は、近くの沢で腕の傷口をよく洗い流し綿布を巻いている。


 昔、怪我をした時を思い出す。

 その時は小さな傷だったので何とか我慢できたが、傷口から出る血と体液で張り付いた綿布を変えるのは地獄ではないかと思わなくもない。が、そのままにして菌が入ることを考えればまだましか。


 消毒用アルコールが欲しい。

 酒を蒸留して造れないだろうか?

 欲しいのは今すぐなのだが……。


 あと、石鹸。

 手に付いた血がなかなか落ちない。

 普通に考えればもっと早く作るのが当たり前だと思うが、なぜ今まで作ってなかったのだろう?

 自分のことながら、なぜなのか不思議でしょうがない。



 目の前では、熊を運ぶために二十人ほどが巨体を縄で縛り上げている。それを畳床几に座りながら待っているのだが、林の方から葉擦れの音がしただけで別の熊じゃないかと辺りを窺ってしまう。



 あの熊と目が合ってしまった瞬間などは、思い出すだに恐ろしい。

 …… 背筋が寒くなる。

 こっちは不安で仕方ないのに周囲からの眼差しが熱い気がする。


 家臣はやたらと返答の声が大きくなり、頬を紅潮させて口元がにやけている。枝が折れる音に反応すれば「万千代様! 如何なされました?」と気にしてくれるが距離感がおかしい。パーソナルスペースを侵して近づいてくる。個体距離の遠方相ならまだいいが近接相や酷い奴に至っては密接距離にまで詰めてくる者が居る。

 やめてくれ。


 身請けした者はこちらを遠巻きに眺めつつヒソヒソ話している。


(あげえ熊を一撃っちゃもん、たまがったー)

(あん言い伝えんある小天狗さまじゃなかか?)

(我ぁもそうやと思っちょった)

(小天狗さまっちゃ!)


 よく聞こえないが、小天狗、小天狗と言っているのは俺のことかな?


 しかも大天狗じゃなくて何故に小天狗なのか。

 例えば第六天魔王みたいな、越後の龍とか独眼竜もしくは鬼の半蔵・笹の才蔵、百歩譲って熊殺しとかならまだしも、小天狗。


 小者感、半端ないって!

 やめてくれ。


 悶々としていると、一人の護衛の者が俺に跪いた。


「御所様をお守りできず、申し訳ございませぬ!」


 それは仕方ないと思う。

 俺も含めた皆が右の林ばかりに注意を向けており、隊列は左の林寄りになっていた。いま考えれば別の熊が出る可能性も無くはないので道の真ん中がいいとは思うが、あの時はそれが最善だったはず。


「いや、皆も大事なく何よりよ。麿も傷を負ったとはいえ深手ではない故、心配いらぬ」

「むざむざと御所様にお手傷を負わさせてしまうなど…… 斯なる上は、腹を召す所存」


 待て、待て、待て。

 これから府内の館まで安全に戻るには一人でも多くの護衛が必要だから。

 勝手に人数を減らさないで欲しい。


「其のようなことをせずともよい」

「然れど!」


 右手を軽く挙げて静止する。

 いててて、打ち身が響く。


「其れよりも、府内に戻るまで刻が掛かろう。道中、しっかと守ってたもれ」

「はっ、命に代えましても」


 いや、命に代える必要はないのだが。

 九曜の者はすぐに切腹しようとするが、目の前で死なれて満足するとでも?

 やめてくれ。




 改めて思う。

 この戦国の時代に生きている人たちはすごい。



 一条家の隊列の中には人身売買で身請けするための銭を運んでいた者たちがいた。往路では二百貫文を二人一組とした八組で分けて担ついで来た。一文銭は、たぶん五円玉とか十円玉と同じくらいの重さだと思う。


 5グラムくらい?

 一貫文が千文で5キロ、二百貫文で1000キロ。


 ん?

 計算間違いかな?


 …… 何度考えても1トンだな。

『1トン』という重さの破壊力がすごい。

 一組で125キロ、一人あたり62.5キロ。

 嘘でしょ?

 そんな重さを担いで峠をいくつも超えたの?


 俺の思いつきのせいで、とんでもない苦労をさせられる人がいることに気がつき息を呑んだ。もしかしたら「こんな重たい物、持たせて山道を歩かせやがって」くらいに思われているかもしれない。


 それは…… 不味いな。

 謝って許してもらえないだろうか?



 商人に銭を支払ったことで復路では担ぐ物がない者十四人の中から八人づつが交代で熊の死骸を運ぶこととなった。


 穂先に木と革で作られた穂鞘を付けた槍を縄で括り、三本一束にしたものを五束準備する。その内一束を芯として垂直に四束を括りつけ、熊を縛った縄を吊るして運ぶ。試しに持ち上げて確認すると行きと同じくらいの重さだから大丈夫だと言っていた。


 一人62.5キロで計算すると500キロなんですが。

 この熊ってそんなに重いの?


 も、もしかすると一文はもっと軽いのかもな!

 1グラムだと考えれば一人あたり12.5キロで熊は100キロになる。

 2グラムでも一人あたり25キロで200キロ。

 3グラムになると300キロか。


 やはり一文銭は軽いんじゃないかな?

 いや、きっとそうに違いない!

 熊の大きさからするとかなり重いかなとは思ったけど、もしかしたら着ぐるみみたいに中身はスカスカで100キロくらいかもね。まぁ、きついと思うが運べない重さではない。


 白目になりながら、現実逃避をしているとぽつりぽつりと雨が降り出してきた。

 顔を上げれば、流れる雲はあるものの青空が見え日の光りも出ている。


 (天気雨か)


 すると、行列の中から熊を殺したからだと言う者が現れた。


「あん熊を殺したっけじゃなかか?」

「何ばいいよっとや?」

 

 それから、瞬く間にざわつきが伝播する。


 いやいや、これは単に雨が地上まで落ちてきた時には降らせた雲は頭上から移動したってだけだよ。ほら、たぶん雨を降らせたのはあの雲だと思うよ。


「心配いらぬ。これなら、すぐに止もう」


 家臣たちにそのことを伝えさせ事態を収拾する。

 当然、すぐに止み皆がどよめいた。


 (間違いないっちゃ!)

 (あんしは小天狗さまっちゃ!)

 (我ぁらばされえおっとろしゅなこつ人に買われたとね)

 (さありゃまなあ)


 いや、晴れているのだから止むのが普通です。

 なぜか一条家の者たちもどことなく誇らしげにしているように見える。

 このままでは『小天狗』の二つ名が定着してしまいそうで恐ろしい。

 いっそのこと自分で『土佐の蟠龍(ばんりゅう)』とでも名乗ってしまおうか?



 あれから、無事に峠を下ることができ府内にほど近い村に着いた。一行が村に入ると熊を見た者が声をあげると、次第に村人が集まりだした。


 村長(むらおさ)に話を聞けば、やはりというか、あれは人喰い熊だった。

 最初に村まで下りてきた熊を弓で追い払ったが、仕留めきれずに手負いのまま熊は山に戻っていった。翌日に村の者で初めて被害が出て、更に熊を追った山家にも犠牲になった者がいた。人の非力さと肉の味を知った熊はその後も次々と人を襲い続けていたようだ。


「こん熊は五日前にも、山家の者を喰い殺しちょる!」


 と、村長が語っていた。

 その場にいた村人は、皆が顔に悲しみの色を滲ませる。


 少しでも足しになればと思い熊の肝と肉を村人に渡したが、皮は持ち帰ることになった。乾燥させるために木盾に貼りつけ、仕上げは「皮造り」の者にやってもらうことになる。



 ◾️◾️◾️



 土佐に帰ったら、すぐに熊除けの鈴を作ろうと思う。


 今頃になって落馬したときの打ち身がひどく痛むようになってきた。これでは馬に乗りながら戦うなんてことは途轍もなく難しいな。だからこそ武田騎馬軍団が恐れられているのだろう。


 そこで、落馬を未然に防ぐ背もたれを造ろうと思う。ヒョウ柄の三段シートが理想ではあったが、鹿皮の背もたれで妥協する。


 上手くいけば、手綱でバランスを取らずともシートに背を預け姿勢を安定させることができ、槍や刀を手に持って振るうことも難しくない。それに加えて背中の保護にも役立つ。


 できれば、武器は鶴嘴(つるはし)にして引きずりながら登場する。


 鶴嘴と一緒にバールも作ろう。



 熊への恐怖で、現実逃避の妄想が止まらない。




 府内に到着したが、源次郎はまだ戻っていなかった。

 船は二百人以上は乗ったことがないらしく皆が一度に移動することができない。土佐に着いたとしても、住処を用意しなければならない。


 先のことを全く考えずに、身請けしてしまった。

 もう日が暮れてしまうし、今日の寝床も考えていなかった。


 とりあえず、義鎮に相談してみよう。

 

 

 

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