1.プロローグ
気がつくと、水面に浮かんでいた。
そこが湖や川なのか、それとも海なのかは分からない。周りは見えず、何も聞こえないからだ。見えないというよりも、視界には淡い光と実態のない乳白色だけが一面に映っている。いや、本当に目を開いているのかさえ分からないが。
丁度、まぶたの向こうに電灯を見つめているかのようだ。
不思議と恐ろしくはない。
しかし、進むか留まるかの選択を迫られている気がした。このまま留まるのも悪くはないが、しばらく考えた末に進むことを選んだ。
一体、どれほど進んだだろうか。ふと気がつくと光は薄れ、辺りが闇に包まれた。
◾️◾️◾️
次に気が付いたのは、知らない家の廊下だった。
目の前には庭が広がっている。
視界の奥には青味がかった淡い紫色の藤が咲き、そよぐ風が豊かな芳香を運ぶ。
寝て起きた直後のような朧げな意識の中で、なぜここに立っているのかという疑問と同時に、やけに視線が低いことに気がついた。自分の体が小さくなってしまったかと錯覚するほどだ。
はたして本当に立っているのだろうかと足元を見れば、間違いなく立っている。が、その足は幼子のように小さい。
二度も確かめたが、どう見ても小さく手もまた同じであった。手足を動かせば疑いようもなく、己の体なのだ。
和服へ着替えた覚えもない。
まだ、狐や狸に化かされていると言われた方が納得出来るほどに、状況がまるで解らない。
生命力あふれる芳しい花。
足の裏に感じる板敷の廊下。
肌にこすれる着物。
それら全てが、まぎれもなく現実であることを伝えている。
唐突に、背後から女の声がした。
「万千代丸、何をしておるのです?」
「うっ …… 」
ひとりではないと安堵し、振り返って声の主を見た瞬間に思わずうめき声が出た。
そこに座っていたのは、腰よりも伸びた髪を畳の上へ垂らし、左右の頬にかかる前髪はあご先で切りそろえ、引眉とお歯黒を塗った映画でしか見ないような姿の女性だった。綺麗な模様の打掛けを羽織り、微笑んでいる。
化粧でよく分からないが、二十歳そこそこだろうか。眉毛と歯が怖い。
「万千代丸、こちらに」
正座している自らの太腿を軽く叩いている。
辺りを見渡すが、他には誰も居ない。
やはり、こちらに言っているのだろう。
体格差は、まさに大人と子供。
寄っても大丈夫という確証は無く、昔話そのままに食べられてしまうことだって考えられなくもない。
「早う、こちらに」
どうするべきか迷っていれば、またも呼びかけられる。これ以上は、相手の機嫌を損ねる可能性もあり、恐々と女性のもとへ歩いていく。
「ほんに、大きゅうなりましたね」
手が届くところまで近づいた時、急に抱き上げられ膝の上へと乗せられた。一瞬の出来事に、心臓の鼓動が自分でもはっきり聞こえるほど動揺していた。
女性に軽く抱き上げられるくらいには、体重は軽くまた小さいのだろう。相手が一般相応の筋力を持った女性であればだが。
そこで、違和感なく相手と会話をしていることに気がついた。庭の見た感じも和風で着物ということは、ここは日本なのかとふと疑問に思う。
背の高い…… と言っていいのだろうか、この女性に騙されていないのだとすれば…… もしや、これは転生なのかもしれない。
「黙られたままで、如何されたのです」
などと考えていると、首を傾けて話しかけられる。その様を見るに、どうやら危害を加えられるような事はないと思われた。
しかし、この状況を受け入れられないままに、何と返事をすれば良いものか。意を決して言葉を紡ぐ。
「い、いえ、何でも」
この場合は時代劇で見るような話し方をした方が良かっただろうかと言った後に気がついた。
そもそも、この女性との関係は一体…… ?
女性を見ると、眉を寄せて怪訝な顔つきだ。
「今、何と申した …… いつもの如く『おたたさま』と呼んで給れ」
おたたさま?
おたたさま、おたあさま、おかあさま、お母様…… と連想してみるが、ここは、笑ってごまかすしかないだろう。
「ふふふ」
「何やら、今日に限って様子が違うておるような」
無駄であった。
これ以上ぼろを出さない為にも黙ってた方がいいのかもしれないと考えていれば、その気不味い空気の中、側に控えていた女性が声を掛けた。
「御方様、御簾中様がお待ち遊ばされております」
「ああ、さようでした。万千代丸も共に参られよ」
状況もよく分からずに、こくりと頷き言われた通りについて行く。後ろからは、侍女と思しき女性もついてくる。
かなり広いお屋敷で廊下も長く相当なお家なのだろう。歩きながらも空を見上げると青々と晴れていて、穏やかな陽気である。季節はおそらく春であろう。
庭からは小高い丘と竹林が見え、その向こう側にもお屋敷がある。そちらの廊下では着物を着た男達が行き来していた。
着いた先の部屋には、豪華な寝台、雲と鶴を象った模様の布が垂れ下がった間仕切りのような物や立派な屏風などもあり、高貴な雰囲気が漂っている。
仕切りの前には、尼が被るような頭巾と地味な染衣のような着物姿の女性が、隅には藍色の着物を召した少女が二人、座っている。その少女らは肩ほどで切り揃えられた髪をしており、日本人形を思わせるその姿はなんだか恐ろしく感じる。
女性は『おたたさま』と比べれば少し年上で、二十代後半くらいに見える。
麿眉ではなく、歯も黒くない。着物は一見して地味な印象を受けるが、凄く可愛らしいというか、芸能人もかくやというほどに綺麗な女性だった。
「若御所様、お欠餅がありますけど、食べます?」
俺を見ながら、手招きをしている。
不思議と危機感は全く感じられず、ためらう必要もないほどだ。
呼ばれた通り、近くへ行って座った。部屋に入るとお香が焚かれているのだろうか、深く吸い込むとなんとも芳しい。
「沢山お食べなさい」
そこには、うす味の豆が練りこまれた平たい餅が焼かれていた。それを見た瞬間に、ぐるぐると目が回り気分が悪くなる。
力が抜け畳へうつ伏してしまうと、そのまま気が遠くなっていくのを感じた。
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実家から近い工業高校を卒業して、となり町にあったタイヤ工場へ就職した。工場内では成形機からの放熱温度が高すぎて夏場は蒸し風呂状態で大変だったが、嫌いではなかった。
仕事を始めて六年が過ぎ、梅雨明けした頃だった。目が覚めて一階へと降りると誰の姿も見当たらない。
今日が休日であることを思い出す。
食べ物を探しているとテーブルに大きな『のし餅』が二枚重ねて置いてあった。
親が作った物なのだろうか、触ってみるとまだ柔らかい上に、きな粉も近くに用意されていた。
餅を手で千切り口に入れる。
「うん、美味しい」と醤油砂糖も美味しくて捨てがたいが、きな粉で食べるのが一番だと改めて感じ、また千切った餅を口へ運ぶ。
何度目かに頬張った餅が口にするには大きすぎる気もしたが、構わずそのまま咀嚼し始める。
やはり大きすぎたかと後悔し、とにかく飲み込もうとした、その行為がいけなかった。飲み込むにはあまりに大きく喉に詰まったのだ。
何とか飲み込もうとするものの詰まるばかりで喉を通っていかない。慌てて吐き出そうとするも、それもままならず今更だった。
水を入れたコップを手にしたところで飲み込むことも出来ないのにどうすれば良いものかと考えている間にも押し広げられた喉の異物感が増していく。次第に苦しくなっていき、結局は唸ってるうちにそのまま気が遠くなっていた。
そのまま窒息してしまったのだろう。
よく事故のニュースは見ていても、己の身にそれが起きることを懸念する者は少ない。
そして、目を覚ましたときには、前世のものと転生した後の記憶までも思い出せていた。