45.狗吠
1551年 6月下旬(天文二十年 水無月)
もうこの時期になると、日差しは強くなっている。
馬に乗って移動する時は、狩衣の上に鹿皮の行縢を履き、日除けとして綾藺笠を冠っている。
この笠は藺草を編んで作られており、冠の一部分のように髷が納まる箇所が突出した形をしている。裏地には綾が貼られ、表の突出した根元部分と縁に韋と呼ばれる動物の皮が付けられている。これならば、烏帽子と一緒に冠ることができる。
今は、総勢四百人近い隊列が山道を進んでいる。
肥後で蝗害が発生してから十日後、国境の村々に兵を派遣し終えた義鎮らが府内に戻っていた。早くも人買いを行う商人が豊後国の村にも来ていることを聞きつけ、一条家の人手不足を補うためにも身請けをしてきた。
通常であれば一人二貫文が相場らしく、容姿が優れていたり体躯に恵まれた者であれば三貫文を超えることもあるようだ。しかし、近隣の村々で乱暴取りも発生し相場が一気に下がって一人六百文になっていた。大きな戦の後であれば二十五文まで暴落することもあるのだとか。
身売りしている者の中で乱暴取りによって売られてしまっている者、行き先が土佐でも構わないという者たちを商人や農民から身請けし、およそ三百人あまりを一条家七十人ほどで手引きしている。
行列の先導として、幾本もの細く白い布を円輪にめぐらせた纏を持った者を先頭に、鋏箱を担いで替えの着物や道具などを運ぶ者たち、足金物に帯取をつけ韋緒で太刀を腰に下げている護衛の者、馬に乗り隊列が乱れないように槍を持ち列の端を進む者などがいる。
お母様が待つ府内へと続く道の両側は林になっており、木や草が鬱蒼と生い茂り見通しはあまり良いとは言えない。山を下りもう間もなく府内にほど近い村に到着しようというところで、急に馬が騒ぎ始めた。何事かと騎乗している者は皆が馬を落ち着かせようと声を掛ける。
「どうどう、どう、どう」「どうどう」「どうどう、落ち着けぇ」
しばらくすると馬も落ち着きを取り戻してきた。
ブルルルルッ
すると前方では、見るからに雑兵くずれと分かる野伏り十五人ほどが行く道をふさいでいた。
「待て、待て、待てぇ!」
「ここを通りたくば金目の物を置いていってもらおう!」
野伏りたちは、日焼けし褐色の肌に胴丸だけを着ており、衣服は黒く薄汚れ手の指などは真っ黒くなって髪は脂ぎってボサボサだ。体躯は皆がやせ型ではあるが、やせ細っているのではなく筋肉質のように見える。
野伏りにも驚いたが、この場にいる一条家の者が動けない理由は別にある。道をふさいぐ者たちの更に後ろには、どう見ても馬を軽々と超える大きさの黒い塊が立ち上がっていたからだ。野伏りたちもこちらの様子がおかしい事に気がつき、皆の視線の先を追うように後ろを振り返った。
「ひっ」
そこには、身の丈七尺を優に超え九尺ほどはあろうかという熊が威嚇するように立ち上がっている。その見た目は金毛を交えた黒色の体毛で、胸から肩口にかけて弓状に白の斑紋が入っていた。
『ク゛ア゛ア゛ァァッ!!!』
足がすくむ程の大きな雄叫びだった。
雄叫びの凄まじさに野伏りたちは恐慌し、我れ先にと逃げ始めた。すると、逃げた者を追いかけて熊が四足で猛突進する。
「ぅわー!!」「ひ、人喰いだぁ!!」
「逃げろぉ!!」「そこを退けい!」「我が先ぞ!!」
熊が走り出し、そこからの光景は阿鼻叫喚の地獄絵図だった。こちらの隊列も乱れ皆が逃げ惑い始めた。山に入る者、木に登り始める者、来た道を走って逃げる者。
だが、想像以上に熊は素早かった。
まず犠牲となったのは熊に一番近かった野伏りだ。
一人目に追いつくと、容赦なく牙を突き立てる。太腿をえぐるように噛み千切り、残された脚からは桜色と白色とが入り混じった肉が見えていた。
「ハッ、ハッ、ハッ、ア゛ア゛ァ゛!」
噛まれた野伏りが泣き叫びながら倒れ、地面には赤い血だまりが広がっていく。
すぐに次の獲物へ向けて、手を振り下ろす。
二人目の野伏りは一撃の下に叩きのめされピクリとも動かなくなる。
「フ ウ゛ゥ゛ゥ゛ゥン!!」
三人目は背中を爪で引き裂かれ痛みでのけ反り呻く。
爪で頭部をえぐり取らて親指大ほどの穴が空いてしまった者。他方で、首を噛み千切られる者。
あまりの非現実的な惨状に動くこともできずに、ただ呆然と眺めていることしかできなかった。突如、子供の泣き声が聞こえハッとして我に返る。
「み、皆を守れ!」
咄嗟に、そんなことを口にしてしまった。
己の身を守ることが出来るかも分からないのに、他人を守っている場合だろうか?
とにかく、熊にこちらが脅威だと思わせ追い返すしかない。熊といえば犬だが、犬のように吠えたくらいで退くだろうか?
もう、どうするのが正解かもわからない。
とにかく何かしないと殺されてしまう。
───── 『まるで狗のようではありませぬか』
先日のお母様の言葉をふと思い出し、手を口に当てて声をだす。ちょうど、インディアンの発声方法を模した感じになる。
「アワワワワワワ」
次第に大きい声を出していく。
「アワワワワワワ」
「皆も真似せい!」
「アワワワワワワ、早うせい!!」
「「「アワワワワワワ」」」「「「アワワワワワワ」」」
俺の必死さに近くにいる皆が模倣し始めた。
あちこちで上がる奇声に躊躇う素振りを見せていた熊が、突如として俺がいる方へと走りだした。俺を中心に近くで声を出し威嚇していた全員が逃げ出す。
後ろを見ると、追ってきた熊が一間ほどの距離にまで迫ってきていた。
その時。
ピィィィィィイイイイイイイイ
と、甲高い音を立てながら鏑狩俣の矢が飛んできた。二股の鏃の四立羽、八目で二寸ほどの鏑が付いた矢が。
そのすぐ後に、横手より尖根の鏃がついた数本の矢が熊に向かって飛んでいく。
ヒュン
ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、ヒュン
カッ、ドッドスッ
放たれた矢の内、一本は木に当たり、二本が熊に突き刺さった。弓を持たない者は刀や槍を構えているが、瓢石を使って熊に向け投石している者が数人。
『ク゛ウ゛ァ゛ァ!』
悲鳴の声を挙げて右林の奥へと逃げて行くのをただ眺めていることしか出来なかった。
「万千代様! ご無事であられまするか!?」
「だ、大事ない。 そちは……」
「一条殿衆がひとり、佐竹義之と申しまする。こちらに控えるは子の義直で御座いまする」
あっ、そうだった。
旅中で話をする機会があり、弓が得意だと言っていた。
黒漆が塗られた空穂を背負い、弽を手にはめ、手ぬぐいの鉢巻を頭に縛りその上から烏帽子を冠っている。親子揃って、筋肉質で鍛えあげられた体躯をしており余計な脂肪が全くない。眉が凛々しく男らしい顔立ちで、一目で親子と分かるほど二人は良く似ていた。
「うむ、ようやってくれた。助かった」
家臣の手前、精一杯の見栄をはる。
恐怖で手の震えが止まらない。
それにしても、あの熊は異常な大きさだった。
あんな熊が相手では人間では太刀打ちできない。とにかく急いで近隣の村まで行きたい。
「万千代様。 皆も少しづつ戻ってまいりました」
「よ、良し。皆が集まり次第、急ぎ府内に向かうぞ」
「はっ!」
用意してもらった畳床几に腰掛けると、だんだんと落ち着いてきた。四半刻ほど待っていると、身請けした者の八割にあたる者が集まったようだ。そのまま逃げてしまった者もいるようだが、今は追いかけている時間も余裕もない。すぐに出発したい。
念のため、腰のホルスターにある小銃を手に持ち火縄は着火して火鋏に挟んである。予備にもう一本、火の点いた火縄を左手に持つ。
と、馬に乗り左の林を見た瞬間に背筋が凍った。
「 あっ ……」
そこには息を殺すように木の影からこちらを伺う熊の姿が。
何故?
右の林に逃げていったはずの熊が左の林にいる…… どうやって?
完全に目が合ってしまった。
乗っている馬も熊に気がついたようで、落ち着きなく前脚で地面をかいている。
馬が一声、嘶いた。
ヒン、ブルルルル
「万千代様」
佐竹から声を掛けられ、熊から目を離してしまった。しまったと思いすぐに振り向いたが、すでに熊は林から出てきており、もうすぐ手が届く距離にまで迫っている。
「っ! お逃げください!! 万千代様!」
護衛の者の声が聞こえたが、恐怖で動けない。
そんな俺の様子を見てか、熊はすっと立ち上がり大きく咆吼した。
『ク゛カ゛ァ゛ァ゛!!!』
ヒーーヒヒヒン!
熊の哮けりで乗っていた馬が驚き棹立ちになった。
と、ほぼ同時に太く凶悪な爪が生えた大人の顔ほどもある前足が俺に向けて振り下ろされる。
恐怖で腰が引けてしまい、手綱を握った左腕はそのままに不安定な状態となり右に落ちかける。
棹立ち状態から馬の態勢が変わったことでまともに食らうことはなかったが、爪は俺の左腕を掠めて馬の左後ろ脚の付け根を深く切り裂いた。
馬が体勢を崩して右側に倒れる。その折に俺の身体も投げ出され、右半身を強く地面に打ちつけた。
「痛っ!」
馬の下敷きにはならずに済んだものの、右半身には鈍い痛みが、左腕には鋭い痛みが走った。
そこへ熊が歯牙を見せながら、近づいてくる。
恐怖でまともに動けず、ただただ後ずさることしかできない。
後ずさる最中に、火縄から上がる煙が視界に入った。
一瞬、目だけを向けると、手を伸ばせば掴める距離に小銃が落ちている。不発や暴発のことなど考える間もなく手に取り、無我夢中で小銃の火蓋を切って熊へと目掛け引き金を引く。
ドォーーウンンッ!
せめて威嚇射撃にでもなってくれればいいと思って発砲した。
ズゥゥン、ザザァ
振動が伝わるほどの大きな音を立てて熊が前のめりに倒れ、馬の上まで覆い被さってきた。俺の足先には熊の大きな顔が横たわっている。動かなくなった熊をしばらく眺め、息を止めたままだったことに気がついた。
「ハア、ハア、ハア」
長い間、歯を強く食いしばっていたため顎が痛い。
倒れた熊をよく見ると、右目から血が流れている。もしかしたら、偶然にも玉は右目を抜け脳にまで達したのかもしれない。
呆然としていると護衛の者が駆け寄って起こしてくれた。他の者は警戒し熊を囲んで槍や刀を構えている。
少し熊から離れ、改めてその全身を見ると体に比べ頭も口も大きく俺の上半身を一口で食べてしまえそうだ。もし銃が撃てていなかったらと考え、背筋が寒くなりぶるっと震えた。
おしっこしたくなっちゃった。
道の端で用を足しながら、さきほどまでの惨状が嘘のように穏やかな空気が流れていることに気がついた。ようやく全てが終わったことを実感できた。
用を足し終えた途端に、わなわなと身をふるわせてへたり込んだ。
もう一度、熊を見やると針金のような金毛が強い日差しに照らされて煌めいていた。
◾️◾️◾️
お母様が犬っぽいって言っていたし、インディアンのように声で威嚇する行為を狗吠と呼ぶことにしよう。わんわんと間を空けることなく早口で言った時と比較すると確かに似ている。
そういえば、島津には猿叫がある。
狗吠と猿叫。
島津と戦にでもなったら、犬猿の仲として後世に語り継がれるかもしれない。
瓢石:遠心力を利用した紐状の投石器。平安時代から印地打ちに用いられていた。




