42.修飾
1551年 5月(天文二十年 皐月)
大友氏の館は府内と呼ばれる城下町で、大きな入り江となっている場所にある。豊後水道から堂尻川を溯上するとすぐに船着き場が見えてくる。
川沿いにある市場は活気に溢れ、がやがやと大勢の声が聞こえる。掘建て小屋が軒を連ねているだけの雑多な印象を受けるが、店の者が着ている服は貧相な物ではなく小綺麗にしているので嫌な感じはない。
店は屋根と柱のみの簡易な構えで、野分が来たときは大丈夫なのだろうかと心配になるほどだ。周防に赴いた後では尚のこと、西の京と呼ばれていた大内の城下町と比べてしまいどうしても見劣りする。
ただ、市の規模がすごい。
終わりが見えないほどに並んでいる。
各々の小屋には多様な物が売られており、食べ物から反物と果ては異国から仕入れた陶磁器らしきものまであった。
お母様から大友義鎮は珍しい物が好きと聞き府内に行くにあたり色々と準備をしてきた。
まずは石帯。
石帯といっても革帯、ベルトと言ったほうが馴染みがあるが革部分に様々な石を落ちないように糸で結び止めているだけだ。銙と呼ばれている石は宝石の原石という可能性もあるが磨かれていないし光り輝いているわけでもない。
ただ円鞆(丸)や巡方(四角)に加工はされているし鉈尾には櫛上(四角の一辺が円弧型)がついている。今回は特別に金と銀で作られた銙に一条家の有文である四菱と唐獅子が刻まれている。
帯は鉸具というバックルで留めるのだが、側面には帯取ではなく刀を佩びることができる革製のホルスターを付けた。腰当てのように帯と腰の間へ刀を差し込むのは意外と痛いし苦しい。帯取は石帯に刀を吊るすことが出来るが紐で吊るしてあるだけなので歩くとかなり暴れてしまうし取り外しが大変だ。そこでホルスターであれば取り外しも簡単だし痛くないので制作することにしたのだ。
あと刀の尻鞘を覆い隠すこともなく調和して格好いいのも魅力だ。今回は黒い熊の毛皮で出来た尻鞘を履いている。今後の課題としては、弦巻は下げることができるようにするか腰袋に入れようと思う。刀の反対側には短筒用のホルスターを追加できればとも考えている。
次に革のショートブーツ。
まだ試作品なので靴というより沓なのだが、底は厚く硬い革を縫い輸入したコルクを敷き詰めて米糊で接着して、その上から更に革を縫い付けている。そのままでは脱げてしまうため、足首のあたりをリングベルトで締めつけて固定できるようになっている。この形状は鎌倉時代よりある深沓を参考に造った。
旅には雨具も必要とのことで和傘を持ってきた。
この和傘の胴部分には亜麻仁油が塗られた油紙を使用しているのだが、さらに蝋を表面に擦り付けて撥水性を向上させたものとなっている。両面に撥水加工しているので裏面も水を弾きはするが、ビニール傘のように柄を上にして置いてしまうと中に水が溜まり油紙が裂けたり穴が空く原因となる。
その為、和傘は石突き部分を地面に付けて傘の先である頭ろくろを上に向け、立てて置く必要がある。
先の貿易で仕入れた櫨の実が結構な量だったので、漆の代用品として櫨の実製の蝋燭を作っていた。搾油機で櫨の実を絞り採取した木蝋を温めて、い草の灯芯に何度もかけて厚みを増して太い蝋燭を完成させた。
この和蝋燭の特徴は上に行くほど幅広になり長く火を灯すことができるし、炎が大きく消えにくいので今までよりも明るく提灯や灯篭にも使える。植物性材料のため、臭いや煙も少なくススがあまり出ないのが良いところだ。
灯の他にも蝋燭には使い道が意外とある。紙や布に擦り付ければ撥水作用があるし、廊下に擦ればワックスの代わりとなる。あとは蝋引き袋なんて作るのもいい。『ゴショ・ナカムラ計画』では販売品を買ってもらった時に、紙袋に入れて客へ渡そうと思っていた。
高い品を包む時は烏帽子と同じく透け感がある袋を使用すれば早々に真似される事もないだろう。
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義鎮と、いよいよ謁見する。
大内を救うために何とかして助力を取り付けないと…… 失敗できないという緊張感で、鼓動が早くなってきた。
そういえば『義鎮』より『宗麟』と言われたほうがしっくりくるんだが、いつ頃に改名するのだろう。
大内館に滞在中にザビエルから聞いたが温度や湿度を測る道具は知らないようだ。ローマでも造られていないのかもしれない。あぁ、緊張しすぎて余計なことを考えてしまう。
落ち着け、落ち着け。




