40.芸事
1551年 5月(天文二十年 皐月)
一条の一行は元来た水路を戻り、周防国から豊後国に向け出航した。船の上で波に揺られながら、大内家での交遊を思い出している。今回の外交ほど、幅広く芸事を修めていて良かったと思ったことはない。
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この時代には絹や綿布を縫い合わせた物で足を覆い、脱げないように足首のあたりを紐で縛る襪と呼ばれている靴下がある。
公家は束帯姿で浅沓を履く際には襪も履き、脱ぐ時も一緒に脱ぐといったように屋敷内では常に素足でいる。襪は足袋のように母子と示指の間に股をつけた形ではない。これは、着用する公家が草鞋を履く習慣がなく必要としていなかったためだ。
しかし、山家と呼ばれる猟師たちは指股がある足袋を着用する。
足袋は猟で山に入った時に怪我をしないよう足裏の保護を目的としており、彼らの履物が草鞋だったため鼻緒に指を掛けられるよう指股が設えてあるのだ。ただ、素材が皮で直ぐに蒸れや匂いがひどい状態となるので狩り以外では履かないらしい。
今回の外交に当たり一条家は白絹製の物で指股がある足袋を作って皆で履いてきた。足裏も汚れないことを説明すると、義隆に『それいいね!』と言われたので土佐に帰ったら贈る約束をした。
その日は、義隆や内藤興盛などの文人や公家たちと連歌・和歌を詠った。
外は見渡す限り雲は無く澄み渡る青空が広がっている。庭がよく見えるように障子や襖は外され、代わりの間仕切りには四季の木と松が描かれた絹製の高松軟障が設えられていた。
調度品は飾られておらず、唯一あるのは州浜台だった。
これは州浜形の板に島台高砂、島の中央に山、松竹梅や鶴と亀、尉と姥などの作り物を配し、板に華足をつけた金銀彩糸により飾られている。大きさを競うのではなく、その緻密な細工や配置の機微などを楽しむものだ。
州浜台を鑑賞している間に、継室であるおさいの方以下、側室の問田殿、東の御殿、生駒夫人、珠光姫や侍女といった面々が座していたことに気が付かず、興盛が隣に寄り小声で教えてくれた。
興盛は教養がある上に、細やかなことにも良く気がつき配慮してくれる。更には詠んだ和歌も素晴らしく、感心することしきりだ。和歌というのは、古今和歌集などの書物やそれに付随する注釈書を読み込む必要があるため一朝一夕で出来るものではなく知識とセンスがはっきりと現れる。下手な和歌など詠もうものなら失笑され蔑まれるのだ。
何人かが詠み終わり順が回ってきた。
俺のお題目は「山郭公 今になかなむ」であったので、五月になったことだしここでも俺の推しである藤の花を入れる。
「皐月こば 池の藤波 さきにけり 山郭公 今になかなむ」
うん、まあまあの出来だ。
皆がお題を出し合い互いに和歌の感触や性格を確認した後、いよいよ百韻の長連歌を行う。
百韻の面白いところは前句や次句ときには打越(前々句)を踏まえて繋がりを意識した句を紡いでいかなければならないところにあり、打越を嫌い同音を避けたり流れを遮らないで尚且つ新たなる流れの変化を起こさせる要素を織り込まなければならない。
つまり、詠み手同士が相手を思いやることで皆が一体となり、それを付合としてまた相手に伝えていく。句を詠み重ねる内に不思議と各々の考えていることが分かるようになってくる。すると、皆が一斉に笑い出したりする場面も見られ、傍からは理解できないこともある。
そんな連歌だからこそ、愛宕百韻での明智光秀が詠んだ発句から、下の句・次句と詠み手は本意を確かめ光秀が言わんとした事を理解したに違いない。それほどに互いの気持ちを汲み取ることが可能であるのだ。
百韻も終わり詠まれた句について語り合っていると、おさいの方より鶴の一声がかかった。
「ほんに、どれを選んでも良き和歌ばかりで楽しい連歌ではありましたが、妾は恋歌を所望したく存じます」
いつでも女人は恋歌を好む。
お題として出るかもとは思っていたので和歌は準備してきている。順番は俺が最後になってしまったがそれも計算された上での声掛けであったのだろう。
順が回ってきたので、この日のためにと出来が良いとっておきの和歌を詠む。
「津の国の なには思はず 山しろの とはにあひ見む ことをのみこそ」
感嘆のため息が聞こえる。
ふふ、そうだろう。
この和歌には『摂津・難波・山城・鳥羽・大和(古都)』の言の葉を入れた恋歌だ。そして、それ以外にも地名やアナグラムが隠されていたりなど、読み手によって様々な解釈ができるようになっている。あまりにも良い詠なので、一条家で所有する古今和歌集へ密かに入れ込もうかと思う次第だ。
それにしても説明する前に騒ついたということは和歌の意味を理解できたのだろうか?
出来たという事であれば、大内家の教養が高いと言わざるをえない。
次の日には香を楽しんだ。
俺の香道の流派は当流で、これは御家流といわれる三条西実隆が流祖の宗家に師事したものだ。
使用した香炉は、炉を三本の足で支え覆い蓋をした青磁香炉であった。
香は灰の品質も重要で、きめ細やかで軽く空気を含み完全に乾燥・燃焼しきったものが基本である。衣類に匂いを付ける衣香、室内に焚香する空薫、香を焚き鑑賞する聞香など用途によって香の種類や炉も変える必要がある。
炉は、動かしても水平を保つ毱香炉、柄を付けて持ち歩けるようにした柄香炉、竹籠を伏せたように見える伏籠と火取、手で持ち上げ鼻先まで近づけて香る聞香炉と多様な形や機能があり奥が深い。
大内家所有の香合、香簞笥、沈香壷といった道具はどれも業物でこれまた豪華である。俺は両手で抱えるほどの大きさがある沈箱を用意しており、施された蒔絵の文様には家紋も散らしてある。
内部は上下に仕切られ、上段には六合の四角い小箱が収まっている。それぞれには桐壺、帚木、紅葉賀や自分の好きな帖の澪標、玉鬘、胡蝶といった源氏物語の各帖にちなんだ意匠が描かれている。下段に入っている五種類の香木を少しずつ刻んでから上段の小箱に六通りの香を収める。
組香のひとつである源氏香とは、それぞれの香を聞き使用されている香の組合せを当てるゲームみたいなものだ。五種類の香の組合せは全部で五十二通りあって、源氏物語における二帖目の帚木から五十三帖目の手習までの巻名を用いて識別する。五本の縦線と横線を繋いで識別する記号は『源氏の香の図』と呼ばれており、記号を紙や竹ときには檜扇に書いて当たりか外れかを照らし合わせる。
幾度かの源氏香を終えて、今は俺が持ち寄った香を焚いている。普通の香とは比べ物にならない程の芳香を放ち、時間が経つに連れ香りも変化していく。
その香りは幽玄でありながら重層的で確かな気品が感じられる。そして、鼻腔に残るのは仄かな甘さだった。うぅん、この香り高さプライスレス。
公家の三条公頼が目を閉じ香の印象を口にして、持明院基規が問うてきた。
「これはまた格別なる雅な香であるのう」
「一条の若御所様、これは何という香であろう?」
「これは沈香の伽羅で…… 蘭奢待に御座りまする」
そう答えると、バッと音がなる勢いで一斉にこちらへ顔を向け、時が止まったかのような静寂に包まれた。関白も経験したことがある二条尹房や義隆でさえも絶句している。その空気のまましばらくして、ようやく皆が騒つき始めた。
まあ、そうなるか。
大内家に来る事になった時から持っていこうと思っていた『天下第一の名香』と謳われている香を焚いているのだ。
この香木は帝の信任厚い者のみが削り取ることを許されている香木であり、現状で所有している者は片手で余るほど少ないだろう。その天下の香を焚いている…… 騒つかないわけがない。
くっくっくっ、麿は一条家の者ぞ?
凄いのは先代までだけど。
通常であれば、高価な香木を焚く際には方々に声をかけて大人数で鑑賞するものであり、ここにいる八人程度で焚いていいものではない。まあ、几帳の向こうには大勢の女性が潜んでいるので厳密に言えば八人だけではないのだけれども。もはや隠れる気も無いのか普通に聞こえるほどの声量で話をしている。
土佐一条家で俺が確認した時にあった蘭奢待はギリ二回分を焚く程度しかなかったが、その一回を惜しみなく使ったった。教房の代より使う時・場所・相手を吟味して、これまでに一度しか使われてこなかったのに。
…… 何だか、皆の反応が凄すぎて、今更ながらマズかったかもしれないと後悔し始めている。
そのまた次の日には立て花を。
立て花は池坊の僧を土佐まで呼び芸を習った。
事前に『花王以来の花伝書』と『仙伝抄』で予習した。池坊の教えでは、ひと瓶の上に主役の真と足元を隠す下草の構成により心の動きを類推させ、自然の姿形を表現している。
立花とは諸行無常や命の儚さを花で表現し悟りを開くものであり、七つの枝をそれぞれ「真・副・請・正真・見越・流・前置」とし七つ道具と呼んでいるらしい。池坊で専好を名乗る僧が革新的な、言い換えれば現代的な『華道』を造り京で花を活けている。一度、会ってみたい。
と、身につけた技能で恙無く花を飾る。流れる雲の形は常に変化し続け同じ形は二度とないという儚さを表現してみた。
その他には飛鳥井先生もいたので蹴鞠を行い、楽を奏で茶を飲んだ。
出立する前の日に城下町へ連れていかれ、六間を超えるほどの舁き山を見せられた。これは博多祇園山笠で使用されていた十二本の内の六本を強引に持ってきたらしい。そんなに乱暴で大丈夫なのだろうか?
六組の舁き山の内、一・三・五番を修羅の如く男らしく、二・四・六番を鬘のように女らしく優美な飾り付けをと意識しているようで、どちらも背が高い荘厳華麗なものだった。
今回の交遊で親交を深められ、かなりの好印象と同時に畏敬の念も集めることが出来たと思っている。外交は上手くいったと言っても過言ではない。
『芸は身を助く』




