36.布団
1551年 2月(天文二十年 如月)
年明け早々に忙しかった。
房通が元日朝賀の後に京御所と同じやり方で元日節会を行うと言い出した。
下任奏に次いで諸司奏、中務省陰陽寮より御暦奏、宮内省主水司の氷様奏、内膳司の腹赤奏と続き、列立し謝座再拝、謝酒の礼を行い群臣は饗座につき三献の儀となる。
この三献の儀は宮中における酒宴での作法であるが、次第に武士の出陣前や祝言の三々九度といった形で公家以外にも広まっている。
作法としては、上座から盃を献じ順に下座へと回していく。下座から上座まで盃が戻って一巡とし、それを三度繰り返す。
儀を行っている間は、一献目に吉野の国栖歌笛を奏し、二献で御酒勅使、三献で雅楽寮の立楽の後、宣命を読み群臣は降殿し『をお』と称唯して再拝舞踏の披露を以って賜禄退出する。それらすべてが終われば天皇還御となる。
正直よくわからなかった。
とにかく、こういう式次第なんだということは覚えておこう。
その他の行事は滞りなく行われたが、射礼の時だけ房通が若干不満そうだった。
理由は分かっている。
宮中とは少しやり方が違うので、それが嫌なのだろう。でも、あまり口出しせずに参加してくれていた。
そして、意外にも弓を射るのが上手かった。
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陰陽師の土御門有尚が言うには、どうやら土佐は魔法陣による幾重もの結界で護られているらしい。
確かに、土佐一条家の成立から八十余年を確認しても大災害や凶作による飢饉といった被害はほとんどないと言っていい。台風や川の氾濫・農作物の不作などの記録はもちろんあるが、年貢の破免や免除を行うことで人が飢えるほどではなかったようだ。九州の日向や四国の讃岐でも旱魃や冷夏・長雨の影響を受けて飢饉になっているにも拘らず、土佐は問題なかったりと本当に守られているのではと思ってしまった。
思ってしまったが、京も同じ結界で護られていると言っていたのに飢饉と荒廃に苦しんでいるではないか。その事を指摘した。
「実は、ここ中村御所は京と同じ結界の他に、もう一つ土佐全域を覆うほどに大きな結界で護られているようなのです」
「その結界とは?」
「土佐に来てより麿はそれを調べておりまするが、いまだ全容はわかっておりませぬ」
「そうか。であったとしても、土御門家の者が知っているやもしれぬな。それと同じ結界を京の都へ施せば、今の惨状を変えられると?」
「そうであるとも違うとも言えまする。この結界は、ここ土佐の地だからこそ張れておるのやもしれませぬゆえ。もしそうでなければすでに陰陽寮で施していることでしょう」
そうなのだろうか。
なんか嘘くさい気がする。
単に偏見があるだけかもしれないが、こっちが何か言うと後出しで『それはこういうことです』っていう追加情報を出されても言い訳にしか聞こえない。
しかも、土佐でしかできない結界というところも助長させているため、話せば話すほど信用できなくなっていく。
式神を使うとか悪霊を追い払うとか見て凄さが分かる事があれば信用できるのに……
最近は剣術を習っている。
九曜の長である武者小路兼実に師事しているのだが、今は剣術の前段階で剣を持って稽古をしていない。身体ができるまでは剣は持たせないみたいな。体術を基本として教わっているが、体を動かしているからか前のように変な妄想をする事が減ってきていると思う。
それと兼実は為せば成るの気合と根性を信条としたバリバリの体育会系だった。忍びを自称するのだからもう少し泰然としていてほしい。
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畳の縁の文様は身分や官位によって決められている。
繧繝縁を使用できるのは天皇・三后、大紋高麗縁は親王・摂関・大臣で房通が使っている。一条家は当主が変わる度に畳も変わってきた。お祖父様である房冬の時は大紋で、お父様は公卿だったので小紋高麗縁になった。今は俺が当主になって無位のため本来であれば縁無しになるのだが、それは如何なものかということで房通に許しを得て小紋高麗縁を使用している。
ちなみに、お祖母様の畳は大紋高麗縁だ。
俺の中では繧繝縁を使用してもいい程、高貴さと美しさがあると思っているが。
そのお礼ではないが、今年は敷き布団を作って羽毛布団と一緒に房通へ献上した。布団の中芯は綿布を重ね、中綿は羊毛を側生地には絹を使用している。
少し弾力性がない気がするが、寝るには問題とならない程度の使い心地だ。今年の夏に刈った羊毛をすべて使いきって、家族の分も賄えたのでこの冬は暖かく眠れている。




