29.仁義 【図解あり】
1549年 12月(天文十八年 師走)
夢を見た。
転生を自覚した時の夢だ。
泳いでいたと思ったら、いつのまにか廊下に立っていた。そう、どこかを泳いでいたのだ。
それが三途の川だったのか、それとも生まれ変わる為に川のような物を泳いでいたのか、今となってはわからない。
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俺の後見をする為に、先の関白である一条房通が土佐に来た。
今は当主と言っても仮みたいな物で、本家当主である房通に認められ、初めて正式に当主の座に着ける。余程のことがない限りは。
房通に呼ばれ、面会に行く。
最後に会ったのは三歳の時に房通が土佐まで下向していた時だった。
会うことも少なく、ほとんど記憶に残っていない。あの時は、お父様の後見として下向されていた。
御所は一町十五間×一町四十間という広さがあるが、長さは統一されていないし、きっちり測られてはいないと思うので分からないが凡そ小学校の敷地面積くらいはある。
政所と御殿は中村御所内で森山を挟み向かい合っている。森山には祖先を祀る維摩堂があり、小山の東側に政所と寺院や蔵、西側に御殿がある。南側には庭園と池があり四季折々の花木が植えられている。御殿は政所よりも広く作られており、それだけ侍女や女中なども多くいる。
屋敷は江戸時代の御殿に階などの平安時代の寝殿造が折衷したような造りだ。公家の出である一条家ゆえであろう。
面会の場、政所の大広間は上中下と3段構造になっており、よく時代劇ドラマで見るような金ピカではないが、厳かな雰囲気がある豪華な造りだ。
上段之間に房通が座り、中段之間に俺が、下段之間に家臣達が俺と同じ様に房通に向かい座っている。
目つきは鋭く、体は筋骨隆々という感じでもなさそうだが、それでも内から溢れる貫禄のようなものがある。やはり、関白を務めるような人は知識と経験が豊富なのだろう。
しばらく見つめ合ってしまっているが、俺から挨拶をすればいいのか迷う。挨拶ってこういう時は向こうから声を掛けてもらるものではないのか?
「万千代、麿の息子になれば宜しい」
…… えっ?
よくよく話を聞くと養子入りして庇護下に置くという事らしい。
本家は確かに権力はあるだろうが、兄妹の中で男子は俺だけだから、養子に入るほど家内が不安定でもない。
ただ、元服もまだ先なので、後見との仲が悪くない事を示すためにも、箔付けという意味でもいいのかもしれない。戸籍があるわけじゃなし、養子になっても形だけでほとんど変わらないだろう。
養子入りの話しや政の話の後で一門の件でも話し合いが行われた。先の襲撃で一門連枝衆である西小路教康が刺客の兇手に倒れた為、連枝衆に俺の叔父を迎えたらどうかと話が出た。
どうも俺にはお父様と腹違いの叔父がいるようだ。それを聞き及び宗珊が説明する。
「先先代の左大将様には玉姫様が御正室として、大内家の千代姫様が御側室として、家中の敷地家息女であった春様を同じく御側室として迎えられました。御子は室であらせられた皆様方お一人づつお生みになられ、玉姫様は先の公卿様を千代姫様の御子は大内家の養子として迎えられました」
一人は大内家に養子に入り大層大事にされたそうだが、戦の折に若くして亡くなっている。だから、大内氏からも手紙が来たり色々と融通してくれているのだろう。じゃなければ、勝手に明と貿易したりすれば諍いの元だ。
「最後に春様の御子ですが、家中に入野五兵衛という男がおりまして、五兵衛の讒言を信じた左大将様がお命じになって敷地民部少輔殿は自害、後から無実と知り今度は五兵衛を自害させるに至りました。その後、御子であらせられる現真海大僧都様は民部少輔殿の菩提を弔うとして仏門に帰依しております。……恨んでいたとしてもおかしくは御座いませぬ。そのため還俗は難しく、しても禍根を残しましょう」
もう一人は僧として土佐にいるらしいが、そんな曰くがある人物、怖くて迎え入れられない。
俺が当主として認められた事を確認し、お母様は落飾し仏門に帰依した。これからは慈瑤院と名乗られる。
乳母のお菊も一緒に落飾をと言っていたが、それでは御殿が暗くなってしまうからとお菊を思い留まらせていた。
化粧を落としたお母様は驚いた。綺麗な顔立ちとは思ってはいたが、どうしても化粧とお歯黒で印象が……
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この一年で各地の情勢が色々と変わっている。
三好長慶は細川晴元・三好政勝と対立していたが江口の戦いで政勝を討ち晴元は近江に逃亡。晴元の味方である六角軍も撤退した。これで摂津以外は長慶の支配する所となり、今は摂津の伊丹城を包囲している。援軍も期待出来ないのでは、もうすぐ降伏をして摂津も支配下に入ることだろう。これで細川政権は崩壊した。
お父様は三好と誼を通じていたとまでは言えないが、関係は良好だ。長慶が畿内で戦さを始めた折も使者が来ており、背中を討つ様な事はしないで欲しい的な事を言われたらしい。一応、土佐七雄では別格で今までは盟主みたいな立場の公卿だからだろう。
また、長曾我部は一昨年の天文十六年に天竺氏・横山氏・下田氏・十市細川氏を降し長岡郡南部と土佐郡南西部を支配した。三好が細川晴元を追放したため、十市細川の件を責められず長曾我部は助かっただろう。もしかしたら、細川政権の崩壊を見越していたのかも…… だとすると恐ろしい。
今年の秋頃には山田氏を滅ぼし加美郡も支配下に納めた。
着実に領土を広げつつある。
これ以上は危険であろう。
やはり長曾我部には油断ならない。
細心の注意をしておかねば。
そもそも、お祖父様の温情で領地に復帰し安定を齎すどころか、また戦さを始めている。これにはお父様もお祖父様のお気持ちを踏みにじった長曾我部を腹立たしく思っていた様だ。
仁義に悖る行為をしている。
西園寺との二正面作戦は避けたいが、どうしたものか。
宗珊達にも相談してみよう。




