23.秤
1549年 2月(天文十八年 如月)
一月の行事も終わり、呂宋への貿易船が出航した。
今度はきっちりと指定し、鸚鵡はもう要らないということも伝えている。馬、特に牝馬と羊も買い付けてもらえる様に、あとジャガイモとサツマイモを頑張って探してくれと頼んだ。
植物は種も必要だが、木や実といった見て判別できるような状態で欲しい。
呂宋行きの船と入れ替わる様に琉球に行っていた貿易船が帰ってきた。
象牙や硫黄、銅銭あとは櫨と棕櫚の木などが貿易品として持ち込まれた。今は松ヤニでロウソクを作っているが櫨が代わりの材料になれる。棕櫚はたわしの原材料として使える。針金を作れてないので、麻糸で括る事になりそうだが出来なくはないだろう。また、料理番の者達に喜ばれてしまうな……フッ。
貿易から戻る時に島津から文句があったそうな。
いつもの事らしい。
島津は時の室町幕府に琉球への渡航船の取締りを命じられた…… とか、更には琉球を賜ったとか言っているらしい。島津は琉球との貿易を独占したい様だ。
今までは文句が出ても無視する形で貿易を続けてきた。
そもそも室町幕府は征夷大将軍を長としており、その将軍職は関白や参議と同じ様に朝廷の令外官の一つにすぎない。少なくともそれは建前上とはいえ朝廷に属し帝を押し戴いているという事だ。
一条家は摂関家の家格であり公家として帝に仕えている。その為、幕府には属しておらず幕府職も与えられていない。もし属そうものなら一条本家は黙っていないだろうが。
その様な理由からいくら島津が幕府より命じられていようが帝が詔を発しでもしない限りは一条家は従う事はないと意思表示して貿易を続けている。島津は苦々しく思っている事だろう。もしかしたら一条家を邪魔に感じているかも。
最近では房通が送ってきた有職故実書の写しにて手習いをしている。
古くは藤原忠平よりの儀礼体系を基に一条兼良が『西宮記、北山抄、江家次第』の三書を補足してまとめた物や『公家根源』という書を残している。
また、一条家の家令である大炊御門家が公達の外気日記と一条の家令に属さない家の書も全てまとめて持ち寄り、それらの集大成が一条家の保有する有職故実として編纂されている。中には五摂家だからこそ知り得るものも含まれているため、縁者のみが見る事が出来る。
そこに武具・防具や馬の装具に至るまで絵付きで記されており、今まで全く手をつけていない戦道具をいつかは造る事になるだろうと思う。
そんな大事な書を何故送ってきたのかは分からないが大変に有難いことだ。
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天秤ばかりを作った。
まあまあの出来だと思う。
金属製の鎖では無く絹糸に松ヤニを付けて撚った物だからか、天秤ばかりっていう雰囲気は無い。
作ってから気がついたが、重い物を載せられない事と分銅が必要だという事で重い物を計る用に竿秤を追加で頼んだ。
まず、分銅を作るために升を作る。
升も地域によって大きさが異なるため、一升を適当に5寸×5寸×2寸9分で2.02リットルの容量にした。あくまで目安で細かい数値なんかは違っては来るだろうが、メートル法に近ければ何となく分かりやすい。
升ができたら、升のみで釣り合う重さを天秤ばかりで確認して升に水を注ぎ、また釣り合う重さまで石を何個か乗せる。載せた石と同じ重さまで鏨で鉄塊を削って分銅とする。
あとは竿秤を使い色々な重さの分銅を用意した。
物差しもあり、てこの原理で計算も楽だし竿に目盛を記していけばいいのだが、分銅の重量によって位置が変わるのでそこは注意が必要だ。
作った二つの秤は感度も良かった。
これで重量は基準の升容量に対して正確に計る事が出来そうだ。
搾油機を造るために鉄の丸棒の製造をお願いしていたが、とうとう出来たらしい。
よくこの時代で作れるものだ。
聞いたところ、槍の長柄を作る為の道具を使ったみたいだ。長柄を削る為の台座、曲直を測定する卓、磨き台などの道具を鉄の丸棒用に少し改造して対応したらしい。
ノギスに似た道具があった事にも驚いた。
その道具は乾燥させて強度を増した硬めの木を、異方性に優れた木目方向に切り出して作られている。
測ると言っても道具の素材が木材なので季節による温度変化や空気中の湿度によって測定寸法は変わってしまう。だが、季節を跨いで作る訳ではなく、一定の太さを揃える為に測るだけなら問題ない。気を付けなければならない事は雨や水によって吸水してしまうと、腐ったり破損の原因や機能の損失に繋がるため濡らしてはいけないという事。
それと見本となる木製の搾油機が完成した。
出来るまでに、何度も削った物を見せに来ては作り直し、作ってはまた見せに来てと月の内半分は来たと思う。
お陰でイメージと遜色無い出来栄えだ。
一条兼良は数多くの書を残しています。




