17.海苔
1548年 9月(天文十七年 長月)
この時代の夏は然程暑くない。
暑くないというと語弊があるが、21世紀と比べると暑くないと言うべきだろう。コンクリートで出来た建物やアスファルトが無いからだと思う。直射日光を浴びれば当然暑いのだが日陰に行けば十分涼しく、茹だるような感じはない。
だから、クーラーが無くても打ち水で我慢できるし、氷が無くとも井戸水でそれなりに涼がとれる。緑も多く日差しの照り返しが無い分だけ楽だ。道が舗装されてないのも良し悪しかもしれない。
九月ともなると暑さも和らぎ過ごしやすくなる。
そんな中、京から一つの報せが届いた。
房通、関白辞めるってよ。
辞める事で何も変わらないとは思うが、どうなんだろう。お父様とは政の話はしない。
そういう事は元服してからだ。
だから、影響はわからない。
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戦国時代の大名は家族と供に食事をしない。
お祖父様が亡くなって落飾し仏門に帰依する前は、お祖母様とお母様は食事を供にしていたようだが、今はお祖母様お一人で食べている。
始めは手の小ささから上手く箸が使えず、侍女がお箸で食べさせてくれていたが、慣れて自分で食べられるようになってからはお母様や乳母と一緒に食べている。時々お祖母様のところへ行きご一緒する。
お母様はあまりいい顔をしておらず、「あまり御簾中様にご迷惑をお掛けしてはいけませぬ」と軽く窘められる程度だ。
今日は久々にお祖母様と夕餉を供にしている。
「妾の好きな海苔が食べられんで残念やわ」
「のもし?」
「お海苔のことや。好きなんよ」
お祖母様は海苔が好物だったのか。
聞いてないよぉぉ。
ちなみに私の大好物はお祖母様の笑顔です。
食べちゃいたい。
海苔は夏になるとあまり食べる事がない。
全く出ないわけではないが、冬の方が手に入りやすい。それは養殖しているわけではないので、暖かくなると漁師や海女さんは海苔を採るよりもお金になる貝や魚を優先するからだろう。
だから膳にない事を残念そうにしている。
21世紀では食べたい時には当たり前のようにあった。食卓には味付海苔があったし、コンビニのおにぎりにも当然の如く巻かれていた。
そう、板のりだ。
テレビのニュースで見た時はめちゃんこ可愛いプリチィガールが板のり作りを体験していた。
偉大なる板のりは紙を作る技術で出来てしまう。戦国時代では製紙技術は当然ある。
つまり板のりは作れるという事だ。
カワイイがつくれるように。
恒例行事と化している康政の小言をもらい、職人さんに製紙設備一式を新たに作ってもらう。冷静になって考えるとこれだけ大掛かりな物を作って散財するって、完全にお馬鹿な大名のやる事だよな。
海苔は伊予の行商人から買い入れた。
俺もよくわかってないんだけど、多分このままではダメで海苔を細かく千切らないと均一で解れやすい板のりにならないと思う。
旨味が逃げちゃうかもしれないが、このままだとちょっと怖いから水で洗浄する。次は海苔を手で千切る、千切る、ひたすら千切る。
途中、包丁で切った方が早いことには気づいていたけど千切る。包丁使ったら負けかなって思ってる。
後は紙漉き職人さんにやってもらったよ。
和紙とまるで同じやり方で出来た。
最後に巻き簾に乗せたまま乾燥させれば完成だ。
ここまで、さも自分でやっているように語ってはいるが俺はただ見ているだけで、作業はもちろん市正と久左衛門がやっている。
丸一日、乾燥させた海苔をお祖母様に食べてもらう。火で炙って、醤油を少しつけて渡したら美味しいと笑顔で喜んでくれたよ。
味付海苔って何であんなに美味しいんだろう。
甘辛いタレが塗られてるとは思うが。
甘辛くて醤油味だから、砂糖と醤油は入ってるのは分かるが、他は何を混ぜてるのか謎だ。
だし汁とか入ってるのかも。
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中村御所の近くを流れる四万十川。
大きな河川であり水質も透明度が高いらしい。
御所から出た事ないから、自分で確認できてないが。
城下町では、板のりを作っていたので俺の好物だと噂が流れた。そしたら、大工が川にも海苔があったからと持ってきてくれた。
しょうがないから、褒美を渡して受け取ったけど。これどう見ても川の藻だよね?
半分冗談で板状になっている藻を渡したら、大工が美味しそうに食べていた。
俺も少しだけ千切って食べてみたら、最初は薄味ながらも噛みごたえがあり、噛むほどに味が出る。味は青海苔っぽかった。
川藻って食べられるのを初めて知った。
四万十川から取れるスジアオノリの原藻は有名ではないでしょうか?




