11.陰陽師 土御門有尚
1548年 2月(天文十七年 如月)
一月の末に土佐一条家の嫡子に会った。
その童は神々の加護を受けていると一目で解った。
着ている法衣、顔立ち、立ち居振る舞いで判断したのではない。
他とは纏う空気が違っており、煌々と光って見えたのだ。
あれ程の光を放つ者に出会ったことは一度としてない。
光を帯びた神器を見た事はある。
初めて見た時は恐れ慄いたものだが……。
麿が土佐に行く事を願った理由は、六年前にある。
その日は今にも雨が降り出さんばかりのどんよりとした曇り空。
京の屋敷の庭で陰陽道の修行をしていた折に、麒麟が空に舞い、南西の地へ飛び去るのを見た。麒麟は鳳凰と並ぶ瑞祥の現れだ。
茫然としていると、雲の隙間より一条の光がさし込めた。
その光は次第に道の如く、大内裏の御所まで伸びて行った。
周辺は影が降りたままで、ただ南西から続く光の道だけが出来ていた。
それはまるで天が導いているかの様な、あまりに神々しい状景に震えが止まらず、涙した。
その日の出来事は内裏中で大騒ぎとなっており、麒麟を見た公達も大勢いた。
噂も下火になってきた頃、主上が宝剣を土佐一条家へ貸し与えるとの詔を下されると騒ぎになった。
聞けば先日の南西での瑞祥の現れは土佐一条家に嫡子が誕生したことを示していたらしい。
誕生の瞬間には屋敷へ天から光が当たっており、その光が徐々に京方面へと伸びていったそうだ。もしかしたら、それが御所まで届いたのやもしれぬ。
土佐の中村御所が建てられている場所は平安京から見て坤の方角にあり裏鬼門に当たる。
後天八卦方位で坤は南西の方角である。
坤は二宮にして母であり、陰にして大地を表している。
天地十数に従った黒白点と線で描かれる九数図では坤は数字の二に対応している故に二宮なのである。
九数図の配置は縦横斜め、いずれもの総和が十五となり純然たる調和がそこにはある。
中心に配置されるは五となる為、二・五・八が土佐一条家に深く関わる数字なのであろう。
そして、二は中村御所を表しているとすれば……。
それはそうと、裏鬼門での魔を祓い・魔より護るため、主上は守護の宝剣である坂上宝剣を土佐一条家へと貸し与えると仰せであられた事だとは思うが結局のところ詔は下されなかった。
だが、麿が思うに密かに持ち運ばれているのではないかと疑っておったが、ここに来て間違ってなかったと確信した。
御所内の空気は邪気が無く、陽の気に満ち満ちている。
いくら中村御所が九字の呪法で護られていると言っても邪気が無さすぎる。
一般に広まっている九字は『臨兵闘者皆陣列在前』だが、土御門では『天元行躰神変神通力』の九字を使用する。ここ土佐中村の街にも土御門の九字が使われた形跡がある。
それは、この街の建設時に土御門も深く関わっているという事だ。そんな話を京の土御門の屋敷で耳にしたことはない。
平安京では北に大内裏があり南に向かって道が作られた。
だが、中村御所では逆に南に御所があり、北に向かって道が作られている。
まさに陰と陽。
日の本という広い範囲で考えると裏鬼門に当たる中村御所が平安京と同じ呪法と鬼門への寺の建立など対処し似通っている事にも得心がいく。陽である平安京と陰である中村御所は太極図の如く、同じだけの力が込められていなければならない。
単に真似ただけという軽いものではないのだ。
土御門が何らかの更なる呪法を施したに違いない。
この地が、そこまで重要だという事だろうか?
或いは人か。
運が良い事に、人であるならば既に見つけている。
あとはあの童が人の欲望、領地が欲しい、官位が欲しい、銭が欲しい、宝物が欲しい、女が欲しいなどという陰の感情で己を穢し貶めないように導くことが出来たならば……。
もしかしたら、麿も陰陽道の更なる高みに届くやもしれぬ。
然すれば、呪法の謎も必然と解ける事であろう。
「人を切り血を流すから穢れるのではなく、欲からの行動で穢れが内に溜まるのです。武家が台頭し、その武に縋る公家も現れ始めており、この世は欲に塗れることでしょう。正に、魑魅魍魎の如く万千代様にも群がる輩が多くなる事で御座いましょう。その時、穢れを嫌い己を昇華する事が出来るか否かは万千代様次第なのです。聞いておられますか?」
だから、麿は万千代様に歩むべき道へと導くのだ。
この御方こそ、八百万の神々より加護を受けし御子なのだから。
この頃は、陰陽道といえば多方面に関わっています。中でも星の動きを見て暦を制定する重要な役割がありました。