9.正月
1548年 1月 (天文十七年 睦月)
年が明けて、六歳になった。
この時代の年始めはやる事が多い。
元日朝賀という、国司であるお父様と家司を務めている源康政・町顕古・加久見宗頼が京の方角を向いて帝へ遥拝する。
この行事では、きっちりとした束帯という黒い袍と白い袴に笏を持った『これぞ公家』という格好をする。袍の色は位階によって決められており、今日着ているのは従三位以上の位階の者だけが着られる黒い文様付きの生地だ。
これら装束や行事の作法などは、いつもお祖母様とお母様に教えられる。一条家を継ぐ者として覚える必要がある事なのだ。お父様が束帯で歩く姿を見てお母様は誇らしげにあれこれと説明してきた。何かと「位階が…… 」と言ってるので少しミーハーなところがあるのだろう。
朝賀が終われば、家臣一同が集まり祝いの宴がある。宴では餅・大根・瓜・雉肉・鹿肉・押鮎・栗などの歯固めの祝膳が振舞われる。固い物を食べて長寿を祝う。
宴の参加人数が五十人ほどいる為、女中が忙しそうに行ったり来たりしている。料理番も大変だろう。こんな中で毒を盛られたとして、気づけるのだろうか?
……これは料理番とも親密になる必要があるな。
餅鏡を飾る。21世紀の鏡餅とほぼ同じだ。
ただ、飾るだけで食べないらしいが。
子の日遊び。年が明けて最初の子の日に御所内にある森山に登り小松を引き抜いて長寿を祈る。
卯杖。同じく年明け最初の卯の日に行われる行事だ。柊・棗・桃・椿・梅などを決められた長さに切り、邪気を祓う魔除けの杖として家族全員に渡される。その為、御所内にはこれらの魔除けや神聖視されている陽木も植えられている。
七種粥。米の他、粟・稗・黍・胡麻・小豆などの穀物を入れた粥を食し邪気を祓う。
踏歌。足を踏み鳴らし拍子をとって歌いながら舞い、大地の精霊を鎮める儀式の様だ。これはお祖母様が楽しみにしていた行事で、侍女や近習が楽を奏しつつ大勢で歌い踊るのが楽しかった。
射礼。宮中の儀とは少し違うらしいが、二組に分かれて弓を射る。上手の者に褒美を出し、二組に分けられた者達はどちらが優秀か賭けをして楽しんでいる。
射礼があるのでほとんどのものは政所や家臣宅で寝泊まりする。
これらは一月の半ばまでに朝廷の節会と同じ様に行われる。それは公家として行事や作法を学ぶためであり、上京しても恥をかく事のないようにと土佐一条家の嗜みなのだろう。
実際にお祖父様は越中国に下向した折に、京へ登り節会にも参加したらしい。
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今年からは毎日手習いがある。
お母様が張り切っているのだ。
一条家は五摂家の家格であり公家カーストの頂点に位置する。摂政と関白は常に五摂家から選ばれる為、家格は揺るぎないものだ。現関白も一条家が務めている。
だから、芸事も必須であり多岐に渡る。
「一条家の次期当主として恥じない為にも手習いと供に『歌、舞、茶、蹴鞠、鷹狩、笛、鼓、囲碁、双六、包丁 (料理)』を覚えて頂きまする」
「えっ…… 多くはありませぬか?」
あまりに多い芸事の数でぽつりと言ってから固まっていた。
「これでも随分と減らしておるのです」
まだあるのか。
「他に何ぞあるのでしょうか?」
「あとは『立花、香、太鼓、尺八、謡』にござりましょうな。書は手習いとは別に覚えることがありますれば」
成人まで九年、時間が足りなくないか?
あぁ、だからか。
公家大名は教養として覚えることがありすぎて、武に関してはさっぱりになるのも仕方ないのかもしれない。
「お父様も全て覚えたのでしょうか?」
「武芸にも積極的でしたので、あまり深くはありませぬが、一通りの教養はお持ちです。ですから、知勇の将と評判なのです」
さすが房基。
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月の終わりに公家が大人数で土佐に下向してきた。大半は俺の手習いの先生としてだ。
変わったところだと土御門家と勘解由小路家から来た。この両家は陰陽師として有名であるが仲が良くない。何故、一緒に下向させたのか分からないが小さいことでいつも張り合っている。
勘解由小路在康は町顕古の血筋の者が嫁いでいる関係から呼ばれたのは納得できるとしても、土御門有尚は何故か分からないが一条本家が下向の募集をした時のアピールが凄かったらしい。陰陽師は間に合っていると断ったが、どうしても行くと聞かなかったみたいだ。
その有尚だが、俺に会った時に「眩しい」と言って手を目の上にかざしていた。
身振りがあまりにも大袈裟で近寄りがたい。
話をする時に顔を赤らめてにじり寄って来るし、もしかして衆道を好んでいるのかもしれない。
あなや、あなや。
人知れず、後ろの穴をキュッと閉じる。
公家の下向は、貿易が盛んに行われ銭や物が豊富な西国が人気だったようです。下向するにも伝手は必要であり、一条や大内、大友には多くの公家が下向しています。一番人気は、やはり大内家でしょう。




