106.蜻蛉
1553年 9月(天文二十二年 長月)
「こなたは老馬なれど、合戦に慣れておりまする。滅多なことでは動じることござりませぬゆえ、ご安堵を」
「ほう、これは良き馬ぞ。名はなんと申す?」
「薄墨にござります」
「薄墨か」
「左少将様を御乗せするにふさわしき太い馬でありまする。背に乗せたる鞍は我が父から孫娘の婿殿へと預かって参った次第」
京を発つ前、女官より渡された紙が薄墨であったなと思い出し何やら縁がありそうな馬である。これからいくさへ向かうにあたり、乗る馬と縁があるということは幸先が良いと兼定は喜んだ。
太く立派な連銭葦毛の馬が煉革の札で作られた馬面と馬鎧を付け、勇ましさをより一層きわ立たせている。背にはその体躯にふさわしく眼龍細工が施された金覆輪の鞍が置かれ、腹の横に同じく眼龍の鐙が提げられていた。
一条家は兵を三手に分かつ。
大津城へと進む主だった将は、大将の一条兼定を始めとする東小路大蔵卿教行、羽生監物、土居宗珊、長尾惟宗正直、渡辺主税介、佐竹義之、義直、仲弥藤次、一円隼人を先として、宇都宮房綱の勢をともなった千八百。
残る千の兵は源掃部康政を侍大将に据え、小島政春、政章、和井舎人佑、大岐政直、片岡茂光が伴う。加久見宗頼が、二宮房資、伊与木高康と共に兵五百を率い舟を守る。
「ゆめ、気取られることなきようにな」
「ご懸念ございますな」
康政は兼定の戒めにそう答えると、西園寺が逃げる先の山向こうへと発っていった。その背を見送ることなく兼定も大津へと発つ。
山に入るまでの道は手入れされ、幅は弓杖ひと杖ばかりだった。山道ともなれば二人が並んでは歩けぬほど狭く険しくなっていく。大津城までは西国五里ほどの遠さとあって、山を登りきると、休む間もなくすぐさま馳せ下る。千八百すべての兵が下り終えたのは山を登り始めてから二日後のことであった。
樹雨が降る朝まだき。
兼定は、夜が明けきらぬうちに起きた。
すでに暦は神無月へと変わろうとしている。
晦日が近い有明の月は、じっとりとした厚い雲に覆われ、終ぞその姿を見ることはなかった。
周囲には霧が立ち込め、山の頂を覆う。常であれば朝晩は冷えるのだが、いやに生暖かく、さほど凍えもしなかった。
昨夜、通り雨がさっと降ったためか、薄暗き中でも一段と濃く見えるこの霧は、早々に晴れることはないと思われた。
出立は日が昇る前とする。
足軽たちは、柿渋を引いた直垂を詰め紐でくくり、小袖の裾をからげて袴の腰紐にはさむと、鎧をまとい、竹造りの空穂をかき背負って兜は手に持つと、急ぎ集まった。
枯れ草の中、芒だけが大きく頭を揺らしている。
草の根を分け入り、一条勢は進んでいた。
草摺が揺れるたびに金具もこすれ、さやさやと鎧が鳴る。用心しつつの行軍は、山を降りてから更に二日が過ぎていた。
もはや、霧の向こうには敵陣の影が見えている。揺れる芒の中で人影を見つけるのは、容易ではないが、向こうからも見えて当然。
だが、陣中は慌てるような声もなく陣太鼓も鳴っていない。云わば、そのそぶりもないのだ。
そのまま、感づかれないように息を殺しながら身を潜めた。
■■■
兼定が、死を覚悟するのに刻はかからなかった。
いや、死というものを想像できていなかったわけではない。父の最期を目の当たりにしたことで、死を肌で感じたその時に、否応なく覚悟せざるを得なかったのである。
義を見てせざるは勇無きなり。
何よりも正しきを重んじ正しくあろうとする心。
その思いだけが兼定の体を動かしていた。
すでに、八分あった恐れは義憤へと変わり、あるのは二分の緊張だけ。
大津城は、比志川を背にした平城で、口二丈、深さ二丈ほどの堀をつくり、鹿砦をかき、高矢倉を構え、木柵にかい楯を押し並べ、木戸の近くは狭間が設えた土塀にて囲まれていた。本城までは十丈ほどの高さを誇る堅固と言える城だった。
長い間の合戦ともなれば、矢も減る。
それでも、水は川から汲めるため、敵兵を相手にひと月もふた月も持ちこたえることができると思われた。よもや、城が落ちることはないとしても、西園寺に攻め寄せられて無事とはいかないやも。兼定らが焦っていたのはそこだった。
向かってくる敵兵には、宇都宮房綱の手勢から当たっていく。
■■■
城攻めの中、まず異変に気が付いたのは長く西園寺の家老を務めていた上兜光康だった。
最初、草陰と見分けがつかないほど遠くに見えた影。うっすらと霧がかった一町ほどのところをうごめき、それが人影だと分かるころには敵兵であることを肌で感じ取っていた。
「いかぬ!」
慌てた。
光康が居たのは、本陣にほど近い三町ばかりのところ。
しかし、多くの兵が城を攻めるべく土塁へと取り付いていた。だからと、このまま敵兵を進ませては、むざむざ本陣へと攻め込まれてしまう。
そこからは素早かった。
すぐさま引き太鼓を打たせ、本陣へと敵襲を報せる伝令を出すと、近くにいた兵だけを引き連れ、敵足軽がひしめく群れに突き入らんと馬を走らせた。
一条勢は、合戦の始まりを告げる甲高い音の鏑矢を飛ばすと、一斉に鬨の声を上げた。大津城の上、梵天まで届かんと思うほどの大音声。
家臣には、いくさの腕に覚えがある者が多い。鎮西の古兵と恐れられた土佐兵が、太鼓の乱声とともに西園寺の本陣を目掛け駆け出していた。
「押して推参仕らん!」
年もまだ若い身空。
声をあげた兼定の焦りも気負いも感じさせない涼しげなる様は、正に大将たる佇まいだった。内心の思いは別としてではあるが。
「錣を傾けよ! 内かぶと射さすな!」
羽生監物が叫んでいる。
いくさ場で物事を決めるには経験がものをいう。
それが無い者は、書で得た知識でもって補い勝ちを掴まねばならない。いくさとは生き物のようでもあり刻一刻と情勢が変わっていく。されども、人の為すことである以上は思いや考えが動きに表れるもの。その一瞬を見逃すまいと隈なく見る。兼定は『合戦』というものの本質を間違いなく捉えていた。いくさ場は若き大将を疾風の如く成長させんとする。
一条の将兵は、遠くであれば弓で射止め、近くの敵は薙刀で斬っていく。西園寺の兵が追いつくと、組みついて槍で止めを刺す者もあり、刺し違えて死ぬ者もあった。
佐竹義之は、白き篦に山鳥の尾でもって作られた矢羽を付けた十四束もある矢を、すぐさま番え引き絞ってびょうと放つ。三人張りの弓は、他の者が持つ弓とは音からして違っていた。
放たれた矢が、光康の右の腕を射ち落とす。光康はたまらず馬から飛び降りた。そこへ一円隼人の薙刀がずむと襲い兜を叩き割り、返す刃で頸を切って落とした。
崩れるように倒れ伏した体。あとからあとから血が溢れ出し、見る間に血溜まりが出来上がる。腕に刺さる矢には、沓巻から一束ほどのところへ「佐竹掃部少輔」と墨漆で名が書き付けられていた。
「余計なことをしおってからに」
隼人は手柄の邪魔をされ、苛立ちと共に吐き捨てたが、矢を放った弓取りへと礼代わりに薙刀を高く上げる。隼人の性質からいって喜んでいないことも承知の上で、作り笑いを浮かべた義之も弓を掲げてそれに応えた。
後悔しても遅じ、最早どうにもなるまい。
薬師寺五郎三郎は負けいくさになるであろうことを悟っていた。
それでも我が主を討たせじと、隔てるように中へ入って敵勢の頭を押さえ込む。五郎三郎の前に将と思しき、一騎の敵兵が行く手を塞いだ。数合薙刀で切り結ぶと、さぞや名のある将と見て、この者を討ち取って敵の気勢を削がん、と薙刀を握る手に力を込めた。
それを見透かしていたかのように渡辺主税介は大振りとなった薙刀をかい潜ると、兜の緒もろともに喉元を切って捨てた。
五郎三郎は手綱を握る手を離し斬られた喉へ右手をやると、ぬるりとした手触りがした。見れば、曼珠沙華のように鮮やかな赤い血が掌一面に付いている。
見回せば、依然として敵兵の勢いは衰えることを知らず、遠く本陣に迫りつつあった。大将の身は危うく見え、薄れる意識の中で主の身を案じ、また敵に敗れた口惜しさとが相まって一言だけ呟いた。
「殿…… 」
直後、馬から地へと滑り落ちて二度と動くことはなかった。
家藤監物信種。
髪はおろかひげまでも白くなった老体である。
板島丸串館に居を構え、西園寺家の当主二代に渡って仕える歴戦の将。
その信種が、敵兵の囲いの中で土居宗珊を目掛け馬を進ませ声を張り上げた。
「罷り通る!」
並びの一条兵が矢を引き絞り、射る。続け様に次の矢も放つ。
太腹を射られた馬が痛みで跳ね上がった。
どっと倒れる馬の足を飛び越えて、降り立つ信種。その鎧には幾本もの矢が突き刺さっていたが、よほど良き鎧と見え、体まで届いた矢はわずか二本だけであった。
信種が近づく足軽を睨みつけ薙刀を高く構えたその刹那、ずんと鎧の脇から矢が突き立った。究竟の弓の上手が放った矢は、深く突き刺さり、その鈍い痛みは死を覚悟した将にさえ地へ膝をつけさせた。呻くばかりで満足に息もできぬまま、信種は間もなく命を落とす。
矢でもって討ち取ったのは一条家の家老、土居宗珊。その高名は、いくさ目付けである東小路教行の帳簿へ一の功とぞ記される。
兵は浮き足立って、慌てふためき逃げ惑う。
行く手にいる自軍の兵を突き退けて逃げる者、深田へ馬もろともに打ち入れて動けぬところを討ち取られる者など西園寺の兵はさんざんに打ちのめされた。
仲弥藤次は敵兵をねじ倒し、太刀の鞘を払って首元へ突きつけると、一息に引き抜いた。首を斬られるも手で流れる血をおさえながら、もう片方の腕で藤次の足へひしとしがみつく。わずらわしいとばかりに手荒く蹴り倒し、次の敵兵へと向かう藤次。残された足軽兵は咳き込み口から血を吐き、苦しげに息をしていたが、やがて上下させていた胸が動きを止め、目からは生気が抜け落ちた。
さらに一条勢から詰めの兵が押し寄せ攻め立てると、空穂にあった矢をみな射つくして、西園寺の本陣は潮が引くように退いていく。
本陣が後退したことで、大津城への城攻めも今日が最後と思われた。日が傾き始めた申の刻入り、立ちはだかった西園寺の兵は皆攻め破られ、助かる者はわずかである。
■■■
秋深し。
急に日が短くなった九月の終わり。
夕暮れを蜻蛉が飛んでいる。
もう目と鼻の先まで冬が迫って来ていた。




