104.瓢箪
投稿が遅くなって、すみません。
先日『登場人物①−2』にイラストを挿入しました。
1553年 9月(天文二十二年 長月)
陣幕が風にはためいている。
布地を一番下からまくり上げた男が入ってきた。
さっと加久見の背後へ回り、なにやら耳打ちをしている。
陣幕の入り方にも作法がある。
一番下から入ったということは物見の兵だろうか。
宿毛に集う者の顔は、そのどれもが歴戦の将を思わせるものだった。将の家臣らもまた厳しい顔つきをしている。
見知った顔ばかりではない。
素性は、陣幕の作法や鎧の縅で見てとるしかない。
将は皆、様々な縅の甲冑を身にまとっている。
宗珊であれば黒縅を、その家臣は韋縅。そして、官職を賜っている俺は総菊綴を付けた金襴の錦の直垂にして、袖は置括の緒でしぼり、臥蝶丸の紋様が浮かぶ白練絹で織られた腰紐を締めた上で、紫裾濃の鎧を着ている。
これがまた目立つ。
大将なのだから仕方ないにしても、戦さ場では敵兵に見つからないように周りを人垣で隠してもらういたい。
使う縅しの色に明確な決まりはないが袍の色と同じく順に沿う。上から深紫、浅紫、深緋、以降は浅緋、深緑、浅緑、深縹で、若者は浅縹、無冠のものはひとしく黒色とされている。
これらは絶対ではないが配慮されるべきものであり、身分を超えた色や主より上の色を付けると眉を顰められるくらいには不文律ともなっている。
つまり、戦さ場で縅の色を見て名のある将か見分けられる。落ち行く主の身代わりとなって家臣がその鎧を身に着けるのも、敵勢が縅の色を見て追ってくるからだ。
家老の宗珊であれば、緑の縅をつけてもいい。配下に派手好きな者がいたら、洗革で縅した鎧ではつまらないだろうな。
鎌倉時代を経て、甲冑は用途に合わせて少しずつ変わってきた。将は弓を使う事を想定して、いわゆる大袖付胴丸だ。その昔と違って今では、大袖や草摺は動きやすく造られている。
対して、足軽が扱う主な武具は槍だ。腕を振り上げても邪魔にならないよいに、兵の袖は肩に沿った造りで小ぢんまりとしている。
それぞれ、身に付けた鎧は艶がでるほど磨かれており、兜からは猛者の雰囲気さえ醸し出している。小手や脛当ても履いて、これも手入れが行き届いた太刀を佩び、大層に立派な武者のいで立ちだ。
頼もしい。
革靴は主だった将の分しか間に合わなかった。
他の者には布で足裏面を補強した革足袋だ。
裸足よりは足が痛くならないし、移動するにも楽に動けると思う。
細工を施した舟も安定して水面を走っていた。
京に上る前に伝えた通り、小舟が水面に沈む中棚あたりに瓢箪をくくりつけている。
なるべく影響しないように取り付けてあるが、やはり船足は鈍くなっていた。それでも沈みにくい、ひっくり返りにくい舟というのは安定感が違う。
舟を二艘つなげて双胴船にしているものもある。こちらの船足は鈍らない。その代わりに、漕ぎ手は息を合わせて進めるのが難しく小回りが利かない。これから使い勝手の良いように造り変えていくのが課題である。
舟に乗る者は空の瓢箪を縄で縛って腰に下げさせた。
海に投げ出されたときの浮き輪代わりだ。
鎧をつけていたら重みで物の役に立たないが、少しでも溺れないための工夫である…… 邪魔でしかたないと評判は悪いけど。
総勢二千八百が乗り込んだ大小合わせて三百余艘の舟が西園寺の領地を警戒しつつ、宿毛から豊後水道を北へ進み八幡浜の浦より陸へ上がる。
幸いなのか、追ってくる舟は見当たらなかった。ここまで、すでに二十日を費やしている。
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この浦からほど近くに伊予の荻森城がある。
そこは嫡子の豊綱へ家督を譲り隠居した宇都宮清綱が三男の房綱と共に治めていた。清綱は許嫁となった姫の祖父御にあたる。
すぐさま、宇都宮清綱、房綱らの顔を見知っている長尾正直が荻森城へと向かった。その間に、兵三百を引き連れて小島政春、政章と伊与木高康、一円隼人らが警戒に当たり、他の兵を休ませた。
昼も夜もなく舟をこぎ続けてきたのだ、漕ぎ手を担った兵もいる。かなり疲れたことだろう。
宇都宮家の居城である大津城。
ここから大津へ行くには東に見える山を越えていかねばならない。道に不慣れであれば、荻森城から道案内を頼むのが早い。西園寺家の動向を知ることもできるかもしれない。
荻森城から来た房綱が家臣を四、五人引き連れてやってきた。そこで知らされた事実により軍の動向を決めるため軍議を開がなければならなくなった。
戦をするのならば、必勝の備えを万全にして望むが常。ましてや、勝てる見込みも備えも無しに戦をするのは勇猛なのではなく蛮行でしかない。
その弄した策が崩れたときはどうすればいい?
もっと備えができたのではないか。色々な思いが頭をよぎり考えがまとまらない。まだ覚悟が足りなかったのか。
それよりも軍議の前に策を考えておかないと……




