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99.歓声

房通    = 一条 房通ふさみち (従一位じゅいちい、前関白、内覧、義父)

久左衛門  = 安並やすなみ 久左衛門きゅうざえもん (兼定の側近、直敏の嫡子)

太郎兵衛尉 = 佐竹 太郎たろう兵衛尉ひょうえのじょう (兼定の近習、義之の次子)

曽呂利そろり    = 曽呂利 新左衛門 (鞘師)

 


1553年 7月(天文二十二年 文月)



 茶会の帰り道。

 牛車が(くぼ)みに()まってしまった。


 先日の雨で土が流されたのか、道が荒れていたようだ。よく見れば、ところどころ窪みが出来ている。こういうことは、さほど珍しいことではないらしい。


 これまでは皆が気をつけてくれていただけで、他家の牛車が動けなくなっているのを見たこともある。まぁ、車輪が嵌まってしまうのは、その家の恥ではあるが。


 起きてしまったものは仕方ないと割り切ることも必要だ。まぁ、できるだけ早く脱するに越したことはない。


 というか、薄らと雪が積もった日や雨上がりにも出かけたことがあった。よくぞこれまで順調にやり過ごせてこれたものだ…… かえって良かったのかもしれない。あらためて、家中の者らの苦労やありがたみを感じることができた。不平不満などあるものか、いや、むしろ感謝しかない。



 外を見れば、立ち往生している牛車に気がついた者らが足を止め始めた。あの紋は一条家の牛車、どれほど早く脱するのか、と品定めでもされているかのように感じる。見事に抜け出そうとも、手を焼こうとも、話の種にはできるのだ。


 こういった類いの話であれば種はいくつあっても良い。その気持ちも分からなくはない。渦中にある者にとっては煩わしいことだが。


 そういう噂は、あっという間に広まる。


 そうなれば「どこそこで嵌まっていたらしいね」と京御所で小馬鹿にされたりなんてこともあり得るだろう。それは、先導していた家中の者はもちろん、引いては一条家の恥となる。



「急ぎ引き上げさせまする」

「良い、良い」



 車輪の様子を見た下男が久左衛門の耳元で何事か囁いている。太郎兵衛尉も、いつになく深刻な顔をしていた。



「何ということか…… 御所さま、存外に深く嵌まりこみ、抜けるには(とき)がかかるやもしれませぬ」

「そは致し方なし。幸いなことに、あとは屋敷へ帰るのみ。()くことはない、ゆるりとやりやれ」

「はっ、急がせまする」



 焦らずにやれと言ったつもりが、伝わらなかったのか?

 急がば回れ(にお)の海と言うし、焦ってもいいことはない。失態してから挽回するには、堅実に進めるのが一番だと思うのだが。



 聞こえてくる声からは焦りが見て取れる。

 窪みは泥濘(ぬかるみ)となっており、上手く抜け出せそうにない。近くに手頃な棒切れでもあれば何とかなるかもしれないが見当たらないのだろう。


 前後に分かれて、ひたすら力を籠めている。

 わずかに窪みを登りはするものの、すぐ滑り落ちてしまう。少しでも軽くするため、降りた方が良いかもしれない。



「これ、(はしたて)をもて」

「お降りになりますので?」

「うむ」

「それだけは、なりませぬ」

「なにゆえに?」

「御所さまをお降ろししたとなれば、一条家の恥となりまする」



 降りても恥か。

 命長ければ恥多しと言うが、家の恥ともなれば房通(ふさみち)から小言があるかも。



「早よう抜け出したいのであろう?」

「ではありまするが…… 」

「なれば、わずかでも軽くすべきだと思うが」

「申されることはご尤もかとは存じまする。が、今しばらく、今しばらくご辛抱くださりませ」



 聴衆の前で無様をさらすよりは、姿を見せるだけであればよほど良い。皆の体力にも限界はあるだろうし。しばらく待っても駄目だった時のため、手立てを考えることこそが役目か。


 と、外の様子を眺めながら考えていた。


 すでに人が群がり始めている。

 そこへ、人だかりの中を割って出て牛車に駆け寄る者がいた。あの顔には見覚えがある。というか、先ほどまで一緒にいた曽呂利(そろり)だ。



「お公家さまの牛車とお見受けいたしますが、いかがなされました?」

「窪みに嵌まっただけのこと」

「それは難儀な…… そうや。これをお使い下さりませ」


 太郎兵衛尉がぞんざいに答えた。

 物見の窓に顔をつけて覗き見ていると、脇に抱えていた数本の鞘を差し出している。あれは、布で包まれていたのを見るに、買い手へ届ける大事な品ではないのだろうか。



「これしきのこと、助けは無用に存ずる」

「されど、この様子ではすぐには抜け出せますまい。すでに人の山も出来ておりまする。これも、お仕えするご主君さまの為ではありますまいか?」

「…… 良いのか?」

「はい。使うて頂けますれば、これ幸い」

「さほどまでに申すのであらば、借り受けよう」

「おありがとう存じます」



 借りるって、使えば傷物になるだろうに。

 助ける側が(へりくだ)り、助けを受ける側が尊大にしている。何か間違ってやしないだろうか。これでは一条家への心証が悪くなる…… せめて後で鞘を買い受けよう。



「これであらば、抜け出せるやもしれぬ」



 太郎兵衛尉が鞘を受け取り、車輪の前へ噛ませた。それを見るや、だしぬけに曽呂利が声を張り上げた。



「ご一同、息を合わせて、引きなされ! えいやぁ、そぉぉれ! えいやぁ」

「「そぉぉれ!」」

「えいやぁ!」

「「そぉぉれ!」」



 不思議と、掛け声によって皆の息が合ったようだ。懸命に力を込め牛車を引くが、どうしても最後の一山を超えられない。本当に乗ったままでいいのだろうか?



「おうおう、皆の衆も、ぼやっと眺めてばかりいないで共に声を出してくれぇい」



 曽呂利が遠巻きに見物していた民らへ呼びかける。せめて何か出来ないか。おぉ、そうだ、扇子を貸し与えよう。音頭を取るのであれば扇のひとつでもないと様にはなるまいて。



「皆の衆よ! お公家さまが扇をお貸し下されたぞ」



 人だかりからは、おぉ、という感嘆の声が上がる。直後、見る見るうちに人垣は迫ってきて、牛車まで五歩という所まで近づいた。



「ご一同は宜しいか!」

「「をう!」」

「皆の衆も良いかぁ!」

「「「をう!」」」



 家中の者に続き、民らも応ずる。



「足並みを揃えぇ、いざ、えいやぁ!!」

「「「そぉれ!」」」

「えいやぁ!」

「「「「そぉれ!」」」」

「えいやぁ!」

「「「「「そぉぉれ!!」」」」」



 最後の一声で、鞘はめきめきと音を立てへし折れたが、車輪は見事に窪みを乗り越えた。それを見るや否や、民衆からわっと歓喜の声が上がる。物見窓から見える家中の者も、どこか誇らしげに喜びあっている。


 気が付けば、掛け声に合わせて俺も声を上げていた。不思議なことに、この場にいる全員の気持ちがひとつになった気がする。皆も同じ思いではなかろうか。



 ひとこと礼を言うべきか。

 御簾(みす)を上げて牛車の端に立った。

 同時に、先ほどまでの騒ぎが嘘のように、しん、と静まり返っている。


 誰しもが、こちらへ見入っていた。



「皆の力添え、礼を言う。ありがとう。酒を振舞(ふるま)うゆえ、今宵はとくと味わうがよい」



 この日いちばんの大歓声が沸き起こった。

 日が暮れかかっていたため、曽呂利への礼は日を改めてということで話を付け、家路へ着いた。




 ■■■




 民らに振舞ったのは、興福寺に属する正暦寺で造られた上等なもの。酒を振舞うことで良い噂話にすり替え、なおその上で立ち往生した話は酔って忘れてもらいたいと思う。


 酒は、わずかに黄ばんではいるものの、容易に盃の底が見えるほど澄んでいる。

 ひと()めしてみると、ふくよかな香りで、酸味の後に甘みが残った。子供の舌には少し辛く感じるが。



 酒が入った壺へ灰を入れ一晩寝かせてみたら、黄ばみと共に雑味が消えていた。香りはそのままに、すっきりとした味わいで、呑みこめば仄かな甘みが残り後味の良い酒へと変じている。見た目は無色で澄んでおり、水そのもの。しかしながら『南都諸白(なんともろはく)』に比べ、はっきりとした味わいになり、好みが分かれるところだろう。


 どちらにしても美味い酒であることは間違いない。



 

新古今和歌集などでは琵琶湖を『におの海』と詠んでおり、琵琶湖と呼び名が変わるまで使われていた呼称だと思われます。比叡山延暦寺の僧が『渓嵐拾葉集けいらんしゅうようしゅう』へ湖が琵琶の形に似ていると記しています。いつしか琵琶湖と呼ばれ始めるきっかけになったと言えるかもしれません。

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