97.側室
1553年 6月(天文二十二年 水無月)
半月に一度とはいえ、随分と長い文になってしまったな。見るのは姫だけじゃなかろうに。これでは、あたかも入れ揚げているようで気恥ずかしい。
帝と謁見した三月、許嫁が決まった。
お相手は宇都宮家の姫。
それからは欠かすことなく月に二度行われる古式ゆかしい和歌を付けた文のやり取り。返し文にしたためられている文字では教養が、最後に添えられた返歌からは情緒の豊かさが垣間見える。これは、何というか…… 悪くない。
もとをただせば、お祖母さまが入道親王へ嫁探しの相談をしたことに始まる。そもそも、親王家と一条家の結びつきをふたたび強めんがため、伏見宮家の姫を内儀にしようと話し合っていたらしい。それを入道親王も一度は承知した。だが、王政復古の話をした辺りから風向きが変わり、蓋を開けてみれば許嫁となったのは、土佐に近しい伊予にある宇都宮家の姫だった。
それを聞いたお祖母さまは、約定を違えられたと珍しく不満げであった。そこへ入道親王が慌てて訪れ、なんとか三日かけて宥めすかしたのだ…… 条件付きで。お祖母さまが出したその条件というのが、宇都宮の姫は側室として迎えること。
いや、これは前代未聞の所業だ。
大名家の姫ともなると、名もあれば立場もある。嫁ぎ先から、側室として迎えますと言われれば多かれ少なかれ気を悪くするのは当たり前だ。それが正室を持たぬ男であれば多分にあるだろう。よしんば嫁いだとて、ぞんざいな扱いを受けるのではないかと勘ぐらずにはいられない。だが、宇都宮家は二つ返事で応じたらしい。
これには、お祖母さまも大層に驚かれていた。
腹に据えかねた宇都宮家が怒鳴り込んで来てもおかしくない条件に、よもや、承諾するとは思いもよらなかったに違いない。自ら言い出したことに引くことも出来ず、あれよあれよという間に話は進み、一条家と宇都宮家は仮初めではあるが縁戚の間柄となった。
だれもが成ることは無いと思った条件付きの婚姻話。よほど相手方が姫を厄介払いしたいのかと今度はこちらが勘ぐってしまうところだが、聞くところに寄るとそうでもないらしい。
宇都宮家の姫と言えば、その美しさは四国で随一と噂されている。歳は向こうが二つ上となるため、すでに縁組みを求める声は数多あり、どんな相手でも選り取り見取りだったはず。
しかし、当主はどれほど良い家柄の男であったとしても首を横に振るばかり。声を上げた中には、西園寺や河野といった近隣の四国勢は言うに及ばず、九州の大友、近畿の公家や武家、果ては東国の名門家からも声が掛かったことがあるそうな。
だからこそ、宇都宮家が不満はもとより、異議も唱えずに喜んだというから一驚だ。その訳というのも、親王家から頼まれて件の話を手に使いとして赴いたのが高位の公家であった。どうも、それが良かったらしい。
公家と確たるつながりのない一大名家へ朝廷から使いが来る。それだけでも大騒ぎとなっていたところへ、降って湧いたような婚姻の話。相手は齢十一にして、公卿を務める左少将ともなれば行く末は明るい。
朝廷より使いが来るということは、この話は帝のご存念である上に、受ければ婿となる者がさらに覚えめでたくなることは容易に窺い知れる。
しかも近隣の所領を有している摂家の流れを汲む家柄。逆の立場で考えると断る理由がないのか。いや、ここまで考えるに断りたくても断れなかったのかも。
いずれにせよ、許嫁ができたことは事実だ。
こうして今日も、まだ見ぬ許嫁のために文をしたためる。
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毎日のように誰かしらに会っているため、せわしない。日によっては、一刻ごとに用向きが詰まっているときがあるほどだ。
皆が統一した時刻を認識しているわけではないこの時代に、一刻ごとというのは多忙も多忙、面会待ちの人が列をなしてしまうくらいには密な予定と言える。
相手は公家の者だけにとどまらない。
武家人や、商人、茶人、僧、尼僧、修験者、ときには猿楽師と身分に関わらず多種多様な者と会う。もちろん、無差別というわけではなく、一条家と縁がある者がほとんどだ。
しかしながら、京洛で知り合った者も少なからずいる。武家人や商人といった者と席を同じにする機会の多くは連歌だ。といっても、さる公家に呼ばれて伺った場で顔見知りになった程度。
互いに何かあるわけでもなく、会えば挨拶をする間柄で、そこからさらに親密となる者は稀だ。大抵は一条家の屋敷まで赴いてもらうのだが、相手によってはこちらから会いに行くこともある。
今、俺が立てた花を眺めている池坊が僧の専好もそのひとり。一輪挿しの陶器を思わせるその姿。背丈はやや高くすらりとして、どことなく色気が漂う。
ここ頂法寺は立花で有名な寺だ。寺は西国三十三所のひとつで『六角堂』と親しみを込めて呼ばれている。
立花の中興の祖として名が知られている池坊専応は残念ながら十年前に亡くなっており、住持は長らく不在となっている。差し当たって、専好が住持の代わりを務めているようだ。驚くべきことに、この者はずいぶんと若い。十一である俺が言うのも何だが、二十に満たない歳で代わりを務めるなど聞いたことがない。
しかし、専好は同じ寺の僧や民にも慕われるほど人好きのする男であった。そして、その技はすでに立花を己の物としており、尚且つ個性を出すという、その道を極めた者がたどり着く境地にまで至っている。
手本としての立花を見れば、なるほどと頷けた。この寺に年嵩の僧が少ない理由も、間近でこの才を見せられて兄弟子たちはたまらなかったことだろう。ときに煌めく才能は凶器となる。意識するしないに関わらず、同じ道を志す者を自棄へと追いやってしまう。
だからこそ、兄弟子たちからきつく当たられたに違いない。いつしか多くの者がこの寺を去って埋めようのない孤独感をいだいていると、土佐に下向していた僧から聞いたことがある。悪気もないがゆえに、兄弟子が去っていく理由も分からず自らの至らなさを責める。専好の立花は幽玄でありながらも、どこか物寂しさを感じさせるのも孤高であるがゆえなのかもしれない。競い合い、互いを高め合う者がいないというのは何とも悲しかろう。
芸には力がある。
ときにそれは人を傷つけてしまうことさえも。なれど、その根源たるものは人を救わんとする心。
それを立花に込めた。
最期に、生花の葉を扱き、優美な曲線を作り出す。
「これは、何を思うて立てられたのでありましょうや?」
「不二法門でありやる」
「…… 不二法門」
本堂である六角堂。聖徳太子が建立したのが始まりとされ、ここは四神相応の地と言われている。そして、不二法門とは聖徳太子が書き残した維摩経義疏に記されているものだ。
維摩経では、相反して見えるものでも、その実ひとつであると説いている。その教えを体現せんがため、枯れた花とつぼみを相対的に生けてみせた。そのことに気が付くかどうかは専好が教えをどれほど理解しているかに掛かっている。が、この様子であれば察したのだろう。
「あまりに驚いてしもうて、声も出やりませんでした」
「はたと黙されたゆえ、これが世に聞く『維摩の一黙』かと、学ばせてもろうたところです」
「ふふっ、一条さんは経もご存じであられましたんか。なにやら、胸の内がすっと晴れた心地がいたしまする」
「それは良うござりましたなぁ」
「ほんに、ありがとう存じます」
深々と頭を下げ、前を向いたときの顔は、別人と見違えるほどに晴れやかであった。
「いやはや、幾度となく花を立てて参りやったが、これは何ともありがたい花でありますなぁ」
そう言いながら、しみじみと花を見たあとに色々と語りあった。
帰り際には、庭造りをしたときに拵えた植木はさみと剪定はさみを贈り、土佐へ下向してきた僧らとも少し話をして六角堂を後にした。
『わが思う 心のうちは六の角 ただ円かれと 祈るなりけり』
史実では1558年に伊予の宇都宮豊綱の娘を娶ります。
維摩経に関しては『61.五常』にて少し説明しておりますので、宜しければご参照ください。




