日が経つのは早いもので。
真っ暗な視界が徐々に開けてく。久しく見ていなかった気がする光に目が対応できず、全体的にぼやけて見える。
まだ寝足りないが、そうも言ってられないので上体を起こし目を擦る。
はっきりと見えるようになった瞳に映し出される景色は見覚えのあるもので、昨日気絶したままここに運ばれたのであろう。
ここ数年ですっかり見慣れてしまった一室。中世のヨーロッパを思い起こさせるような広めの洋室だ。
寝かされていたベッドの横には小さなテーブルがあり、其処には一枚の書置きがあった。
『目が覚め次第我の自室に来るように 母』
この地獄はいつ終わるのだろうか、と自然に溜息が出てしまう。ここまで育ててもらってなんだが、あいつは母ではなく悪魔だと思う。実際にそうなのだろうが。
重たい腰を持ち上げ、備え付けのお風呂に入る為に軽く準備を整える。
魔法というのは凄い。特殊な素材ではあるものの、石に使いたい属性の魔力を注ぐだけで色々な事が出来たりする。今回は、今俺の身体を温めてくれているこのシャワーとかだろうか。
昨日流した汗で冷えてしまっていた身体にお湯が染み渡る。
リラックスし、少しずつ眠気の覚めていく意識の中、何気なくこれまでに起こった事を整理していく。非日常が日常になってしまった、それだけで人間の頭は軽いショートを起こしてしまう。だからこそ、こうやって少しずつ理解しやすいよう、脳内の引き出しに入れ替えていかなければならない。
まず俺は、こちらの世界に来る前、神崎周吾という名前で高校生をやっていた。可愛い妹との幸せな二人生活、特にこれという不満も無く、このままこれがずっと続けばいいと思っていた。だが、化け物に襲われたせいで俺は死んでしまい、異世界であるこちらに転生させられてしまった。
此方に着いた当初は殆ど記憶が無く、若干ぼやけた感じで断片的にしか覚えていない。
気が付けば魔王と名乗る銀髪美女が母親になっていて、頭が悪そうな四人組に虐待を偽った修行をさせられていた。
魔力耐性を付ける為と言われ、貼り付けにされ魔法の的にされたり、剣の修行と言われ腕を落とされたり。どんな重傷を負ったところで治癒魔法でなかったことに出来てしまう。
そんなことをされ続け、もう此方に来て八年が経ってしまった。読み書き等は嫌でも覚えてしまい、そこら辺の苦労は無い。今のところ唯一赤ん坊からやり直した利点だろう。そのまま送り込まれていたら、えらい事になっていた気がする。
頭を整理している内にシャワーを浴び終え、シャワールームから出る。濡れた頭を乾かす為に頭上に魔方陣を展開し、緩い温風を当てる。
服の用意をし忘れた、と取りに行こうとして、洗面台に備え付けられた鏡に、ふと視線を移す。そこには、綺麗な白銀の髪が当てられた風により暴れまわり、透き通ったようなサファイヤ色をした瞳を持つ色白の美少年が。
余り自分の容姿や能力を高く評価するのは好きではないが、そういうしかないような見た目である。地球に居た頃は髪を結構伸ばしていたせいで自分の顔をじっくり見たことは無かったのだが、向こうでもこの様な容姿をしていたならばテレビで取り上げられるレベルだと思う。
じっくりと自分の顔を観察する趣味は無いので、直ぐに洗面台から自室に移動し、母親の部屋に行く準備に取り掛かる。
着慣れた真っ黒の戦闘服。動きを邪魔するモノは何もなく、無印のTシャツと長ズボンだ。ズボンは足首元だけ閉まっており、向こうに居たときのジョガーパンツみたいな感じである。
そんな恰好で長い廊下を歩いていき、すれ違う使用人達の挨拶に答えていく。
「おはようございます、アルト坊ちゃま。これから修行でございますか?」
「おはよ、クリスさん。そうですね、また今日も一日地獄が始まってしまいます」
話しかけてくれたこの人はクリスといい、うちの家で執事長を務める人だ。スキンヘッドでボディービルダー張りの身体を持つ人だが、とても手先が器用で破れたカーテンや服をいつも縫ってくれている。
実は俺の名付け親だったりする。
「そう嫌がらないで下さいませ。アルト坊ちゃまが此方にいらっしゃってからというもの、魔王様方はいつも楽しそうにしておられますよ」
「そうは言っても、あの人達は俺を虐めて楽しんでいるだけなんですよ」
「ふふふ、いずれ分かる時が来ると思われますよ」
では、と一礼をして仕事に戻っていくクリスさん。確かにあの人の言うことは間違いではないと思う。他の使用人達にも同じような事は言われる事がある。しかし、あいつ等が俺を毎日毎日ボロ雑巾にするのは事実なので認めたくない。
少し不満気な表情を浮かべつつ、止まっていた足を進める。
正直なところ、歩いての移動ではなく魔法による転移という瞬間移動的な移動方法で向かいたかったのだが、修行の一環としてまだ禁止されている。直ぐそこなので、これについては不満ではないが。
目的の場所に到着した。ここが本当に魔王の自室なのかと疑ってしまうような質素な造りの扉。殆ど何の装飾もなく、掛けられた“我の部屋”という札が無ければここが魔王の部屋など誰も気が付かないだろう。
一度深く息を吐き、ノックする。数秒して入れという言葉が聞こえてきたので、扉を開くためにドアノブを掴む。
「?・・・・びゃぁああああ!?」
何か掴んだ方の手に違和感を覚え疑問を持つのも束の間、ドアノブから電気が流れ俺の身体を焦がしていく。
数秒後には全身真っ黒のアフロ頭と化し、口から煙が出て行く。全身の痺れは取れず、身体が強張った状態で立ち尽くしていると、扉の向こうからくすくすと笑い声が聞こえてくる。
「ぷふふっ、馬鹿垂れが。常に警戒を怠るな、と口酸っぱく言っておったろうに」
扉が開き、俺と同じ髪色をした美人が顔を出す。長いそれを方耳に掛け、桜色のぷっくりとした唇が弧を描き、それを隠すように手を口元にやっている。
この美人さんが此方の世界の俺の母親であり、現在魔界と称されるこの地で最強と言われている魔王である。本名は未だに知らない。
悪戯が成功し喜んでいるが、された此方としては堪ったものではない。
静電気程度ならまだしも、今食らった電撃は落雷と同じ威力があったと思う。もしも俺が電撃による拷問の訓練をしていなかったら死んでいても可笑しくなかった。
「か、母さん、それは分かってるけど、今はやめてくれよ」
「今やらんで何時やるつもりなのだ?日常に潜んだ危険を常に察知していないと、将来知らぬ間に暗殺されてぽっくり言ってしまうぞ?」
ぷぷぷと腹立たしい笑い方で言われると何とも・・・・。
爆発した頭を手櫛で軽く整えつつ、恨みの籠った目を向けるが何の意味もない。
ひとしきり笑ったようで、お腹を押さえつつ中に入れと促される。
入った先は書類が山のように積まれ、周囲の壁は本で埋め尽くされている。正面には仕事机が一つ置かれ、隅の方に書類に紛れてベッドが置いてある。
いつ見ても思うが、これは人の住める部屋ではないと思う。いつもクリスさんやら他の人達が時間を見つけ次第掃除してくれているのにも関わらず、三十分も経てばこのありさまだ。
先程とは違った視線を送り、溜息を吐く。
「な、なんなのだ。人の部屋に入って溜息とは。失礼であるぞ」
「なら少しくらい部屋の掃除をしよか」
私は今猛烈に怒っている、とばかりに足音を立てながら歩いていく魔王。机の上に置かれた書類を腕で床に払い、椅子に腰かけると偉そうに踏ん反り返り腕を組み始める。
物凄いドヤ顔で見つめてくるが、今お前がやった行為は自分を屑ですと公言しているようなものだぞ。
「ではアルトよ、今からお前にはサタンの元へ行ってもらうのだ。昨日の続きでもあるから余り気負う事は無いのだが、今回はもう一人修行をするメンバーが増える為、先輩として気張ってくるのだぞ。」
(あぁ、犠牲者は俺だけではなかったのか。名も知らんが冥福を祈るばかりだ)
見えない人物に合掌をしつつ、修行所に行くために転移魔法を展開する。今日の修行内さえ知る事が出来れば、ここに長居する必要もない。それにこの部屋では転移をしてよいと許可を貰っているので直ぐに移動できる。
足元に光る魔方陣を見て焦ったのか、母親が前のめりに早口で捲し立ててくる。
「ちょちょちょ!行くの早いって!とりあえず一緒にくる子はアルトが良く知る子だから――――」
途中で言葉が切れ、景色が一変する。先程までの書類は消え、一面何もない真っ白の空間に出た。ここはサタンさんが造り出した亜空間で、この中だけ流れる時間が早いのが特徴だ。しかし身体の成長は外とリンクしており、終わったら一気に老けてしまったなんてことは無い。大体この中で五年過ごせば三日の時が流れる計算だ。
どこかで聞いたことがある気がするが、気のせいということにしておこう。
まだサタンさんは来ておらず、来るまでの間に身体を解しておこうとストレッチを始める。
もう五年以上は続けている為、俺の股は百八十度を優に開くことが出来る。肩などの間接も外せるように訓練させられた為、そちらも一つ一つ外して解していく。
大体ストレッチに十五分程かけ、次にランニングを始める。この空間が一周十キロ程度ある為、そこそこのスピードで来るまで続けていればいいだろう。
緩急をつけた走りで不規則に動き、時折前方にダイブしたり等色々な動きで実践をイメージしつつ回っていく。