山の主
大学を卒業して三年目の初夏。
高校の同窓会を兼ねて登山をしようと幹事が言い出したと聴いた時、私は例の幹事ならばさもありなん、と思った。
確か、大学ではワンダーフォーゲル部だった筈だ。
やれやれ、彼の趣味に皆がつき合わされるのかと思いながら、私は出欠の葉書をテーブルに置き、部屋に掃除機をかけ始めた。
角に立てかけてある長方形の鏡に映ったものが目に入る。
それは私ではなく、能楽などで見る猩猩に似ていた。
がたん、と掃除機を取り落す。
しかし一瞬後には猩猩は消え、怯えた表情の私が映っているだけだった。
思えばそれが始まりだった。
同窓会の日は晴れて、登山日和だった。
私はこの日の為に買い、履き鳴らした登山靴で山を登った。
モスグリーンとグレーのツートンカラー。
私のように「この日の為に」、わざわざ登山靴を買った嘗ての同級生はほとんどいないようで、そして私と違い、皆、三々五々、少人数で固まって動いている。
一人で動くのは私だけ。これは昔からのことで、苛めでも何でもなく、私の主義である。
時に剥き出しの白い岩山が見えるこの山は、登山初心者でも比較的、登りやすい山だ。
けれど不思議と、神隠しに合う者が多いと言う。地元の人間は近づかない。
トネリコやヤマトアオダモ。
青々と茂る樹々のたくましさ。
シダ植物やコケ植物、藤を含めた蔦類などの緑は多様で、季節柄、木苺の赤まで見えて、目を楽しませてくれる。
油断して迂闊に触るなよー、棘や毒のあるやつもあるから。とは、例の幹事の言だ。
楽しみながらも、それと比例して日頃の運動不足が祟り、リュックを背負った背中が汗ばんでくる。情けないことに息が荒くなってくる。脇もびしょびしょだ。
そんな時。
「ねえ。和美、知らない?」
「こっちでは見てないぞ。それより高岡、見なかったか?」
「えー。知らないよう」
同窓会メンバーの中で段々、そんな声が聴こえ始めた。
初めは一人二人なのでまだ楽観視していたのだが、時と道が進む内に、消える同級生は増えていく。
私たちの間に恐怖と疑心暗鬼が漂い始めた。誰からともなく次第に恐慌状態になっていく。
「何だよ、これ。何が起こってんだ」
今ではシステムエンジニアとして肩で風を切るような幹事の西村君も、訳が解らないという顔になっている。
当然、皆、それぞれ消えた同窓生のスマホに電話をかけてみるものの、圏外となって通じない。
そうこうしている内に、また一人消え、二人消え―――――――。
とうとう最後は、私と西村君だけが残った。
有り得ない事態に、二人で茫然とした。
私たちは警察にも事情を聴かれたし、しばらくの間はマスコミにも騒がれた。
同級生の家族たちにも散々、質問攻めにされる日々が続いた。
ほとぼりが冷めた頃、私は西村君と結婚した。
吊り橋現象、というものかもしれない。
私は結婚記念に、例の山に行こうと言い出した。
今では夫となった西村君は露骨に顔をしかめた。
世間的に見れば私の発言は非常識で悪趣味なものだろうから、これは自然な反応である。
「嫌だよ。ろくな思い出が無いじゃないか。何を考えてるんだ?」
「良いわよ、じゃあ。私一人だけで行くから」
「おいおい…」
結局、私が押し切った。
私の胸は高鳴る。
予感がする。
あの山で。
あの山で。
山の中腹。
私は、躯となった夫を醒めた目で見ていた。空っぽの瞳が硝子玉みたい。
ああ、ああ、これで。
これでやっと―――――――――。
腕を広げた猩猩と、私は抱擁を交わした。
猩猩はこの山の主なのだ。私に焦がれていたと告白する。
もちろん私はその告白を受け容れた。
誰にも見られぬと知っているから、猩猩は大胆にも、私を滝壺の横で堂々と抱いた。
昼日中。
裸身の私の白い乳房がつんと上を向いていた。
めくるめく悦楽の万華鏡に私たちは酔いしれた。
二人とも、声などいくらでも構わずに上げた。獣のように。
聴く人間とていないのだ。
その宵、私たちの祝言は、異形の者たちによって盛大に行われた。
そして数年後。
真夜中の山道を、私は高下駄を履いて歩いている。
独りで。後ろには百鬼夜行を従えている。
白無垢を着て、髪には様々の銀の簪を挿し。
チリーンチリーンと鈴が鳴る。
唇の赤は猩猩の髪にも負けぬだろう。
その唇が、弧を描く。
今では私が、この山の主である。