片恋電車
父に昔、どうしてここにお家を建てたの? と尋ねたことがある。父はビールの入ったグラスを手に、テレビから私に目を移した。
「電車で、座りたかったからだよ」
都心から離れているのが幼心に不満だった私には、父の答えは満足できるものではなかった。
がたんごとんと揺られ揺られる長い時間は、最初は面白くてもすぐに飽きてしまうから。
もっと近い方がいい、拗ねた私に父は晩酌用のちくわをわけてくれながら、そのうちわかるよと締めくくった。
電車で通学するようになって、父の言ったことを思い出す。
始発駅だから絶対に座れる。そうして運ばれていく長い時間を読書とか勉強にあてられる。立っているとそうはいかない。再開発が進んだ人気の沿線だから、駅に止まる度に人がどんどん乗り込む。最終的には、殺人的な混み具合になってつり革さえも持てなくなる。
降りるときだけちょっと苦労しても、座れる方が断然楽だ。
私は自分が日常で電車を利用するようになって、ようやく父を尊敬した。
家も駅からさほど遠くない。歩いても比較的安全な道で、父が考え選び抜いてここに決めたんだとよくわかる。
「お父さん、あちこちの路線の始発駅を何度も何度も見に行って、ようやくここに決めたのよ。その頃は土地もまだ安かったから、なんとかなったしね」
母とダイニングテーブルを囲んでその話をすると、懐かしそうに教えてくれた。
父は私が学生の頃に病気になり、怖ろしい勢いで悪くなって、呆気なくいなくなってしまった。残された母と二人で父の建てた家に住み、私は会社に通う。女二人でお酒を飲むとき、ちくわが肴になったりする。
写真の父はいつまでも変わらぬ笑顔で、私達を見守ってくれていた。
いつもの急行に乗り、決まった号車の端の座席に腰掛ける。ここが私の指定席。
乗り込む人達もなんとなくの顔なじみ。静かに座って発車までの時間を待っている。スマホをチェックして、顔を上げる。次の駅からは人が増え、そのうち窓の景色なんて見えなくなる。
一駅か二駅分、沿線の眺めを楽しむのも私の日課になっている。デザイン性の高いビルや面白い看板は目を引く。あとは沿線沿いに増えたマンション。バルコニーに干されている洗濯物は、朝からきちんと干されているのに感心したり。
可愛い柄のタオルケットが干されていると、ああ子供がいるんだなんて思ったり。
次の駅までで座席は埋まる。ぽつぽつ立つ人が現れ始める。扉に近いこの席はすぐ側に人が立つ。
この先混むと乗降時にいったんホームに出ないといけないから、慣れた人は座席の前を定位置にする。
その人も、私の前を指定位置に定めた人だった。
私が乗ってからの二駅目で乗り込んで、網棚にバッグを置いてつり革につかまる。
サラリーマンのおじさんみたいに私が脚を投げ出したりしないから、立つスペースも取りやすいんだろう。扉が開いて人並みが雪崩れ込んでも、ちょっと前にずれるだけでいい。
その人が立つと、私の沿線を眺める習慣も終わりの時間になる。あとは大人しくスマホでネットの小説を読んだり、資料用の本に目を通したりする。
私がその人に注意をひかれたのは、彼が必ず文庫本を読んでいるからだった。
だいぶ前からたいていの人はスマホを操作している。でなかったら、音楽を聴いていたりか。
サラリーマンではなくてビジネスマン、がしっくりきそうな彼はスマホを手にすることもなく、文庫本を読んではページをめくる。書店のカバーがかかっているから何の本を読んでいるかはわからないけれど、結構なスピードで読み進めている。
別に観察しているわけではない。ふっと顔を上げたりすると熱心に本に目を落としている彼がいるだけだ。電車内がぎっしり、になる頃に私の降りる駅に到着する。
「すみません」
一言かけて席を立つと彼はその場でスペースを作ってくれて、私を通す。
入れ替わりに彼が席に着く。降りる人波にまざり、階段をおりていく。それが私の日常だった。
その日も彼は文庫本を読んでいた。私は膝の上にバッグを置いて、メールをチェックしていた。
電車が発車してまもなく、急に止まる。乗客は思いがけない揺れに、とまどう。何があったのかなと顔をあげた私に、文庫本が直撃した。本の角が額にぶつかる。
「いたっ」
「あ、ごめんなさい」
反射的にあげた声に慌てた謝罪がかぶさる。バッグと体の間に落ちた本を取ることもできずに、彼は慌てていた。文庫本を彼に返す。初めてまともに目が合った。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい」
頷いている間に電車は運転を再開し、謝罪のアナウンスが流れる。
日常をほんの少し逸脱した乗客も、すぐにいつもの空気になる。降りる駅で腰を浮かせる。彼がさっとスペースを譲ってくれた。
「申し訳ありませんでした」
「あ、いえ」
もう痛くなかったのでそう伝えて電車を降りる。いつもより二分の遅延に、みながせかせかと階段に殺到する。私も列に並び、改札を通った。
会社で机にバッグをしまおうとした時、外ポケットに何かがあるのに気付く。
引っ張り出すと、金属製のしおりだった。
「これ……」
多分、彼のだ。文庫本からバッグにまぎれてしまったんだろう。
しゅっとした細身の猫のシルエットは、上品だ。机にあったチャック付きの袋に入れて、落とさないようにバッグの内ポケットに保管する。明日、彼に渡そう。
翌日、いつもの電車のいつもの席に座る。二駅目で彼が乗り込んできた。
網棚にバッグを置いて文庫本を取り出す彼の習慣は、その日は崩れた。
「昨日はすみませんでした。怪我の具合はどうですか?」
「怪我なんておおげさです。全然痛くないし痕も残っていないです。あ、そうだ。これ、昨日の本に挟んでいたのではないですか?」
しおりを取り出すと、彼は自分のだと受け取った。
その日はそれきり、また彼は文庫本を読み出した。降りるときのすみませんを言う前に、彼が体をずらす。お互い小さく会釈して、それきり私は彼のことを意識から消した。
あれ以来、乗り込むときと降りる時に小さく会釈するのが私と彼の習慣に加わった。
朝の電車でしか生まれない、交流ともいえないささいなやり取りはそれ以上は踏み込まない。知らない同士が一緒の電車で運ばれる。ただそれだけのことだ。
週明けの月曜日、私は眠い目を擦りながら電車に乗った。久しぶりに遊んだ地元の友人がなかなか離してくれずに、睡眠不足のまま出社の時間になっちゃっていた。遅れずに乗り込めたもののどうにも眠くて、私はバッグを抱え込んだ。
電車の揺れは子守歌みたいに、眠たさに拍車をかける。
かたたん、ごととん。ゆらゆらり。
頑張ってはいたけれど、ふっと意識が途切れがちになった。
「あの、降りる駅じゃないですか」
男の人の声にぼんやりしていると、彼が少しだけかがみ込んでいた。ぼうっと見上げると、彼はちょっと困ったように、降りる駅じゃないかと繰り返す。
後ろを見て、まさしく私が降りる駅なのに一気に目が覚める。彼が到着の少し前に声をかけてくれたらしく、立ちあがったと同時くらいにドアが開く。
「ありがとうございました」
「行ってらっしゃい」
慌ててお礼を言うと思いがけない返事を受けた。頭をさげて、私はホームに降りる。
夕食の支度がととのったところに母が帰ってくる。いいタイミングと笑いながら熱々のおかずをテーブルに並べる。一人の食事は味気ない。たわいない話で盛り上がりながら、お箸と口を動かす。
「今日電車で寝過ごすところだった」
「ゆうべ遅かったものね。乗り過ごさなくてよかったじゃないの」
彼が起こしてくれなかったらどこまで行っていたか。親切な人だ。
彼は私の降りる駅を知っている。私は彼が乗る駅を知っている。でもそれだけ。
私がどこから乗るか彼は知らない。彼がどこで降りるのか、私は――知らない。
レールの音が時々軋む瞬間がある。私と彼も、ちょっと弾んでまた戻った。私が乗り、彼が立つ。駅が近づくと会釈して入れ替わる。彼は文庫本を読んでいる。
――私は少し彼を意識して、でも別にどうこうする気もなかった。朝の流れに加わったある種の習慣みたいな気持ちかもしれない。
ほんの少しだけ時間と空間を共有している、電車はそんな場所。
季節が変わっても、彼の名前も知らないまんま。
夏休みになると学生が減って、普段は電車を使わないような乗客が増える。
私の側の扉からお婆さんが乗ってきた。座席は埋まり、立っている人も多い。小柄なお婆さんは人の壁に阻まれながら、どうしようという表情で首を巡らせていた。幸いにも私は端っこだ。お婆さんに声をかける。
「あの、ここ、どうぞ」
「あらあら、まあ、ありがとう」
お婆さんは周りの人にもごめんなさいねえと繰り返しながら、私の立った席に腰掛ける。ちんまりと収まったお婆さんを前に、私は手すりに体を預ける。気付くと彼と並んで立っていた。
私とお婆さんのために立ち位置を移動させていた彼は、文庫本に目を落としている。不用意に触れないように気をつけながら、隣の彼の身長に想像を巡らせたりする。
彼は平静で周囲には無関心。降車時にもう一度お婆さんからのお礼を受けて、こそばゆい気持ちでその場を後にする。私の中でちょっとしたイベントに、朝からよい気分になり会社に向かうことができた。
デスクについて、さあ仕事頑張ろうと自分に活を入れる。
彼の乗る駅は大きくて私の乗る駅よりも栄えている。乗降客も多い。女性専用の車両はあるけれど、座っていけるからと専用車両は使っていなかった。
この前席を譲ったお婆さんは夏の間定期的に電車を利用するようだった。優先席を使っているのかもしれないけれど、乗り込んできたら席を譲る。私は彼の横で彼に面している半身を、わずかに緊張させる。
何を読んでいるんだろうと彼の文庫本に興味はある。でもカバーがかかっているし、私より背が高いからページの中までは見えない。
彼にべったり張り付きそうになる注意は、立つことでお婆さん越しに窓からの景色が眺められる方にむけることにする。いつもなら背を向けているのを目の当たりにすると、気も時間も紛れる。
手すりをつかみ周りにあわせて立っていた私は、違和感を覚える。
何か、腰のあたりに触れる?
混雑しているから誰かのバッグだろうとはじめは気にもとめない。
でもしばらくして、後ろで触っているものがじわじわと動き始めた。これはもしかすると痴漢? 大きくは動けないけれど体をできるだけよじって、距離を取ろうと頑張る。でも満員電車では動ける範囲にも限りがあって、今はもうはっきりと誰かの掌が私を触っている。
大声を出して手を掴んだらいい、最近はまわりの人も厳しく対処している。
頭ではそう思うのに、情けないことに声が出ない。嫌なのに動けない。手は大胆になり、様子見をやめたみたいだった。助けてと心の中で悲鳴をあげる。行動すべきなのはわかっているのに、現実は震えて縮こまるだけ。
触ってくる手首を払っても、すぐに戻ってきた。
私は手をさまよわせて、偶然触れた彼のジャケットを引っ張っていた。彼が身じろぎをして私を窺う。もう一度強く引っ張って、目線だけで彼に助けを求めた。
彼は私と、その後ろにさりげなく視線を移している。文庫本は網棚に無造作に置かれてすっと手が下がった。後ろで息を飲む気配がした。彼ががばりと振り向き、誰かの手首を掴んでいる。
「おい、何をするんだ」
真っ赤な顔でサラリーマンが叫ぶのをよそに、彼はぎっと唇を引き結んでいた。
「今痴漢していただろう」
「嘘だ、でっちあげだ。手を離せ、私は降りる」
「ああ、一緒に降りようか。誰か手伝ってください」
よく通る声、混雑していた車内は私達を中心に距離ができていた。
片手で痴漢の手首を握り、彼は私を見つめる。
「降りましょう。申し訳ないですが私のバッグを下ろして持って行ってもらえませんか?」
こくこくと頷いて網棚に手を伸ばす。ドアが開くと同時に周りの人も痴漢を外に出すのを手伝ってくれる。
喚いていたサラリーマンも、駅員を呼ばれ彼以外の目撃者の証言を聞くとがっくり項垂れて駅の事務室に連行された。駅員が顔を覚えていた、常習犯のようだった。
恫喝や泣き落としや喚きちらしを織り交ぜで、駅員の通報でやってきた警官に連れて行かれる。私も色々聞かれて書き留められる。彼も目撃者としてやり取りしていた。
「もう結構ですよ」
解放された時には始業時間が過ぎていた。会社に電話して上司にあらましを伝える。スマホを終話にして彼の方を向くと、彼も連絡を入れている最中だった。
彼の通話が終わるのを待って、頭を下げる。
「ありがとうございました。一人じゃ……泣き寝入りでした」
「当然のことをしたまでなので。ああ、そうだ、これ名刺です。何かあったら連絡ください」
「あっ、私の連絡先も教えます」
降りる駅じゃないところだったから、二人でまた電車を待つ。
「女性専用車両に乗ったら?」
「そう、します。その、遅刻じゃないですか? 迷惑かけてごめんなさい」
「謝らない。必要ないでしょう?」
ぴしゃりと言われて、もう一度頭を下げる。ほら、女性専用車両はあっちとジェスチャーがあって、私は移動する。入ってきた普通電車に乗り込む。ちょうど彼も乗り込むところで、私に手をあげて挨拶してくれた。
車両の化粧品とコロン、きつい柔軟剤のミックスされた空間に辟易しながら、災難とその後の成り行きを振り返る。バッグの中にはもらったばかりの名刺がある。
慌てていて名前もなにも確かめる余裕なんてなかった。
お礼をした方がいいのかな。でもお礼ってどうすればいいんだろう。あれこれ迷っていた私は、ふと図書カード、と思いつく。いつも文庫本を読んでいるから図書カードだったら。
今日も読んでいたし……そこではたと気付く。
彼は文庫本を網棚に放り投げていた。あれを私は回収――していない。
失態にひとり、おたおたする。
翌日は迷いに迷っていつもの号車に乗った。立たなければ、いいのだと自分に言い聞かせる。発車してから緊張に苛まれる。彼は乗ってくるだろうか、どんな顔をすればいいのか。
一つ目の駅は問題なし。次に行くまでにレールの音に負けず劣らず、動悸を感じていた。
電車が減速してホームに滑り込む。完全に停車して――ドアがあいた。
どきどきしながらバッグを握りしめる。
彼が私の視界に飛び込んできた。
私の前に立ってしっかりと目を合わせる。
「――おはよう」
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
「何か連絡は?」
「警察からありました」
ゆうべ名刺を何度も見返して暗記した名前を、でも呼べない。
何も言えないまま電車に揺られてしまう。お礼も、お詫びもできていない。いつ言おう、いつ切りだそう。逡巡する間にも電車は私の降りる駅についてしまう。
自分にいらだつままに立ちあがり、よけてくれた彼に勇気を振り絞る。
「これお礼とお詫びです」
「お詫びって、別にあれは迷惑じゃない」
「文庫本まで気が回らなくて、私忘れてしまったからお詫びです」
彼はあ、と小さく呟いた。
「頭からすっぽ抜けていた。気にしなくていい」
「そういうわけには。これで買い直してください」
図書カードの入った小さな封筒を押しつけ、ダッシュでホームに降り立つ。
まだ心臓がうるさい。彼の反応も確かめずに行動してしまったのは、我ながら大胆だった。明日からは女性専用車両を使うことも考えよう。あの痴漢にまた遭遇するかもしれないのは怖い。
でも今日だけは、ちゃんとお礼をしたかった。
昨日から異様に後ろを気にしながら私は階段へと向かう。
翌日から時間も車両も変える。母は話を聞いて、大変だったねと労ってくれた。父が今いたら怒って大変だっただろうと、母は確信をもって断言する。怒鳴り込んだかも、なんて娘を脅す。
立つしかない途中の駅より父がこだわった始発駅に、私は感謝する。父の写真の前に缶ビールとちくわを供えた。父は相変わらず笑っている。
女性専用車両は安全で、だんだんと恐怖を払拭できた。
彼のような人が前に立つこともなく、特定の誰かを意識することもない。
温い安全に埋没するような出勤を、私は続けた。
週明けの朝、ホームに立つ私に彼が声をかけてきた。
「おはよう。いつもの車両に乗りませんか?」
「……おはよう、ございます。なんでここに? 駅、急行で二つ先ですよね」
「それは、まあ……座って行きたいなと思ったから」
「始発のメリットですね」
ぎこちなく受け答えて、女性専用車両のところから移動する。
いつもの号車のいつもの座席。違うのは隣に彼が座ったこと。おもむろに彼は文庫本を取り出した。
「駅の遺失物に問い合わせをしたら、ちゃんと保管されていて手元に戻った」
「可愛い猫ちゃんのしおりごと無くなったらもったいないなって思っていたから、よかった」
「もし誰かに席を譲る場面があったら――俺が立つから、それまでは隣に座って」
自分のいいように解釈しまくって、顔が赤くなる。
彼の名前、彼の読んでいる文庫本のタイトル、その他色々を私は知った。
彼が文庫本を読むのはもちろん読書のためと、両手を上の方で塞ぐことで痴漢に間違われないためだったそう。隣りに腰掛けて話をするようになり、ぽろぽろと情報が零れる。
「実は、つむじを結構見ていた」
「私は、靴を」
振動より早いリズムの心臓を宥めながら、私の想いも走り出す。
レールには両輪が必要なんだと、後になって彼が笑いながら告げた。




