少年少女は、出会う。 ②
2
◆
5分ほどしてようやく立ち上がることのできるようになった女の子は、落ちたバックを拾って、俺の家のドアを潜った。
「そ、そのぅ……私、お邪魔しちゃっていいんですか? もう夜も遅いですし」
恐縮気味に彼女は俺にそう尋ねてくる。
「いやいや! 怪我の手当てもしなくちゃいけないし、それに今は俺一人だから大丈夫!」
ほら、あがって! 来客者の為のスリッパを差し出して、俺は彼女をリビングへと誘導。そこで俺はハッとする。
――待て。ちょっと待て。俺一人のこの家に夜遅く、それもパジャマ姿の女の子を招く……?
『俺一人だから大丈夫!』
いや大丈夫じゃねえよ! 俺は数秒前の自分の台詞に難癖を付ける。通報されれば一撃で逮捕ものだぞコレ! しかし、女の子が夜に来ることが恵美以外に無かったので、この感覚はやけに久しかった。
もしかして、俺は今嬉しがっている? いやいや反省しろ、俺。仮に女の子を怪我させてしまった張本人は自分だということを忘れないようにしよう。
暗闇の部屋を手探りで壁を触っていき、電気のスイッチをその手が捉え、ONにする。ここで部屋は片付いていたっけと不安になったが、電気がついて、何とか汚い部屋でなくて安心した。
「さ、狭くて汚い部屋だけど、入って」
本当に狭くて汚い部屋で申し訳ない気持ちを感情に篭めて俺が言う。一人で暮らすには十分な広さなんだけどなぁ。いや広さという問題などたかが知れている。それ以前に見知らぬ女の子を夜、家に招くということで俺の貞操力がやばい。いや、やばいって何ぞや。
「うわ――っ!」
女の子が腹の底から声を出す。どことなくではあるが、嬉しそうではきはきとした物言いだった。
「素敵なお部屋ですね! 私、憧れますっ!」
「えっ、いや、そんないい家なんて……」
まずい。間違いなくコレ、彼女に気を遣わせてしまっている。せめてリラックスして貰いたいのに……。
「あっ! 早く手当てしなくちゃ! ちょっと待ってて、えっと……えーっと……」
名前が分からない。どうする、適当に言ってみるか。いや馬鹿ッ! 心の中でそんなノリツッコミを入れていると、彼女がそれを察してくれたようで、にこやかに、
「姫華です。片桐、姫華です」
「か、片桐さんね! じゃあ急いで救急箱取ってくるから!」
俺が「姫華さん」と名前で呼ぶことも考えたが、どことなくうら恥しく、そもそも知り合って間もない女の子に対して失礼だと、結局妥協して苗字で呼んでしまった。俺情けない。小さなため息をついて、俺は救急箱が置いてある寝室へと向かった。
「――よしっ、これでOK、っと」
ぱんぱん。片桐さんの手の平に巻かれた白い包帯を軽く俺の手の平が触れる。
「ごめん。あんまりこういうのやったことなくて上手くできたか分からないんだけど……大丈夫? 痛くない?」
「はい、ありがとうございます。すみません、こんなことまで」
ふふっ、と片桐さんが朗らかに笑ったように見えたが、その中に色っぽさと言うかなんというか、嬌笑が混ざっているようで可愛い。さっきから俺可愛い可愛いばっかじゃねえか。でもそんな仕草を見せられると、俺もつられて笑ってしまう。
「それじゃ家まで送っていくよ。もう21時だし」
「……」
俺のその言葉の後だった。片桐さんの笑みが消え、表情が暗くなり、ついには顔を下に頭を垂れて項垂れてしまう。
まずい。地雷踏んだくさいぞ、コレ……。
「あっ、えっと、ごめん……。まずいこと言ったかな」
「いえ、あなたは――えっと……」
んーっ、と首を傾げる片桐さんを見て、
「あっ、俺は桜井祐助。よろしく」
「祐助、くん」
あぁっ! ソプラノの声色で最後に俺の名前を呼んだのは母さん以来だ! 生きてて良かったと思える時って本当にあるんですね。
「今日、いえ、その……ご家族の方はいつお戻りになるんでしょうか?」
「あぁ、うちの母さんよく単身赴任しててさ。今もその最中でしばらくは帰ってこないと思う」
「そうです、か……。そ、それなら本当なら初めてなのに図々しいと思うんですが――頼みがあるんです」
「頼み?」
もしかして俺に? という気持ちで言葉をおうむ返しする。
「……その」
もじもじとパジャマの先をぎゅっと握って、口をもごもごとしているのを見るに、言うのをためらっているようだ。言いたい。しかし言えない。彼女の心の中でその二つが葛藤しているのだ。
「俺でよければ力になるし、言ってくれるとありがたい、かな」
「普通=俺」みたいに人生経験は豊富じゃないですけどね。それでも困っている女の子を見捨てることはできなかった。
「それじゃ、単刀直入に言わせていただきますと――私を、この家に置いて下さいませんか!?」
こちらに顔を近づけてくる片桐さん。ちょっ、顔近い!
「………………って、えっ?」
今リアルにポカーンという顔文字の様な表情になっていた気がする。
「えっと、それって……俺の家に泊まらせてくれ。そういう?」
「……」
無言だが、小さく首を縦に振った。確かに片桐さんは点頭してくれた。
まずい。突然の展開すぎて身体も頭もついていけない。平凡な人生を歩んできた俺に起こった一番の「刺激」が今ここにあった。
「でも、どうして? やっぱり確認しないと。家に帰れない事情があるんでしょ?」
「………………はい」
小声でまた小さく頷く片桐さんは、そのあと俺に全てを話してくれた。
「家出!?」
「私、さっき両親と口論になっちゃって……頭にきて飛び出して来ちゃったんです」
「お、おお……」
本当に家出なんてあるんだな、と驚く。漫画でしか無いと思っていたのだが。
「私、『普通』が欲しいって言ってみたんです。そうしたらお父様が怒って、そしてついにはお母様も……」
お父様お母様って普段どんな生活を送ってるんだこの子。
「私の家での生活では『普通』が手に入らないんですよね」
片桐さんがそう言って自嘲気味に笑う。その笑いは悲しみが含まれているようで何だか嫌だった。
「『普通』かぁ……。それなら俺が毎日体験していることなんだけど……片桐さんの求める『普通』ってどういうものなの?」
「私の両親は暇さえあれば私に『エリートを目指せ、目指せ――』と私に自由というものをなかなか与えてくれないんです。
何でもスケジュール通りに行動して、それ以外のことを一切許してくれなくて……。外出も許可してくれませんでした」
だから! その強くはっきりとした接続詞を口にしてから、片桐さんは話を続けた。
「とにかく、自由になってみたいんです。そして、自由になって『普通』がどういうものなのかを確かめたいんです。私がやっている『普通』なことは、世間一般の方々の『普通』のこととは違うことですから――」
なるほど。俺のような「普通」と彼女の「普通」はベクトルが違っているのか。彼女の両親はきっと片桐さんの話を聞くにセレブで、エリートなんだろうな、と何となく独断で考える。
「でも、両親さんたち心配しない? 片桐さんはそれでも家族なんだし」
娘が一人、家出したことが分かればびっくりするんじゃないか。それを心配した俺が片桐さんに尋ねてみる。
「心配する、というよりは怒ると思います。自分たちに反抗した、と」
「そっか……。色々大変なんだね」
毎日彼女がどんな生活を送っているかという詳しい概要は完全に把握できるわけではないが、大変だということは言葉からひしひしと伝わってきた。しかし、本当に大丈夫だろうか。仮にここに泊まるとして、男と女の二人きりという状況に彼女は耐え切れるだろうか。と言うか俺自身が大丈夫だろうか。「普通」に対して「刺激」が欲しいとは言ったが、この「刺激」は大きすぎる気がする。
何より、彼女の可愛さが「刺激」のレベルを上げているのだ。
(でも、俺はその『普通』に対して飽きれていたのに……片桐さんは逆に『普通』が欲しいのか……)
そして俺は、片桐さんという「刺激」が手に入る。いや決してそういう意味ではなく。
「じゃあ、ほとぼりが冷めるまでとりあえずうちに居なよ。あっ、片桐さん、学校は?」
大変なことを忘れていた。彼女は見るに俺より身長が小さく全体的に小柄だけど、それでも高校生であることは間違いない。家出なんて重い負担がかかること、少なくとも俺は中学生にはできないと思う。
片桐さんもそのことをすっかり忘失してしまっていたらしく、「あっ」と小さな声を呟き、
「富士見平高校の2年生です」
「マジで!?」
それは本当にびっくりしたぞ! 俺は気分が高調して声のトーンを上げる。
「俺も富士見平で2年生なんだよ! 何組?」
俺は3組で、同じクラスではないことは確かなはずだが。
「そうなんですか? 偶然ですねっ」
胸の前で手の平を合わせて、無邪気そうに笑う片桐さん。
「クラスは2組です。お隣さん同士だったんですね」
「うん。あまりに身近でちょっと驚きが隠せないよ」
今日はつくづく幸せな1日だ、と普段はあてにしていない神様に感謝とかしてみる。
「制服は?」
「それならここに」
と片桐さんは言って、布のバックを指差す。
「それは?」
「最低限の生活のために必要な物をほとんど持ってきました」
「け、結構計画的な家出だったんだね……」
最近の女子高校生は肉食だのああだのこうだの強いイメージがあるが、彼女は強いというか、たくましく見える。
「本当はどこかの公園で泊まろうと思っていたんですけど」
助かりました、と彼女はもう何度目になる笑顔を見せる。本当にたくましい子だ。
「でも私、今回は本気なんです。もうあんな生活は……」
表情に影をつくって片桐さんはまじまじと呟くように言った。
「……」
でもいつかは家に帰してあげなきゃなぁ、と思っていると、どこからか「ぐぅー」と気の抜けるような音が鳴った。見ると、片桐さんが恥ずかしそうにひどく赤面しながらお腹を左手に当てている。
「え、えへへ……。すみません」
たくましい子の体内で、腹の虫が目を覚ましたようだ。
「ははっ」
俺は冗談交じりに笑ってから、
「とりあえずご飯、食べよっか」
と提案してみると、
「はいっ!」
片桐さんは深く頷いてはきはきと答えた。
「わぁぁぁ……」
数十分後。テーブルの上に置かれたものを見て蘭々と眼光を鋭く輝かせているのは紛れも鳴く片桐さんであった。
「こっ、これ! これはなんですか!?」
「えっ? いや、焼きおにぎりだけど……」
「ふぇー」
口をあけたままそんな声を出して感動している所悪いのだが、これ冷凍食品なんですよね。さっき買ってきたばかりの。
「ごめんね。今あまりいい材料なくて」
「いえいえ! それに私、焼きおにぎりって食べたこと無くて!」
「えぇえっ!?」
I suprised! 受動態である。焼きおにぎりなんて俺、これで何十、いや、何百回は食べてきたのに!
「もしかしてこれが『普通』というものなんですかね!?」
「あー、なるほどなるほど……」
彼女は「普通」を知らず、それを求めて家出してきたんだった。いやでも焼きおにぎりを食べたことがないのには驚いた……と、ここで「チン!」と電子音が一回。
「ななな、なんですか、今の音は!?」
「で、電子レンジです、けど」
さっきも鳴ったんだけどね。
「電子レンジ……ほぉーッ!」
子供のように好奇心旺盛で、目がキラキラと眩しい。俺の家には彼女にとって「普通で初めてなこと」がたくさんあるようだった。
「そのおにぎり食べてて」
片桐さんにそう言い残してからレンジのもとへ駆け足。冷凍食品は冷めると味が落ちるからな。
キッチンのレンジも何年使っているんだろう。いまだに現役なのは俺の自転車も同じだ。これも彼女にとっては「普通」じゃない非日常なんだろうか。
「普通」を知り尽くしている少年と、「普通」を知らない少女。そこからはとんでもないほどの膨大な「刺激」が生まれるに違いない。お互いがお互いの願いを叶えているのか。
そんな展開、まさしく「どうしてこうなった」状態だ。
「……」
レンジから温まったエビシュウマイがのった皿を手に持ったまま頭の中で考える。快く泊まることを承認してしまったが、相手は女の子である。それも同じ学校の同じ学年という奇跡の大量発生まで怒っている。
平凡に「刺激」が欲しいと思い続けて数年で、俺はとんでもない「刺激」を手に入れてしまった。
「片桐さんの親にここで泊まって娘が生活していることがバレたら」
俺はどうなるんだろう。死刑、極刑。ありとあらゆる行為で俺を殺しにかかってくるんじゃないだろうか。
「俺、喧嘩とかそういうのしたことないぞ……」
主人公なんてやった覚えはない。握力も体力テストでは「6/10」くらいの中途半端な成績だし。握力6点、(しかも10点満点中)の主人公――格好悪いにも程があるわ。
「でも家出するまで決心した片桐さんの生活って……」
きっと、俺にとっては「刺激」が大きすぎる、スケールの違う生活だったんだろうな。両親も片桐さんに将来自分たちのようにエリートになって欲しいと溺愛して育てているみたいだし。ますます大丈夫かな、俺。
「俺、明日死なないよな……」
本気でそんなことを心にかけて思いわずらう俺を許して下さい。
「お待たせ」
あれから野菜炒めを作っていたら大分遅くなってしまった。片桐さんはまだ緊張してしまっている様子で、正座を崩さずにテーブルの前に小さく丸まっていた。
「大丈夫です。それに焼きおにぎりもとっても美味しかったですし」
皿の上には残り3個となった焼きおにぎり。6個作ったはずだが、まだ半分も残っていることになる。
「どうしたの? 遠慮せずに食べていいよ」
「いえっ、そういしたら今度は桜井くんの分が無くなっちゃうじゃないですか」
なんだ、気を使ってくれていたのか。何て優しい子だろう。……って! これじゃ片桐さんに優しくしてもらって脂下がる男みたいになっているじゃないか。
って、「桜井くん」? さっき「祐助くん」って呼んでいたような気がしたのは……なるほど、気のせいだったのか。
「大丈夫だよ。ありがとう、わざわざ気を遣ってくれて。でも本当に大丈夫だから全部食べちゃってよ」
ねっ? と首を傾げて俺は声に出さず、にッ、と歯を見せて笑ってみせる。
「それに、まだあるしね」
ことっと手にあった野菜炒めとシュウマイをテーブルの上に追加。わぁ、と片桐さんに笑顔が戻る。高まる気持ちを抑えることができないように、胸がうち震えているようだった。
「あんまり豪勢、ってわけでもないけど……とりあえずたくさん食べてくれ」
野菜炒めは正直さっきコンビニで買ってきた野菜を全部使ったので量は相当なものだった。4人前は軽くあるんじゃないだろうか。
「……あ、それじゃさっき言えなかったことなんですけど」
「?」
「――改めて、いただきます」
目を閉じ、手の平を合わせて30度ほど頭を下げながら深々と挨拶をする片桐さん。持ってきた割り箸を右手で持って、野菜炒めを口まで運んでいく。
モヤシがキャベツが口の中でシャリシャリと鳴るのを聞いて新鮮であることは分かった。しかし、一番の問題は――
「どう、かな?」
味である。いつも俺が食べている時と同じ味付け(と言っても塩コショウだけ)で作ったのだが、それが他人の口にあうかどうか――。
「お・い・し・い・で・すっ!」
何で片言!?
「本当に、本当に。私、こんな美味しいもの、食べたことないですし!」
俺の料理に対してここまで感奮してくれたのはあなたが初めてです。
この野菜炒めを食べた母曰く。
『んーっ、固い。何ていうか全体的に味がしない』
料理になっていないという酷烈な批判。
この野菜いためを食べた腐れ縁の勇治曰く。
『甘くね? なんか甘くね? 野菜炒めっていうか、炒めてない感じ? 生っていうの? あとさ、何か芯ない? 俺キャベツの芯とか大嫌いなんだよね。――あ、おかわりもらえる?』
コイツに至ってはぶん殴った。
「これが――普通なんですね」
女神に祈るようなポーズをとってすっかり感服している片桐さんなのであった。
いや待て。普通って、俺の味は特別ではないってことか……? 料理にまで「普通」が浸透してしまったあのか……。いや、でも「普通」を知らない子が言うのだから、きっとそれは本心からの褒め言葉なんだろう。……多分。
結局、俺と片桐さんの二人で多いと思われた野菜炒めをぺろりとたいらげた。
「ふう……」
どさっ、とその場で寝転がった俺は、ちらっ、と目だけ動かして壁にかかった時計を見る。
「22時前か……」
いつもならここで――と考え事をしているのと同時、片桐さんが「あの……」と手を挙げた。
「どうしたの?」
「その――お風呂、お借りしてもよろしいでしょうか」
「……おっ、お風……ッ」
いかんいかん。勝手に変なことを想像するな……。平静な心を保て――。
そう、必死に自分に言い掛け続けた。