モノローグ ― 一〇二四分の一 ―
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「何という事だ。まさか数千年を費やして生み出した最高傑作が、木っ端みじんに破壊されるとは。……修復するのに一六〇時間も手間取ってしまったではないか……」
全ての始まりに俺が知覚したのは、身体の上の僅かな重みと、暖かさだ。
それはまるで、永遠にも感じられる闇に差し込んだ一条の光だった。
ピアノ線のように細く微かな光を辿って、手を伸ばす。指先に、さらりと絹の糸の手触りが過ぎて、それからふんわりと柔らかで暖かな感覚。
鉛のような瞼をどうにかこじ開ける。鼻先を、菫と果実をブレンドしたような甘い芳香が掠める。女の人の匂い。温もり。柔らかさ。様々な感覚が神経を駆け巡り、その刺激の多さに圧倒される。
(……生きてる?)
「……どうやら修復したらしいな。痛いところはないか? 何か違和感を感じるところは無いか?」
幼く可愛らしい声の割に、老人のような口調。どこか威張っていて偉そうだ。それは、俺に気まぐれな子猫を連想させた。
目を開けると、奇跡のように美しい星空を背景に、銀色の少女が心配そうに覗きこんでいる。
仰向けに横たわる俺の腹の上に遠慮なく座って、どこかぼんやりとした表情で俺を見下ろしている。吐息がかかりそうなくらい、顔が近い。
一三歳くらいだろうか。齢の割には身体が華奢で、腕なんか折れそうに細い。手の中には、少女の柔らかな頬がある。
少女は形の良い眉をきっと吊り上げた。アーモンド形の目が見開かれる。やっぱり猫に似てる。それも気まぐれで超わがままな子猫だ。
「全く、お前は苦労をさせる。どうしてあの女に付いて次元を超えてきたのだ、自らの世界で大人しく待機しておればいいものを。
あの女に付いて世界を越えてきた《認識》はあの女が生まれて一〇二四回のうちでお前が初めてだと言っておこう。
かなりのレアケースと言えよう、威張ってよいぞ。少なくとも、お前があちらの世界で機能している事を知って、わたしは安心したからな」
つんと顎を上げて、居丈高にそう言う。
それから、少女は眉を吊り上げながらも、気恥ずかしそうに頬を染めて、頬を包み込んだ俺の左手をそっと外した。小鳥のように小さな掌の温かさが俺の手に重ねられ、そっと離れていく。
「……?」
まるで言う事を聞かない身体を起こす。というか、指先一本一本の動かし方を忘れてしまって試行錯誤をしているような感覚だった。
自分の真っ平らの胸、引き締まった腹が視界に飛び込み、自分が何も衣服を身に着けていないことに気が付く。上から下まで布きれ一枚つけていない。腹の上には先ほどのように少女が乗っかっている。ソファに座っているくらい無遠慮だ。意外と重い。
俺がここにいる経緯が、少しも思いだせなかった。目の前の少女のことも。
「……あんた誰」
少女は、舞台演劇の演技かというくらい大げさに仰け反り、青くなった。ぼーっとした表情とジェスチャーがアンバランスだ。
「……データが飛んでいる……⁉ 何という事だ、修復せねば……また徹夜か、うう……。もういやだ」
肩を落として、低い声で寝室に閉じ籠って三日くらい寝たい、とぶつぶつ呟いている。 何だこいつ。自由だな。
「……頼むから少しは話を聞いてくれよ……」
少女は涙目になり、天上をふり仰ぐ。
銀色の作り物めいた髪が肩をしゃらしゃらと滑り落ちていく。
幼いから恋愛対象とかではないが、綺麗な女の子だ。人形のような白磁の肌、ぽっと林檎色に染まった頬、インディゴブルーの瞳、すらりと長い四肢。ふんわりと裾の広がった白いワンピースを着ており、右耳の前に銀色の花弁を飾っている。
左目だけぼんやりと霧がかかったように濁っているのが不思議だ。
「……ってか、俺の上からどいてくれ。何で裸なんだ、俺」
「……お……! おおぉ!?」
少女は狼狽し、六メートルほど飛び退った。遠っ。というより、会話に夢中でまるで今初めて俺が裸であることに気が付いたかのような焦りようだ。
茹でダコのように真っ赤になり、こちらに背中を向け、どこから取り出したのか、真紅のローブを投げてよこす。
集中すると周りが見えなくなる学者に多いタイプか。
俺は周囲を見渡した。地平線まで見渡す限りの星空が広がっていて、俺たち二人は、広大な世界の真ん中で向かい合っている。。
全天に星々が散りばめられきらきらと黒いビロードの上で光を反射する宝石のようだ。足元は鏡のようにクリアで硬質の地面に覆われ、天上の宇宙を左右対称に映しこんでいる。
その中に見慣れない顔がある。
《勇者》という言葉を連想したときに真っ先に思い浮かぶような正義感の強そうな顔立ち。漆黒の黒髪はつんつんと跳ね返り、適度に筋肉のついた強靭な身体は姿勢がぴんと伸びていて気持ちが良い。同じく真っ黒な目を真ん丸に見開いて、こちらを見下ろしている。何故か真っ裸だ。俺はさっと胸を庇うジェスチャーをすると、言った。
「お前が脱がしたのか? 変態だな」
「……脱がすわけなかろうっ! 具現化を行う際に服をオブジェクト化しなかったのだ!余計なデータが混じると元通りにならなくなる恐れがあるからな!」
小さな拳を振り回しムキになって、必死に主張している。
言っていることは十分の一も理解できないが、不可抗力を主張しているらしい。
小学生の喧嘩かと突っ込みたくなるくらいの全力否定が面白い。
「裸で乗っかるなら、同じ女でももう少し……こう……成長していると嬉しいのだが」
「胸が小さくて悪かったな!」
婉曲にオブラートにくるんでみたのだが、少女は怒りにわなわなと震えた。本人は、弱体化だの、本来の姿はお前には想像もつかないほどすごいだの、またしても不可解な呟きを垂れ流している。
「……てっ!」
鋭い声と共に石ころのような何かが飛んできて、俺の頭に直撃した。
足元をころころと転がるそれは、握りこぶし大の宝石だった。球状で、半透明で、星をちりばめたような不可思議な色をしている。
俺はそれを拾い上げる。不思議とその石は生きているようにぶるりと振動した。
「何だ、これ」
「時間の断片という。主観的な人の記録を閉じ込める記憶媒体だ。それでも見て、飛んだデータを修復するといい」
手の中にすっぽりと馴染むその石は、きらきらとエメラルドグリーンの輝きを放っている。一見、丸いこぶし大の石ころだ。
「見てって言われても、どうすりゃいいんだよ」
「継ぎ目があるだろう? 回すと良い」
「……回す?」
目を凝らすと丁度石が半球状で分割できる部分に、まっすぐな黒のラインが入っている。その線を手掛かりに球体を回転させると、隙間から光が溢れる。
「…………!!!」
俺の体は光の本流に包まれた。
20120714 UP