4章 ― 休息、灰色の子供たち ―
時間の断片 少年兵 V
ガイア歴1054年7月 ミドガルド北域 アクレイリ
1
積乱雲がクリアブルーの空に累々と積み上がり、夏の空という広大なキャンパスを彩っている。
空気に交じるのは微かな潮の匂い。湿っぽい風が肌を撫で、馬車の中を心地よく吹き抜けていく。
海が近いようですよ。
そう告げると、少女は不思議そうに小首を傾げた。普通の五感では捉えられないはずだが、僕は犬並みに鼻が良いのだ。
目の前にいるのは、漆黒の髪を結い上げ、細いうなじが悩ましい、そうそうお目にかかれないようなモデル並みの美少女である。御者台の隣に腰かけて、青いローブの隙間から、すらりと長い陶器のような足を覗かせている。
この異世界へ何もわからない状態で突然放り込まれるという、少々複雑な状況のために、顔色は浮かない。
彼女の名前をクロエ・カナデという。
実際のところ、久しぶりに真名を聞いて、ちょっと感動した。
我々の世界では、名前は通常隠匿すべきものである。というのも神聖文字に組み込まれて容易に何らかの被害を被ることや、弱点などの情報漏洩を防ぐためである。信頼されているように思い、尚更、無事にお連れしなくてはと使命感のような感情が熱く滾る。
教えていただいた名は余さずお呼びするのが礼儀である。ちなみに我々の世界では、アルファベットや偽名が通例だ。だから僕も通常はVと名乗っている。
クロエとお呼びしてもいいですか、と聞くときょとんとした顔をされた。名前なのに、何故だろう。何か失礼をしたのでなければいいが。
彼女は異世界からの貴賓であり、神々の国天上までお連れするところである。
本人は力を持つことを否定するけれど、何か事情があるに違いない。何しろ、青い禁呪のローブを身に着けていないと、魔力があふれ出る水の如く体から零れ落ちてしまい、神々の敵である霜が美味なる力を求めて湧き上がる始末なのだから。
餌となるのを避けるべく、我々が第一に学ぶことは気配隠匿の魔術だ。それは体内に魔力を留めて置くための初歩中の初歩、魔術のイロハとでも言うべき術式である。
だが、泉のように湧き上がる無尽蔵な魔力を持ちながら、その初歩的術式すらも使用できないところが逆に大物感を覚えるのである。そもそも異界では敵という存在がなく、存在を隠す必要がないのかもしれないが。
異界というところは僕には非常に興味深い。この世界では、とある人物を除いて、次元魔術を使用できる流浪者はいない。だから、次元を超えて異世界へと足を踏み入れることができるのは、とある人物、たった一人だけだ。
驚くなかれ、その比類なき空間次元魔術を使えるアスガルドにたった一人の放浪者、それが我らが偉大なるマスターである。
次元魔術は、空間と次元を操作する魔術である。魔力消費量も最大であるし、使用する術式も複雑極まりない唯一無二の古魔術である。例え流浪者でも、無尽蔵の魔力を消費するために、マスター以外が使用すれば直後に命のともし火が掻き消えることだろう。
異界って、どんなところなのですか。
そう尋ねたら、何を思い出したのか、彼女は浮かない顔になった。
「……平和な世界だったのだけれど。
わたしがここに飛ばされてから、どうなったかわからないの。
来る直前、未曽有の大災害が起きて、街は……」
か細い声で言い、赤い唇をぎゅっと結ぶ。長い睫毛を伏せて、視線を足元へ落としている。僕は何と声をかけていいかわからなくて、言葉に詰まる。
そう言えば、この人間界に堕ちてきた時も、そんなことを言っていた。
胸の内に湧き上がる複雑な思いもあるだろう。直接僕に訴えないけれど、疲れもたまっているらしく、青白い顔をしているのが痛々しい。早くマスターのところへ連れて行かねば。行程は、休息も含めてあと一週間というところだとクロエに伝えてある。
「早く帰りたいけど、それは叶わないみたい。
どうすればいいのか、わからなくて。
早く君の主人とやらにお会いして、聞かなくちゃ。一体誰が私をここへ呼んだのか、わたしの世界はどうなってしまったのか。Vは、何も聞いてないのよね」
「……はい。僕は場所と時間を指定されて、マスターに任務を頂いただけで。移動中、世界をお目通し頂くように、その間不自由が無いように命を受けています。
といっても、そこであんな命を弄ぶような試合が開催されることになってるとは、想定の斜め上でしたけど。
自由参加の申請が必要だったんで、最悪入れなかったら乱入する覚悟でした。
それにしても、意外と落ち着いていますね」
「だって、パニックになっても怒鳴っても、生きていかなくちゃ仕方ないもの。
。半分、ゲームの世界に迷い込んだんだと思ってる。興味深いこともわかったし……」
わざとらしいくらいに明るい声で言って、伸びをする。
「興味深いことですか?」
「ええ。そう。
単語の意味がわからなくて混乱するかもしれないけど、考えを纏める為にも聞いてくれたら嬉しい。
……初め、わたしはこの世界に来たとき、タイムスリップしたのかと思ったの。
文明の度合いから、おおよそ西暦1300年くらいの中世ヨーロッパだという見当を付けた。そして、地名を聞いて、わたし達の世界でアイスランドと呼ばれる国だと認識した。
だけど、君が取り囲まれた時に相手が使用していた拳銃は回転式、開発されたのはどう見積もっても1700年代前半だわ。そして、一般人の家の窓にあんなに薄くて歪みのない窓ガラスが付いていることからも、1300年代というわたしの時代考証が揺らぐ。
そして、一番の原因はそれ」
細長い貝殻みたいに小さな指爪が、ぴっと僕の前腕部分に向かって跳ね上がった。
マスター特製の魔術である致死率測定器は白い色を淡く明滅して、スリープモードに入っている。
「その、明らかに電気的な物体よね。この世界では魔術と定義しているらしいけど」
「はぁ……」
「やっぱり、ここは地球じゃないのね。同じ宇宙であるかすら疑問だけれど、わたしには調べることができないわ」
「ですよねー……」
僕は目を白黒させた後、そんな間のぬけたコメントを発した。
異世界のお客様の言葉は、まさに宇宙語だ。一介の兵卒かつ若輩者である僕には及びもつかない難解な単語が並んでいて、理解ができない。
お手上げね。
クロエはそう囁いて、空を見上げた。黒曜石の瞳に青い空を映る。やはり故郷に一刻も早く帰りたい、そう思っているのだろう。
「それにしても、幅広い分野の雑学を記憶されているんですね」
「まぁね、特殊体質で。本を読むのが好きでね。よく新宿の紀伊国屋に……って言ってもわかんないか。
一度読んだ本とか会ったことのある人の顔は、忘れないの。忘れられないというか」
夏がもうそこまで来ている。波音がようやくはっきりと聞こえ始めた。
馬車が土埃を上げて街道をのこのこと走り、高低差がないため轍の跡は遥か彼方までまっすぐに目で追えた。一面に広がる草原を、心地よい海風が走り抜け、さわさわと草いきれとともに緑が囁く。
「……最近、例外もあったけど……」
曰くありげに一人呟き、思案を巡らせている。
じきに小さな村に到着します、と告げると、少女は目をきらきらさせた。
一見、冷酷な印象すら漂うクールビューティーなので、子供っぽい仕草とのギャップが非常に新鮮だ。
その怜悧な美貌に反して、意外と人間臭いのである。
もしも僕が、クロエの世界でのあだ名が『雪の女王』であることを聞いたとしたら、思わず顔の前で手を振りながら突っ込みを入れたことだろう、それはない、って。
数日間馬車を飛ばしてきたために、物資もずいぶん消費してしまった。そろそろ干し肉や飲み水、馬用の飼葉も調達したいし、眠っていたとは言っても一つ所で休息しなければお客様も参ってしまうだろうから、ここらで一息入れようと思っている。
「もしかして、お風呂に入れる?」
「それが、村には長居する予定はないんですけど、」
急にテンションがガタ落ちになったクロエを慰めるため、慌てて付け加えた。
「村はずれに温泉があります。行くなら一緒に行きましょう。見張ってますから」
そう言うと、クロエは子供のような笑顔で両手を上げ、無邪気に喜んだ。移動中ずっと、馬車の中で死んだように寝ていたので心配していたが、やっとどうにか起きれるくらいまで体力が回復したようだ。僕はその笑顔を見てほっと心で一息つくのだった。
2
――それは、刃物の煌めきを虚空に描いて、頭上から真っ直ぐに落ちてきた。
いや、正確には、落ちていた、と言った方が正しいだろう。頭上の枝葉が不意に激しく揺れたのも、当てが外れて小型ナイフがそいつの手からあさっての方向へすっ飛んで行ったのも、小熊大の大きさのそれが地面に激突してふぉぉぉぉと謎の悲鳴を上げながら痛さのあまりもんどりうつのも、全て認識外のところで行われたのだから。
僕は数歩離れたところで、乾いた小枝を拾っていたが、何かの気配を感じて振り向いたところ、小さな影が地面をごろごろ転がっているという状況であった。
どうやらまた無駄に能力を使用してしまったようだ。
「何だ、お前。危ないじゃないか」
僕はそいつの襟首を掴んで、目の高さまで引っ張り上げた。
子供である。見たところ十歳くらいだろうか。
首根っこを掴まれて宙吊りにされたが、三白眼でこちらをきっと睨み、ふーふー唸っている。まるで猫だ。
髪は薄汚れて灰色と黒のまだら模様になり、地毛の色は想像もつかない。雑巾を縫い合わせたのか? と聞きたくなるような、継ぎ接ぎだらけの襤褸を身にまとっている。そこから除く四肢は限りなく細く、少し力を込めればぽきりと折れそうだ。
村の中でも、特に貧しい生まれなのだろうと見て取れた。
「殺してやる! 覚悟しろ、この豚野郎!」
「ぶっ……何だと? 口のきき方を教わる必要があるようだな、え?」
宙吊りにしたまま、どうしてくれようかと思案していると、大きく後頭部を仰け反らせる。至近距離からの頭突き。あ、と思う間もなく、目の前に火花が散り、骨のぶつかる衝突音が響いた。痛みはない。
のぉぉぉぉぉお、硬ぇええええええ!!
ガキの声が夜の森にわんわんと響く。その声に夜の眠りを妨げられた野鳥が何羽か飛び立っていった。
残念なことに、こちらの得意技は頭突きなのである。天界一の石頭と自他ともに認める僕に頭突きを仕掛けてくるとは……不憫なやつ。
小さな敵は、真っ赤になった額を抑えて涙目になっている。一方、こちらは無傷である。殺意を持っているとはいえ、脅威にはなり得ないと判断し、手を放した。切れて血がにじみ視界を紅く染めていることだろう、子供に対して少し気の毒になる。
そいつは、感心するくらいの素早さで戦線離脱の体勢を取った。行かせようかどうしようか迷っているうちに、後方の茂みに向かって一直線にダイブし、姿はすぐに見えなくなった。まーいーか、特に害はないし、今度会ったらとっちめたらいい……。
派手な水音に我に返る。そっちの方向には、先ほど鼻歌交じりに消えていった絶賛入浴中の貴賓がいるわけで……。
「ちょ、待て、お前!!」
血相抱えて草叢の向こう側に飛び込み、はっとする。
はたして、この状況とは言え、お客様の入浴中に飛び込んで良かったのだろうか……。
「――!?」
クロエと目があった。最後の一枚の下着に手をかけて、今にも脱がんばかりの体勢のまま、時が止まったように凝固している。
僕は全身から汗がどっと吹き出すのを感じた。
素早く進路を変更したらしく、ガキの姿はどこにも見えない。
……ピンクですね……、って、そうじゃなくて!
「……いやっ、ちがっ、これはその、」
「……何が違うのよ」
胸を隠して、ひたひたと静かな足音をさせて近づいてくる。
僕は無言でぶんぶんと首を振った。
にっこり、とクロエが天使の微笑みを浮かべる。
僕も最後の抵抗とばかりに、人畜無害なスマイルを浮かべてみた。
その後数日間、右頬にくっきりとついた手形が暫く消えなかったことを、最後に付け加えておこう。
20120703 UP
20120704 修正
20120705 加筆